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2014.03.22

「空ヲ刻ム者 -若き仏師の物語-」を見る

スーパー歌舞伎II「空ヲ刻ム者 -若き仏師の物語-」
作・演出 前川知大
出演 市川猿之助/市川門之助/市川笑也/市川笑三郎
    市川寿猿/市川弘太郎/市川春猿/市川猿弥
    市川右近/福士誠治/浅野和之/佐々木蔵之介
観劇日 2014年3月21日(金曜日)午後4時30分開演
劇場 新橋演舞場 1階8列16番
上演時間 4時間20分(30分、20分の休憩あり)
料金 15000円

 パンフレットではなく筋書き(1800円)等が販売されていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 「歌舞伎美人」Webサイト内、スーパー歌舞伎II「空ヲ刻ム者 -若き仏師の物語-」のページはこちら。

 スーパー歌舞伎を見たことがないので、果たして、どこがスーパー歌舞伎と同じで、どこが違っていたのか、それは全く判らない。
 幕が開き、出演者一同が横一列にずらっと並んで頭を下げている姿から、一人一人口上を述べる。
 そこで「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」と繰り返し語られるのを聞いていると、スーパー歌舞伎ではあるけれど、スーパー歌舞伎そのものではない、セカンドとしてまた新しく始めるのだという気概が伝わって来る。
 セカンドとしての第1作だからこうした始まりなのか、あるいは、スーパー歌舞伎は常にこうした始まりなのかは知らないのだけれど、決意表明としては秀逸だ。
 端に座った浅野和之が一人、居眠りでもしているかのように頭を垂れたまま口上を述べず、「私は浅野じゃなくて鳴子だよ」と言い張り、最初から笑いを持って行くのも可笑しい。
 その浅野和之演じる鳴子が、狂言回し(本人の弁によると「説明役」)を務め、物語を進めて行く。

 市川猿之助演じる十和は、山間の村で仏師の家に生まれ、自身も才能に恵まれた若い仏師である。しかし、母親を放っておいて貴族から注文のあった仏像を彫り続ける父親にも、父親が彫った仏像をひたすら拝む母親にも、村の暮らしを楽にすることはないどころか諦めの気持ちを与えているだけのように見える仏教にも、そうした仏像を作り出すことを生業にしている自分にも疑問がわき出してきて、半ば自棄になっているように見える。
 同じく、村の暮らしが楽にならないことに疑問を感じている領主の息子、佐々木蔵之介演じる一馬は、幼なじみである十和に「都に出て役人となり、村の暮らしを変える政を行う」と宣言する。
 一馬が村を出た後、十和は、父親が彫った仏像を引き取りに来た役人と言い合いになった末殺してしまい、身替わりにと腕を差し出した福士誠治演じる伊吹は傷つき、十和は村から逃げ出すことになる。

 口上があったし、一幕は55分と短いので、ここまではあっという間である。
 しかも、私には「スーパー歌舞伎に慣れる」という時間も必要だし、「スーパー歌舞伎セカンドを楽しむ」という時間も必要なのだ。
 え、もう幕が下りてきたよ、という感じだった。

 二幕目になると、狂言回しに福士誠治演じる伊吹も加わって、ますます「お笑い担当」のイメージが増してくる。浅野和之演じる鳴子を見ていて、立ち位置として、コクーン歌舞伎における笹野高史と何となく似ているなぁと思う。決して歌舞伎役者っぽく見える訳ではなく、そもそも、歌舞伎っぽい(恐らくはきちんとした定義やルールがあると思うのだけれど、私にはよく判らない)メイクもしていないにも関わらず、違和感なくそこにいる。
 それには、鳴子という、祈祷師兼産婆という役柄や衣装も一役買っているように思う。

