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2013.11.01

「秋のソナタ」を見る

L'Equipe vol.1 「秋のソナタ」
原案・原作 イングマール・ベルイマン
劇作・脚本・翻訳 木内宏昌
演出 熊林弘高
出演 佐藤オリエ/満島ひかり
観劇日 2013年10月31日(木曜日)午後3時開演
劇場 東京芸術劇場 シアターイースト B列14番
料金 8200円
上演時間 1時間30分

 ロビーではパンフレット(800円だったと思う)等が販売されていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 変形の、他より盛り上がったような舞台が作られており、最前列だった私の席のすぐ前に舞台に上り下りできる階段が作られている。舞台右奥にはドアがあり、舞台奥正面には窓枠がつり下げられている。
 舞台全体は暗く、開演前、スタッフが現れて、いくつもおいてある蝋燭の1本に火をつけて去って行く。
 舞台が終わるまで、舞台全体が明るく照らされたことはなかったんじゃないかというくらい、全体的に暗く、逆にいうと蝋燭の光がとても効果的に使われている。自然に揺れる光というのはいいものだ。

 舞台の物理的な暗さのとおり、舞台の内容も暗い。というか、やるせない。
 やるせないと感じるのは、やはり、たった二人の登場人物のうち最初に登場した、満島ひかり演じる娘のエヴァの視点から見たからだろうと思う。
 佐藤オリエ演じる、世界的ピアニスト(らしい)母親とエヴァとの会話がこの芝居の大部分を占める。
 他には、それぞれが自分の心情(だと思っていること)を語るシーンがあるだけだ。

 ここはエヴァが暮らす家で、エヴァは夫と妹と3人で暮らしている。エヴァの夫は牧師だ。
 彼女の母親は、つい最近、長年ともに暮らしていた相手を亡くしたらしい。この芝居は、彼女が母親を慰め「ここに来て」という手紙を書いて夫に読み聞かせるところから始まる。
 やってきた母親はグリーンのスーツを華やかに着こなしている。ダークグレーのワンピースを着て茶系のハイソックスをはき、黒い靴を履いている彼女とはまるで正反対だ。
 そして、この母は、7年ぶりで会った娘に何を尋ねるでもなく、ひたすら自分のことを語り続ける。
 エヴァが妹を引き取っているという話をすると、いかにも嫌そうに飛び退り、それは自分への嫌がらせかと問う。自分の娘だろうに、重い病を得ている娘とは会いたくないようだ。

 プロのピアニストで家庭を全く顧みず、夫も子供も捨てて浮気したこともあり、ある意味では無邪気な「娘は私を愛さなくてはいけないし、愛しているに決まっているし、自分の関心は娘ではなく自分自身とピアノにしかない」ということをみじんも疑わない母親と、その母親に「愛して欲しい」とずっと思い続けながら言えずにいる内向的な娘の物語というのは、どこか既視感がある。
 そして、母親は娘を支配しようとし、自分を愛するように強制し、しかし、自分は娘を愛そうとはせず、しかし何故か完璧に演技して「あなたを愛している」とは言えるのだ。

 エヴァが以前に息子を亡くしていること、何か独り言を言いながら散歩をしていること、母親に最初に会ったときに言った言葉が「ピアノを聴いてくれる?」だったのに、母親の前でピアノを弾くことに躊躇し、そして、母が自分のピアノを「聴いていない」ことを感じ取って傷つき、そして、もう克服したとエヴァ自身も思っていた母親への感情が全く「今」のものとして自分の中に存在していることに気がつく。
 この、エヴァがピアノを弾き、次に母親が弾くシーンがとても不思議な感じだった。
 テーブルにカバーをかけ、それをピアノに見立てる。2人はそのテーブルの向こうに座り、鍵盤を弾く。音はない。「いかにも弾いている」風の体の動きもない。敢えて言うと「ピアノと相対している」ことを演じているように見える。ゆっくりとエヴァがためらい、弾き始める。あくびをしている母親。感想を求める娘に「テクニックの問題からすると・・・」と言いかけた母親に、娘は「私にプレリュードのことを話しても仕方がないと思ってる!」となじり、そこまで言うのならと母親がピアノを弾き始める。そして、弾くのと同時に母親の解釈を語る。
 段々、打ちのめされたような表情に変わって行くエヴァ。
 母親は、エヴァの横でピアノを聴いたけれど、エヴァは母親の後ろに立ってそのピアノを聴いている。というよりも、ピアノを弾く母親を見つめ続ける。
 この芝居で一番緊迫していたのはこのシーンだったかも知れない。

