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「TRUE WEST ~本物の西部~」
作 サム・シェパード
演出 スコット・エリオット
出演:内野聖陽/音尾琢真/菅原大吉/吉村実子
観劇日 2013年10月3日(木曜日)午後2時開演
劇場 世田谷パブリックシアター 2階B列22番
料金 8500円
上演時間 2時間10分(15分の休憩あり)
ロビーではパンフレット(1200円、だったと思う)等が販売されていた。
終演後のバックステージツアーにも参加したので、そちらも合わせ、ネタバレありの感想は以下に。
小洒落た(という言葉も今や死語なんだろうか)感じの一軒家に、内野聖陽演じる兄のリーと音尾琢真演じる弟のオースティンが暮らしている。
というのは多分正しくなくて、ここは、そもそも彼ら兄弟の母親の家である。その母親がアラスカ旅行に行っている間、オースティンが留守番を兼ねて缶詰になりに来ていたところへ、兄のリーが突然どこからともなくやってきた、というところらしい。
兄のリーはとことん身勝手で自由人、ついでにあまり身なりにも気を使わず「清潔」とはお世辞にも言えなさそうな感じである一方、弟のオースティンは優等生の常識人、というイメージである。
ところで、この芝居を見ている間中、音尾琢真の台詞の言い方が誰かに似ているとずっと思っていたのだけれど、結局、誰に似ているのか思いつけなかったのは不覚である。
不覚といえば、この舞台(芝居そのものではない方の舞台という意味だ)が宙に浮いているように作られているという話は前から何かで読んでいたのに、2階席からだったということもあると思うけれど、全く浮いているように見えず、「いつになったらどこがこの舞台から浮き上がるのかしら」と思っていたのは、かなり悔やまれる不覚さ加減である。
そのことは、終演後のバックステージツアーで判明した。
前半は、45分くらいと非常に短かったのだけれど、とにかく好き勝手に自分の言い分を通そうとする(時には暴力的な素振りも見せる)兄のリーと、その兄を何とか宥めようとして、空き巣狙いまでやっている兄を非難しようともしない、でも微妙に物言いが優越感の塊のオースティンと、この2人の会話に相当にイラついた。
特にオースティンに対する苛立ちは大きい。
もちろん、これは計算された演出に煽られている苛立ちなのだけれど、それにしても、卑屈と傲慢が同居するというオースティンの物言いにイライラしっぱなしだった。
そのイライラは、最初はオースティンの企画に乗り気だった菅原大吉演じるプロデューサーが、リーが口述してオースティンがタイプした「現代の西部劇」に俄然乗り気になったところから話が空中分解し始める。
そういえば、リーが語った物語が「現代の西部劇」だったのに対して、オースティンが持っていた企画は「時代劇」の「恋愛物」で、それって、1980年代に書かれた当時としてはどういう位置づけだったんだろうとふと疑問に思った。
それはともかく、プロデューサーは本当にオースティンの企画を捨ててリーの企画に乗り、しかもリーの企画の執筆をオースティンに依頼する。兄弟合作というのも「売れる」と見込んだ理由の一つらしい。
このプロデューサーが果たして売れっ子なのか、切れ者なのか、三流なのか、ダメダメなのか、全く判断がつかないところが困る。
オースティンは、ゴルフをやって賭に負けたから自分の企画を捨ててリーの企画に乗ったんだろうと言いつのるけれど、プロデューサーとリーが「デキ」ちゃったからというだけの理由でリーの企画を取り上げることにした、ようにも見える。
けれど、このプロデューサーは「自分の勘に従って間違っていたことは一度もない」と、このときだけはやけに立派に言い切るのだ。判断に困る。
休憩後は、オースティンとリーの立場が完全に逆転している。
リーは真面目にしかし一本指でいかにも覚束なげにタイプライターを操り、オースティンは飲んだくれて酔っ払っている。要するに、自分の専門分野で、いかにも粗野な兄に負けたことにスネているのだ。
しかし、この弟、その優秀ぶりは本当らしく、リーに煽られて近所中でトースターの窃盗に成功してしまうのだから困る。
それはともかく、完全に立場が逆転した2人は、一幕目の2人の関係を再度なぞったりして、笑いを誘う。
この辺りから、俄然、楽しくなってくる。
