「太鼓たたいて笛ふいて」 を見る
こまつ座第102回公演「太鼓たたいて笛ふいて」
作 井上ひさし
演出 栗山民也
演奏 朴勝哲
出演 大竹しのぶ/木場勝己/梅沢昌代/山崎一
阿南健治/神野三鈴
観劇日 2014年2月1日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 3列4番
料金 8400円
上演時間 3時間5分(15分の休憩あり)
ロビーでは、パンフレットの他、井上ひさしの著作本などが販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
客席の最前列の中央をいくつかつぶし、そこにアップライトピアノを置いてピアニストが登場したときには驚いた。
前に見たときもピアノはこの位置だったろうか。全く記憶にないのが我ながら情けない。
幕開けは、影絵のように出演社6人が演じ、踊り、そして歌で始まる。音楽劇、林芙美子の評伝の始まりである。
この舞台では、大竹しのぶ演じる林芙美子はすでに放浪記を書いているところから始まる。昭和10年のことだ。
東京で職を転々とし、同棲を繰り返していた頃のことはすでに「過去」になっていて、梅沢昌代演じる母親と2人、落ち着いているといえば落ち着いた生活をしているようだ。そういえば、この芝居では終始一貫、彼女の「夫」は姿を現さない。
その代わり、木場勝己演じるプロデューサーである三木孝は彼女につきまとい、最初は流行歌の歌詞を書くよう依頼し、彼女が書いた本が発禁処分になると彼女に「戦争は儲かる、という物語がこの世の中を動かしている」「戦争は儲かるという物語を念頭においてモノを書けば、発禁処分になどなることはない」などと吹き込む。
後に内閣情報部で働くことになる彼は、いわば「物語を作る」側に立ったように見える。
その三木孝に対する、そして私はこの芝居の要は実は林芙美子ではなく彼女ではないかと感じたのが、神野三鈴演じる島崎こま子である。
島崎こま子という人がどういう人なのか、私は全く知らないのだけれど、少なくともこの芝居では、島崎藤村の姪で小説「新生」のモデルであり、瓶爆弾を造るような毎日からそのやり方に疑問を感じ、貧しい子供たちを救おうと「ひとりじゃない園」を立ち上げて活動している女性である。その「ひとりじゃない園」の運営費用の寄付を求めて林芙美子宅を訪れ、それから林芙美子母子と親交を結ぶことになる。
彼女は言葉にはしないけれど「戦争は儲かる」という物語に一貫して批判的である、強くてしなやかな女性だ。
三木孝と島崎こま子が一対だとすると、もちろん林芙美子と林キクの母子も一対、そして、キクが尾道で行商をしているときに知り合った、山崎一演じる加賀四郎と阿南健治演じる土沢時男も、その後、対照的な道を行くことになる。大連に渡って憲兵となり、日本に帰って来た後は特高警察となった四郎は、内閣情報部に勤める三木孝と行動をともにするし、一方、遠野で農業を始めた時男は幸せな結婚をしたのも束の間、戦地に送られて戦死する。
キクとこま子と時男は、終始一貫、静かに自分を保ち、「戦争」を冷静な目で見ているように思う。
「戦争は儲かる」という物語に完全に乗っかって行こうという三木よりも、「戦争は儲かる」という物語など意識しないまま、しかし造られた物語に乗せられていく四郎よりも、芙美子はさらに意欲的に「戦争は儲かる」という物語に冷たいくらいのまなざしを向けつつ、しかし、完全に物語を広める側に取り込まれ、自ら従軍記者としての仕事に没頭して行く。
「太鼓たたいて笛ふいて」 とは、正しく、このときの芙美子のことを表している。
そして、タイトルのとおり、「太鼓たたいて笛ふいて」 は歌の多いお芝居である。その歌のシーンでは、大竹しのぶのドスの利いた声から高く透明な声、オペラ風に歌ってみたかと思えば、ジャズ風にも聴かせる自在な声が本当に効いている。
しかし、その声の力が一番発揮されたのは、芙美子が東南アジアへの従軍記者の仕事から帰り、長野に疎開し、そうして「あとは綺麗に負けるしかない」と人々に語った後のことだ。
人々に語ったそのシーンは、実はない。
しかし、三木と四郎が芙美子にその発言を撤回させようとやってきて、そして芙美子が「太鼓たたいて笛ふいて」 自分がやってきたことの責任を取らなければならないのだと語るとき、その声は、痛みと決意に溢れ、二人を全く寄せ付けない。
そして、書家となったこま子と四郎とのやりとりで、こま子はしなやかに四郎の脅迫をいなし、毅然として今の林芙美子を守ろうとする。従軍記者として活動していた林芙美子を批判することなく、しかし、従軍記者としての自分を批判する林芙美子を受容し守ろうとするその姿勢は、多分、日本人が「かくあるべき」姿なのだ。
二人が、「ここで滅んでしまうには日本は素晴らしすぎる」「自分達は日本を愛している」と語るとき、それはきっと井上ひさしが伝えたいと願ったメッセージでもあるのだということが伝わる。伝わるというよりは、客席いっぱいに、その思いが広がったように見えた。
そして、もう1回、大竹しのぶの声の力が発揮されたのが、ラストシーンだ。
戦死の知らせが届いていた時男は実は捕虜となっており、日本に戻ってきたものの、妻はすでに別の男性と所帯を持っており、義父に「ここに戻って来ないでくれ」と言われ、東京で行き倒れ寸前になっていたところを、四郎に見つかって連れて来られたのだ。
それまで調子よく「ヨーロッパやハリウッドやジャズを紹介する番組を作っている」と相変わらず素早く時流に乗ったことをしかし何故か憎めない調子で吹聴していた三木孝も流石に押し黙る。登場する人物6人のうち、三木孝と四郎は「調子がいい」「要領がいい」人間なのだけれど、林芙美子も井上ひさしも彼らに心の底からの憎しみは向けていないように思える。
そうではなく、「戦争は儲かる」という物語を信じた自分、広めた自分、その物語に大なり小なり乗っかっていたことを忘れて責任転嫁だけをしようとする人々にこそ、冷たい視線を向けているように思う。
時男に、林芙美子の書く小説があったからこそ生き延びたのだと言われ、芙美子は時男の手を取って感謝し、そして「もっと書かなくてはね」と呟く。
呟くのと同時に、それは決意表明でもあり、時男への謝辞でもあり、壊れかけた心臓に活を入れようという姿勢にも見える。
このときもまた、芙美子の声は、それこそ地獄の底から響いてきているようにも聞こえる。許される筈もなく、責任を負えることもないけれど、しかし、そのためにこそ書かねばならないのだという声だ。
6年後、林芙美子は亡くなる。
最後のシーンは、これから納骨に向かおうという彼女の家でのシーンだ。
ラジオから流れる林芙美子の紹介文に、こま子が「いい紹介文でした」と呟き、三木孝が「これは私が書いたのです」と言う。「私も学習します」という三木孝の言葉が、多分、井上ひさしが「日本人」に望んだ言葉なのだ。
本当の最後の最後、芙美子の遺骨を抱えた母キクがゆっくりゆっくり、「年老いたな」と感じさせる足取りで去って行く。
そして、チラシにもポスターにも使われている林芙美子の絵がするすると降りて来て、スポットを浴びる。
音楽の力と声の力、ストレートなメッセージを登場人物が語っているのにそれが押しつけがましくなく、わざとらしくなく、届くというよりも広がって行くのが見えるように思う。
見て良かった、見られて良かったと思う。これは、見るべきお芝居だ。
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