 エヴァが母親と妹を会わせるシーンや、後半、エヴァがこれまでのことを一つ一つ「今しか言えないと思う」と母親にぶつけるシーンももちろん激しいシーンだ。
 暗い舞台を蝋燭の揺れる光で照らし、2人は相手の体にほとんど触れないにも関わらず、殴り合い、掴み合っているかのように見える。
 エヴァは、自分がどれだけ母親の圧迫を受け、その母親に嫌われまいとするためにいかに自分で自分自身を押さえつけて来たかを語る。語ると言うよりは、母親にぶつける。
 母は、エヴァの恋を終わらせ、自分のパートナーとエヴァの妹が恋をしていることに気付くと、彼を取り戻すべく工作する。まぁ、それはそうするだろうと思わなくもなかったけれど、エヴァには全てが許せなかったらしい。

 一方の母親は、「自分も辛かった」という話を返す。それは、ピアニストとしての自分がダメになった、昔の方がずっと良かったと信頼する相手から告げられたという話だ。
 しかし、それは、エヴァには全く響かない。エヴァは母親に母親たることを求め、母親は自分が母親になれなかったことの理解を求めているのだから、この2人がどこまで行っても分かり合えないのは自明の理なんだろう。
 すると、母親は、自分の両親と生い立ちの話を始める。愛されて育ってこなかった自分は「愛する」ということが判らない、自分が唯一感情をぶつけられるのはピアノだったという話を聞かせる。恐らくはこの話をエヴァにするのは初めてで、母親にとってはいわば「切り札」の話だったんだろうと思う。この話を聞いたら、誰もが自分を理解し、気遣うに決まっていると決めているかのようだ。

 もちろん、エヴァには母親の思惑は届かない。
 遠くの部屋でエヴァの妹が泣き叫んでいる声を聞きながら、2人はずっと噛み合わない思いを訴え合い続ける。
 しかし、これがどういう訳か「濃密」という感じではない。元々映画ではエヴァの夫も妹も登場していたようなのだけれど、舞台では母とエヴァの2人だけを登場させている。
 そして、何度も言うけれど、舞台は暗い。
 であれば、間違いなく濃密でぎゅっと詰まった空間がそこに現れそうなのに、何故だか、母と娘が掴みかからんばかりに言葉をぶつけ合っていても、その空間は何だか解放されている感じがしたのが意外だった。
 何でこんなにこの場所が、この場面が開けて見えるんだろうと自問自答したのだけれど、結局、お芝居を観ているときには判らなかった。今でも判らない。

 結局、この母と娘の対決は、母が次の日の朝早く、娘の家を去ることで終わる。
 そうすると、まるで母が負けたかのようだ。
 でも、娘の家を出た母親が誰かと電話しているのを聞くと(佐藤オリエは観客席のど真ん中で語っている)、彼女は全く反省もしていなければ変わってもいない。重い病の娘について「いるとは思わなかった」「早く死ねばいいのに」と言い放ち、明るく楽しげにマネージャと話している。
 また、最初は完全にエヴァの側に立って芝居を見ていた筈なのに、ふと気がつくと、エヴァの言い分って正しかったのか? と思っている自分もそこにある。エヴァが語っていたこと全てはエヴァに返るんじゃないかという気がしてくるのだ。

 エヴァは「自殺できない」と言う。
 その台詞、そして言っているときの彼女の表情を見ると、母と娘の関係は勝ち負けではないのだろうけれど、でも、もう二度と会うことはないだろうとエヴァ自身も言っているこの二人の関係において、エヴァは「負けた」んじゃないかという気がする。
 エヴァ自身もそう思っていて、だからこそ、最期にまた夫に読み聞かせた母親宛の手紙の中で、彼女は、母親に謝り続けたのではないだろうか。

 意外とエキセントリックではない舞台で、だったらどういう舞台だったかといえば、センシティブな舞台だったような気がする。
 そして、何故だか開放感を感じる舞台だった。
 

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