ずっと優等生で来たらしいオースティンが、自分勝手を満喫している様子は、なかなか楽しい。大人が大人げなくスネている訳で、近くにいたらドヤすに違いないけれど、2階席と舞台くらい離れていると、楽しんでいればオッケーである。
ところで、リーの執筆はもちろん上手く行く訳もなく、何故だか物語のキーポイントにされている「オースティンの車のキー」も含めて、リーとオースティンとの間では散々取引や宥め賺しや脅迫や取引が行われ、結局、オースティンがリーの言うとおりに脚本を(手書きで!)書き、それが済んだらリーがオースティンを連れて砂漠に行き、オースティンは家庭から地位から全て放り出す、というところで手が打たれる。
大人げなくスネているオースティンではあるけれど、ここまで徹底すると何だか憐れになってくる。
リーのペースになり、オースティンの几帳面さが影を潜めると、部屋はどんどん荒れ放題になってくる。
オースティンが毎日水やりする筈だった植木鉢の数々は枯れ、リーが番号案内を書き留めようと鉛筆を探し回ったために部屋はしっちゃかめっちゃかである。
そんなところに、吉村実子演じる兄弟の母が帰宅する。
感じからするともっと長期でアラスカに行っている筈だったようだけれど、何かがあって早めに戻って来たらしい。そして、呆れ果ててはいるものの、驚いていないところが、流石に2人の母親である。
事情はよく判らないながら、会話の端々に「飲んだくれで借金まみれのだらしない男」として登場する兄弟の父親とは大違いである。
家と兄弟2人の様子に呆れ果てた母親は「モーテルにでも泊まった方がマシ」と出て行ってしまう。
しかし、それでも、リーから「砂漠には連れて行かない」と言われたオースティンはおさまらず、リーの首を電話コードで絞めることを止めようとしない。「止めたらこっちが殺される」という台詞もまんざら嘘ではなさそうだ。それくらいの真剣さである。
しかし、相手の首を絞めてまで出した要求が「車のキーを返せ」だったのが解せない。最初のうちは、「車を使った泥棒」を警戒していた筈なのだけれど、この期に及んでオースティンはどうして車のキーに拘るんだろう。
母親が出て行ってしまった後もリーの首を絞め続けたオースティンは、とうとう、リーが動かなくなっていることに気がつく。
慌てて名前を呼び、頬を叩き、確認しようとするが、リーは倒れたままだ。
何を思ったか車のキーを持って家をオースティンが出て行こうとしたそのとき、まるでバネ人形のようにリーが飛び上がり、ファイティングポーズで2人が向き合ったところで暗転、幕である。
え? ここで終わりなの? と思ってしまった。私にとっては、それくらい唐突な終わり方である。
だけど、ヘンに引っ張るお芝居より、いっそのこと潔いし気持ちが良い。
意外と狭い舞台で、ほとんどが兄弟2人、他の登場人物は、休憩前にプロデューサーが、休憩後には母親が、ちらっと顔を見せるだけで、後は2人っきりの出ずっぱり、しかも、独白なんてほとんどか全くかなく、2人はずっと舞台上で絡みっぱなしである。
密度の濃いものを見たなぁ、という感じだった。
**********
「終演後5分以内に集合してください」ということで、引き続き、バックステージツアーに参加した。
1階の最前列に集まって、まずは、舞台監督さん(今はステージ・マネージャーというらしい、知らなかった)との質疑応答である。
演出家が「2人の孤独感」「父親が(だらしなくて)いない(も同然)」を表すため、舞台を狭く、そして空に浮いているようにすることで表そうという意図を持っていること、戯曲が書かれたのは1980年代で設定は1970年代だけれど、これまた演出家の意図としては1980年代の雰囲気を出そうとしており、小物なども当時のものが選ばれていること、暗転の間にあっという間に枯れてしまったハンギングバスケットの植木鉢たちは、実はパネル状の壁が忍者屋敷のようになっていて青々としたものと枯れたものとを一瞬で切り替えられること、たくさんあったトースターは全部「使える」もので実際にトーストを焼いており、しかしトーストが焼き上がるタイミングはトースター任せであることなどが説明される。
また「この紙に血がついているようなんですが」という質問に「本物かも知れませんね」とあっさり返されて一同絶句していると、これだけとっくみあいも含めて激しい舞台だし、2人はほとんど出ずっぱりなので、セットのあちこちに絆創膏やテーピングのテープが仕込んであり、役者が自ら何とかできるようにしてあるという答えにさらに驚いた。
