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2013.11.04

「ショーシャンクの空に」 を見る

「ショーシャンクの空に」
原作:スティーヴン・キング『刑務所のリタ・ヘイワース』
脚本:喜安浩平
演出:河原雅彦
出演 成河/益岡徹/粟根まこと/畑中智行
    筒井俊作/大家仁志/今奈良孝行/山崎彬
    高橋由美子/宇野まり絵/新良エツ子
観劇日 2013年11月3日(土曜日)午後1時開演
劇場 サンシャイン劇場 8列6番
料金 7500円
上演時間 3時間20分(2回、10分の休憩あり)
料金 7500円

 ロビーでは、パンフレット(値段をチェックしそびれた)の他、「ショーシャンクの空に」の映画DVD等も販売されていた。
 ロビーには開演30分前に入れたけれど、客席に入れたのは15分前くらいだったような気がする。

 有名な映画らしいのでネタバレもないようなものだけれど、ネタバレありの感想は以下に。

 「ショーシャンクの空に」の公式Webサイトはこちら。

 「有名な映画だ」ということは知っていたけれど、タイトルしか知らないし、当然のことながらストーリーも知らない。
 しかし、どうやら舞台は刑務所らしい。
 ほぼそれだけの予備知識で見に行った。恐らく、ここまで予備知識がなかった観客はそう多くはないだろうと思う。
 舞台は背面いっぱいに独房が2階建てで並び、檻代わりのスクリーンを上げ下げしたり、忍者屋敷のように壁を回して本棚を出現させたりして場面転換をする。

 その独房のうちのひとつに、例えば「1958」などと数字が常に出ている。
 映写で一瞬だけ見せるのではなく、ずっとそこに出続けているのは有り難いけれど、そもそもどうしてこう「今がいつか」を表示することが必要な芝居が多いのだろう。たまたま私がそういう芝居を続けて見ただけかも知れないのだけれど、素直に時系列を追って見せてくれないかなぁ、久しぶりにワンシチュエーションコメディが見たい、などと考えてしまった。
 何かこう、時間軸を動かすと工夫したように見える、みたいな法則がある感じがちょっとイヤなのだ。
 勝手な観客の勝手な言い分である。

 それはともかく、この芝居は、益岡徹演じるレッドという元ショーシャンク刑務所に50年近くいた男が出所後、自分が自殺しないためのいわばよすがとして書き綴っていた、「アンディの記憶」が劇中劇のように演じられるという構造になっている。
 だから、益岡徹は、1978年と、その20年以上も前との時間を行ったり来たりしながら演じている。ほとんど衣装も化粧も替えていないだろうに、その「演じ分け」は見事だ。だからこそ、この手のものに弱い私も安心して物語を追うことができたんだと思う。

 映画を見てもいないし原作小説も読んでいないから、「ここが違う」という指摘は全くできないのだけれど、演出の河原雅彦がもう一つ仕込んだ「芝居ならでは」の仕掛けが、アンディの部屋に貼られたポスターだと思う。
 このポスター自体も実は結構大きな意味があるのだけれど、そのポスターは長い間3回貼り替えられていて、そのポスターに載っている女優たちを、女優に演じさせている。ついでに、物語の狂言回しまでさせてしまっている。
 最初に出てきたリタ・ヘンダースンという女優が、どうして狂言回しをしているのか、さっぱり訳が判らなかったのだけれど、次第に、アンディの部屋に貼られたポスターが「背景だけ」であることと相まって、ポスターの中からアンディを見つめ続けていた女優に狂言回しをさせたんだなと判ってくる。

 3幕のそれぞれを3人の女優が担当するのだけれど、最初に出てきた高橋由美子は、そういう「自分の役割」を説明せずに客席に判って貰わなければいけなかった訳で、それは結構大変なことなのではなかろうか。
 そしてこれまた、ラスト近くになって判ることには、彼女たち女優の「顔」は、この物語(というか記録)を書いているレッドが殺した3人の女の「顔」と同じなのだ。逆にここまで大きく仕込まれると、あとの細かいことはまぁどうでもいいかという気になってくるのが不思議である。

 成河演じるアンディは、浮気した妻とその浮気相手を殺した罪で服役中である。
 実は私はここが最後まで確信持てなかったのだけれど、劇中ではそれは「えん罪」ということになっている。
 これは事実なんだろうか。ここを疑うとこの芝居の全てが変わるような気もするのだけれど、どうも、「真犯人を知っている」という受刑者が現れても、アンディ自身が激しく無実を主張しても、いやもしかすると本当は殺しているのでは? と考えてしまった。
 その理由のひとつは、多分、このアンディがずっと穏やかで理知的で笑顔を絶やさない人柄だったからだと思う。

