「頭痛肩こり樋口一葉」を見る
こまつ座 「頭痛肩こり樋口一葉」
作 井上ひさし
演出 栗山民也
出演 小泉今日子/三田和代/熊谷真実
愛華みれ/深谷美歩/若村麻由美
観劇日 2013年8月10日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 6列10番
上演時間 2時間50分(15分の休憩あり)
料金 8400円
ロビーではパンフレット(the 座)の他、「ムサシ」や「それからのブンとフン」のチケットなどが販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
これまでに何回か「頭痛肩こり樋口一葉」は見ている筈である。
見ている筈なのだけれど、どうもボンヤリとした印象しか残っていない。それでも、花蛍役といえばの新橋耐子を見られないことの喪失感のようなものはやはり大きい。
でも、さてでは前に見たのはいつだったっけ? 新橋耐子以外の配役は? と考えると思い出せないのが情けない限りである。
それでも「随分と違う」ということだけは、判る。
どうしてそう思うのだろうとずっと考えていたのだけれど、樋口夏子から「薄幸の」という感じが漂ってこないからじゃないかという気がした。
多分、私が前に見たときの「頭痛肩こり樋口一葉」で夏子(一葉)を演じていたのは有森也実で、小泉今日子と有森也実では、失礼ながら素で持っている「薄幸感」がそもそも違うような気がする。
そこを更に、小泉今日子は夏子を「可哀想」ではなく「健気」でもなく演じようと心がけていたんじゃないかと思うのだ。
それは多分、花蛍役についても同じで、新橋耐子がもう何というか、肉体がそこにあることすら毛ほども感じさせない、という幽霊だった(という印象は残っている)のに対して、若村麻由美は「そこを追求してどうする」と思っているような気がする。同じ方向に行ってたまるかというか、私には私の花蛍がある、という覚悟みたいなものを感じるのだ。
そして、妖艶かつおきゃんな幽霊がそこにいたように思う。
三田和代演じる母は、舞台の要を握りしめているような感すらある。前半の性狷介な、「樋口家が」と夏子をキリキリギリギリと締め付け縛り付ける感じから、夏子が亡くなった次の夏、自らの死を前にしてやっと辿り着いたといった穏やかな表情とのギャップが激しく、その穏やかさが心に残る。
死んでしまった後、夏子の妹の邦子に「常識にとらわれるんじゃない!」と激励の言葉をかけ、周りの幽霊たちに「え?!」と目を剥かれるのはご愛敬というものである。
ギャップといえば、熊谷真実演じた八重は、境遇の変化の激しい役である。
それが、明治の女性として「よくあること」と片付けられてしまうことの悲しさもこの舞台のテーマのひとつであるようにも思うけれど、兄妹で経営していた私学は、兄が渋沢栄一らに決闘状を送ったことから暗転、兄は獄死する。その後、兄を裁いた裁判官から求婚され一気に玉の輿に登ったと思いきや、数年で夫は外に女を作り、自分はその夫の計略で苦界に身を沈め、最後は自らの元に通い詰める男の妻に刺されて死んでしまう。
でも、その女を明るく芯強く、そしてでも悲しげに演じるのは熊谷真実ならではだ。
その八重を刺し殺してしまった女というのは、実は樋口家を間に八重とも親交のあったおこうで、元々は夏子の母が乳母を務めていたお姫様らしい。どうして勝手に時代は変わってしまったのかと夏子の母とおこうの2人が嘆くシーンがあったけれど、没落士族そのものな彼女たちからするとそういうことになるんだろうか。
愛華みれは、この役を「鷹揚」と捉え、そう演じようとしていたんじゃないかという感じがする。
おこうも、音が様々な事業に手を出しては失敗するたびに夏子の母のところに嘆きに来、その夫が亡くなるとすぐ再婚したものの、今度はその再婚した夫が八重のもとに通い詰め、夫婦関係はあっという間に冷え切った、というこちらも振り幅の大きい人生だ。見た目はあまり変わらないだけに、心持ちとしてはさらに大きな変化が合ったのかも知れない。
遊ぶのはお金が出来てからにしろと夫に言う彼女も、「明治の女」のひとつの形なんだろうか。
彼女は、八重を刺し殺し、しかしその八重に堀割に引きずりこまれて共に亡くなることになるのだ。
樋口夏子19歳の夏から、夏子の死後2年がたったその夏まで、夏子が亡くなったその日を除くと、毎年の7月16日がこの芝居の舞台となっている。
夏子という人は転居が多かったそうで、その「場所」はたびたび引っ越していたけれど、しかし、お仏壇が置かれ、この世とあの世の重なる日が舞台だということは共通する。
夏子が亡くなる日だって、そういう意味では、夏子にとってはこの世とあの世が重なった日だ。
夏子は、花蛍に「私に近しい」と言われてしまうくらい、「死」に近いところに心があったらしい。
それはそれとして、舞台の最初のシーンは、女優5人が子どもに扮し、同じような髪型に同じような浴衣を着て歌いながら提灯を振りながら練り歩くというシーンだった。
その歌の歌詞が「ぼんぼん盆の十六日に 地獄の地獄の蓋があく」であるのだから、それは死に近いというよりは、生と死を自在に行き来していた、のかも知れない。
もっとも、それでも夏子に悲壮感はなく、「死に近い」「心は死んでいる」という感じも全くと言っていいほど漂わせていない。そして、舞台全体はどこか明るい。もうちょっと、上手く言えないのだけれどトーンを落とした方がこの戯曲にも樋口一葉という人にも似合っている、ようにも思う。
悲壮感を漂わせない夏子だけれど、「紙の上」という戦場で、自らを押しつぶそうという何かと戦う。
それは、「女であること」と「女であることを攻撃する世間」なのかも知れない。女優6人の芝居だからかも知れないけれど、意外と「女の敵は女」と言いたそうな風情がときに感じられる。
最後に、夏子が「自分は紙の上で闘った」「紙の上で婦人の家を作った」と宣言した相手が、生身の人間ではなく幽霊だったのが、一葉の孤独を表しているようにも思う。一緒に闘う人はいなかったし、一緒に闘おうと言える(と思えた)人もいなかったということだ。
ラストシーンは、深谷美歩演じる邦子が一人生き残り、借家を整理し、大きな仏壇を背負い、幽霊達に見送られて家を出て行く場面である。
それは、決して「出発」ではなく、実は700円からの借金を残された彼女が借金取りから逃げるために、夏子の作品を出版している出版社の社長宅に身を寄せるという「逃げ」の場面である。
それなのに、強烈で真っ白な明かりの中、舞台奥に向かって一歩ずつ邦子が歩いて行き、その邦子を幽霊達が見送るシーンには何故か潔さがある。
一人、全くぶれることのなかった邦子だから、この先もずっと健気にそして実は強かに生きて行くに違いないと思わせる。登場した6人の明治の女の中で、最強なのはこの邦子だったのかも知れない。「生き残った」ということは、強いということだ。
再び上演する、再演に当たって「新しく」するというのは、しかしかくも難しいのだなと思ったのだった。
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