タイプライターにゴルフクラブを打ち付けてリーが散々に壊していたけれど、これは毎公演壊している訳ではなく、シーンに合わせて3台用意されているのだそうだ。
その他にもいくつか質問が出たところで、半分ずつに分かれて舞台裏に入った。
意外と整然としているんだなというのが第一印象である。小道具が並べてあるところをしげしげと見入っていたら、スタッフの方に「整理が行き届いていないのでそんなに見ないでください」と笑われてしまう。
裏から見ると、朝を表すために窓に向けてライトがセットしてあったり、セットの蛇口から水を出すために水入りタンクがセットされていたり、あちこちにティッシュの箱がタテに仕込んであったり、なかなか楽しい。
そして、もちろん、裏にも「目印」の蓄光テープが貼られてある。
中に入ると危ないからということで、セットの家の「玄関」までということで上がらせてもらう。
本当によそさまの家を玄関先から覗いている感じだ。玄関までだけど、土足で入っちゃっていいのね、とちょっと驚く。靴を脱いでくださいと言われるとばかり思っていた。
舞台からは(もちろん客電がついているからだけれど)客席が全て見渡せることに改めて驚く。
客席に戻ってからも少しお話をうかがったら、舞台上には結構「本物」があったらしい。
何かのクッキーの箱は「本物」だとおっしゃっていたし、くしゃくしゃになった紙にはいかにもタイプライターで打たれたような印字がされてあったし、冷蔵庫も本物、電灯の笠も古道具やさんで借りて来たものだとおっしゃる。
意外と、「作っている」ものは少ないんだなというのが意外だ。
ただ、ビールの缶は当時のものが残っていないので、絵を描いてそれを貼り付けて再現したものだという。
「作ったモノ」で一番大きかったのはおそらくキッチンで、動きやその他諸々の都合に合わせる必要があるから既製品は使えないとおっしゃる。それはそうだろう。途中でリーが引き出しを引っ繰り返したりしながら「鉛筆」を探すシーンがあったけれど、どれだけのものをぶちまけるかということは稽古場できちんと確認・調整してあるという。危なくないように、臨場感をなくさないように、ということだと思う。劇場に入ってからじゃないんですかと質問したら、劇場に入ってからはほとんど時間がないから、というお答えだった。なるほど。
世田谷パブリックシアターは、舞台面を下げることができる構造になっていて、だからこその「宙に浮いた舞台」だけれど、これから回る地方の劇場では同じ機構がないため、宙に浮いた舞台にはできないのだそうだ。
うーん、でも、私なんて知っていたのに判らなかったしなぁ、「宙に浮いた」感じを出すならいっそのこと舞台の下にライトを仕込んでほの暗く照らしてくれないかなぁ、それなら2階席からでも判ったのに、と勝手なことを考えてしまった。
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コメント
あんみん様、コメントありがとうございます。
あのお芝居を間近で観られたなんて羨ましい! 相当な迫力だったでしょうね。
そして、あんみんさんのおっしゃりたいこと、よく判ります。
確かに、お母さんだけテンションが違うんですよね。
どうしてこんなに「翻訳調」でしゃべるんだろう? きっと演出だよね? そしたら何故わざわざこんな風に? と頭の中を色々な可能性がぐるぐる回って、結局、感想を書くときにはほとんどスルーしてしまいました(笑)。
ア・ラ・カルトのお話は「無休電車」の方で!
投稿: 姫林檎 | 2013.10.14 23:01
こんにちは、観てきました。
C列だったので、物や水が飛んで来そうでヒヤヒヤしました。
(最前列にはビールが飛んでました)
本当に毎回片付けやセッティングするスタッフには、頭が下がる思いですね。
内野さんが靴で踏んづけたパンをほおばるところも、役者やな~と。
2幕で乗ってきたな~と思ったところで母登場。
もう、私のテンションは急降下してしまいましたよ。。
冷静な母というよりも、セリフに抑揚がまるでなくお人形みたい。。
あの散らかりように驚きも感じられず、このお芝居から浮いてる気がして。
辛口ですがキャストは3人だけで、玄関に母が帰ってきた音だけで良かったなと思います。
我に返って『どうすんだよ、これ!鉢も枯れてる!』と、
あわてて仲良く片づけてエンディングとか。
主演の熱演が良かっただけに、その場面だけが残念でした。
あ、私も無事にア・ラ・カルトGET!
投稿: あんみん | 2013.10.14 11:01