 刑務所に入りたての頃は本当に酷い目に遭っている。
 銀行員(しかも30そこそこで副頭取だったという設定だ)だった経験を生かして看守に遺産相続の裏技を教えた辺りから、彼はいわば刑務所を「裏から支配」し始める。
 自分を痛めつけた相手を、アンディが、看守たちを使って徹底的にいたぶって再起不能にしたと思わせるシーンにつながる。
 正当な復讐だという見方もできるだろうけれど、それを、穏やかな笑顔でやられたら、「こいつの本性は?」と思うではないか。

 レッドは「アンディの実在」をだんだん疑うようになって行くけれど、私は「コイツ、本当にいい奴なのか?」という疑いがどんどん濃くなって行ったように感じた。
 終始一貫(自分ではない真犯人がいたという話を聞いたときは別だけれど)、笑顔を絶やさず、穏やかに語り、常に「刑務所の環境改善」を志向する。しかし一方で、粟根まこと演じる刑務所長の横領に手を貸して自分の立場を強くしたりもしているのだ。
 何だかそういう風に一旦見てしまったので、懲罰房に入ったのも、刑務所中に特大の音でオペラを流したのも、実は何かの企みの一環だったんじゃないかなどと考えてしまった。

 その(私的な)疑いが最高潮に達したのが、アンディが脱獄する少し前、レッドに「捕まる前に、銀行の貸金庫に架空の人物になれる準備をすでに整えて入れてある」と告白したときだ。
 自分は無実だと思っている人間がそんなことをするか?
 という感じで、実は未だに、アンディが白か黒か、多分この舞台の本質ではないけれど基本的な大前提で?マークが頭から消えていない。

 レッドの視線で語られている話であるし、彼が刑務所に入った理由などはかなり後になってからでないと語られなかったり、調達屋になった経緯など最後まで語られなかったりするのだけれど、アンディよりはレッドの方に親しみを感じる。
 最後までアンディがレッドにとって「何を考えているのか判らない奴」であり、「本当にいたのかだんだん自信がなくなってきた」ような存在だったから、そのレッドの視線でみている観客席のこちらもアンディに対して「親しみ」は感じられないのかも知れない。

 出所後にレッドが暮らしていた部屋には、実は、刑務所仲間だったブルックスも暮らしていたことがあり、しかし、彼は「自由」を口にして飛び降り自殺をしてしまったことを聞かされる。
 レッドが一気に老け込んだのはこのときだ。
 しかし、死んでしまおうかというそのとき、レッドが勤めていた店に万引きしに来ていた青年の兄が訪ねて来たこともあって、レッドはアンディと別れる直前のことを思い出し、そして、確かめてみようという気になる。

 アンディが言っていた「黒曜石」は確かにそこにあり、その下にあるはずの貸金庫の鍵はなかった代わりに、缶の中に入ったアンディからの手紙を見つける。
 そこには、自分のところに来いと書いてある。
 アンディは脱獄直前にも、レッドとゆっくり酒でも飲んで語り合いたいと言い残している(と、ポスターの女優達が言っていたから、それは論理的にはレッドの妄想だ)。
 レッドは仮釈放中だから、そもそも黒曜石を探しに店をさぼっていること自体、結構な問題だし、アンディがいるというメキシコに旅するなど言語道断の筈である。アンディだって「国境をどう越えるかが問題」だと言っている。だったら来いなんて言うなと思うけれど、しかし、アンディはどこ吹く風である。

 レッドがアンディのいるメキシコの海辺の街に出発するところで、この舞台は終わる。
 その後、どうなったかは語られない。
 ただ、空と海とが舞台一杯に描かれ、そこで抱擁し合うアンディとレッドの姿を見せるだけだ。それが果たしてレッドの妄想ではないという保証はない。
 ただ何となく、ここは「海と空の絵」ではなく、「海と空の映像」を一杯に映し出して欲しかったなぁという気がした。

 私にとっては、最後まで、終わってからも「謎が謎を呼ぶ」舞台で、思わず身を乗り出して見てしまった。

<追記>
 書き終わってから思い出したけれど、観劇中、地震があった。
 結構揺れているような気がして、客席もざわついたけれど、舞台上では全く何ごともなかったかのように芝居が進行し、客席もあっさりと芝居の世界に戻って行った。
 昔から「観劇中の地震」ってあっただろうか。そして、客席がざわついていただろうか。

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