 十和は都に出て、お寺を襲っては仏像を壊していたらしい。捕まって牢獄にいたところを、同じく捕まっていた女盗賊を助けに来た一味にくっついて抜けだし、以後、寺を襲って金目のものを奪う彼らと行動を共にして自らは仏像を壊すことを続ける。
 一方、少納言家の家人となっていた一馬は、「政」ではなく「儀式」だけを行っている貴族達に失望しつつ、しかし、「民を守るため」に働きたいと願い、その願いを、主である少納言に権力闘争に利用されようとしている。
 二幕はだから、焦る十和と焦る一馬の姿を描いている。
 自棄になっている十和と、自棄になりつつある一馬とも言えるだろうか。どちらも自分を騙そう、誤魔化そうとしているところはよく似ている。

 二幕から、舞台が都になったためか、舞台があちこち移動するようになったためか、場面転換にせりや回り舞台や花道や、派手に使うようになってきて楽しい。
 盗賊一味が活躍するからか、舞台上の役者さんたちの動きも飛んだり走ったり戦ったり、大きくなって来る。
 衣装も派手だ。特に一馬はしょっちゅう着替えている。着替えた衣装が常にキラキラしているのが、そういう衣装が映える長身の佐々木蔵之介を使いまくっているなぁという感じで面白い。
 一馬は、概ね白と黒と赤が基調で、縦方向を強調した衣装になっているし、十和は白と青が基調で、どちらかというと丸みをおびた衣装になっている。その対比も面白い。

 十和は、自分を探しに来た鳴子と伊吹と出会い、しかし伊吹は腕に負った傷が原因で高熱を発している。
 市川笑也演じる女盗賊の双葉とともに盗みに入った仏師の工房で、市川右近演じる九龍という新たな師と出会い、その九龍が修復していた地蔵菩薩と出会い、そして、もう死んで行こうという伊吹と、すでに亡くなっている母親と話し、そうして「仏師として生まれ変わる」ことになる。
 その十和を、ずっと見て来た双葉はほっとしたように許したように放っておく。

 しかし、一馬が使える少納言は、双葉の一味に刻一刻と近づいてきていて、ついには根城にしていた村を一馬に襲わせる。
 村人もろとも焼き払えという命令に躊躇した一馬だったけれど、結局、少納言の命令には逆らえず、双葉の「本当はやりたくないんだろう」という的を射た言葉に一瞬揺らいだけれども、結局、火をかけさせ、双葉のクビをはねようかというところで二幕は終了である。

 三幕は、もう、一言で言ってやりたい放題である。
 ずっと「何故、自分は仏師として仏像を彫るのか」「それは、仏教を権力闘争に使おうとする連中に味方しているだけのことではないのか」という自分に対する疑問から離れられなかった十和が、九龍という師を得て、やがて、「仏像の意味を決めるのは、救いがあるのは、それは拝む人々の心の中にこそある」「仏像は、拝む人々の心を移す鏡だ」という心持ちになって行く。
 実は、それは、仏師であった父親が言っていたこととも近い。
 しかし、それでもなお、十和は「父親のようになりたくない」という呪縛から自由になることができず、やはり悩める状態に逆戻りすることもある。

 しかし、九龍が未完成で完成とさせた仏像を何体も彫り、村々に届けるうち、十和は都でも評判となり、十和の彫った仏像を見るために牛車で村々を巡る貴族までもが現れる。
 都近くの村々の農民たちに武器を持たせ、転覆を企てさせた一馬は、主人から「あと一押しが欲しい」と言われ、その評判の仏師に仏像を彫らせ、旗印にすることで「死ぬことを恐れない」ようにさせろと命じられる。すでに、一馬はこの命令に疑問を感じず、積極的に受け入れようとしているようにも見える。
 双葉を殺さなかったことで、一馬の心はまだ「本当には死んでいない」ことが示されるのだけれど、しかし、もう終わりが近いことも確かだ。

 仏師を探しに来た一馬と十和が、九龍の工房で出会う。
 十和はもちろん一馬の依頼を断るけれど、一馬は、双葉を人質として見せ、そして「一馬が間違っている」ということを言葉を尽くして説得しようとした九龍を殺してしまう。
 双葉の子分である吾平も十和のところにやってきて、「抜けるのなら恩を返せ」と迫る。
 いまわの際の九龍に「仏像を彫れ」と言われたことも含め、十和は、仏像を彫るということに意味を見出そうとし、しかし、やはり迷う。一馬を救うことができるのか、それは十和が彫る仏像にかかっていることになる。

 何だか「自分探し」のようにも見えるし、「何に救いを求めるか」ということのようにも感じられるし、「救いを求めている人に何ができるのか」を迫られているようにも思う。
 父親との関係にも苦しんでいる十和はかなり繊細に描かれるし、政と宗教(仏教)といういわばきな臭い関係を露わにしようとしているようにも見えるし、この芝居に詰め込まれたテーマはかなり多様だ。
 その多様なテーマを、最後にどうまとめるのか、それが気になって仕方がない。

 仏像を受け取りに来たという一馬に見せた十和の彫った仏像は「空(くう)」である。
 仏像が納められているのだろう厨子を開けると、そこには何もなく、強烈な光が放たれ、木くず(に見せた紙吹雪とスポンジ吹雪」が客席に向かって吹き飛ばされる。
 十和が「これが答えだ!」と言い放つ姿と表情は晴れ晴れとしている。
 多分、十和は、答えを見つけたのではなく、答えを探し続けることに決めたんだろうと思う。
 しかし、この場面を見て初めて「空ヲ刻ム者」の「空」って「くう」だったのね、と思う私ってどうなんだろうという気がする。

 不動明王となって現れた九龍も含め、みなそれぞれにいわば「いいこと」を言うのだけれど、この後はもう、そんなこと(という言い方もどうかと思うけれど)はどうでもよくて、次々と一気に放たれるスペクタクルを楽しめばそれでオッケー、という感じもする。
 十和と一馬は空を飛ぶし、立ち回りもあれば、おー! と客席がどよめくようなアクロバティックな演出が続出する。
 そういえば、この舞台は前川知大の作・演出なのだけれど、「イキウメ」や現代劇でのお話の感じとは全く違うし、演出の派手さ加減も全く違う。突き詰めて突き詰めて、でも最後にはあるものは全部やっちまえ、というのは、猿之助の意向なんじゃないかという気がする。

 そういえば、見ているときに、「この芝居は歌舞伎だ」とは思っていなかったような気がする。
 白塗りのお化粧に衣装、もちろん見得を切る場面も多かったし、「澤瀉屋」の声も客席から飛んでいた。拍子木を打ち鳴らす音も高らかだ。
 でも、歌舞伎というよりは、これから何かに化けるもの、という印象が強い。

 時々、舞台が広く感じられて、もっと「ぎっしり詰まった」感が欲しいなぁと思うこともあったし、またもや集中しきることができなかった私の脳みそでは、十和の至った境地が結局どこだったのか、咀嚼できていないよなぁと自分でも思える。
 でも、終始一貫、十話が悩み迷っているときでさえ、何故かきらきらといたずらっ子のようにくるくる表情を変え光っていた猿之助の楽しそうな目を見られたら、それで満足という気もする。
 内へ内へと入り込み続けた物語を、最後にぱーっと華やかに咲き散らせる、そういう舞台だった。
 多分、内へ内へと入った物語は、後になってどこからか効いてくるように思う。

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コメント

 ひかる様、コメントありがとうございます。

 ひかるさんも同じ場面で「くう」だったのか! と思われたんですね。安心しました(笑)。

 またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。

投稿: 姫林檎 | 2014.03.23 23:12

僕も、あの場面を見て、「空」は「そら」じゃなくて、「くう」だったんだと初めて気が付きました。
観客の半分ぐらいは、そんな感じじゃないでしょうか。

投稿: ひかる | 2014.03.23 00:34

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