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「わたしを離さないで」
原作 カズオ・イシグロ
脚本 倉持裕
演出 蜷川幸雄
出演 多部未華子/三浦涼介/木村文乃
床嶋佳子/銀粉蝶/山本道子 他
観劇日 2014年5月10日(土曜日)午後1時開演
劇場 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 1階Q列26番
上演時間 3時間50分(15分、10分の休憩あり)
料金 9000円
かなり迷っていたのだけれど、行って良かった。
ネタバレありの感想は以下に。
ネタバレありのと書いたものの、実はよく判っていないというのが本当のところである。
ネタバレすらできないと言うべきだ。
でも、最後まで判らなかったのだけれど、でも、その判らないという感じが心地よい。苦にならない。そういう舞台だったと思う。
「わたしを離さないで」 と同タイトルのカズオ・イシグロの小説は読んだことがない。ロビーで販売されていて、かなり迷ったけれど購入しなかった。とにかく、その原作小説では舞台は日本ではなかったと思う。舞台を日本に移し、そして東日本大震災を取り込んでいる。
冒頭は、多部未華子演じる「介護人」が、今現在介護している男性と会話するシーンだ。
「ヘールシャム」という耳慣れない単語が頻発し、介護人である彼女が「名前の由来を知らない」と言うのに対し、「へールシャム出身なのか」「ヘールシャムの話を聞かせてくれ」と返す。
何だか特別な場所なのだということが伝わって来る。
「冒頭」と書いたけれど、本当の最初の最初は、ラジコンの赤いヘリコプターが飛ぶシーンだ。そういえば、あのヘリコプターは最後にどこに飛んでいったのか、全く記憶にない。
多部未華子がコートを脱ぎ捨て、鬘を捨て去ると、グレーの制服を着た中学生がそこに現れる。もっとも、私は最初に見たときは「高校生だ」と思ったのだけれど、その後の会話を聞いているうちに、彼女が今14歳であることが判明する。
そこは学校で、グレーの上品な制服を着た少年少女が、当たり前の学校生活を送っている、ように見える。
多部未華子演じるやひろも、木村文乃演じるすずも、どこにでもいそうな当たり前の、ちょっと背伸びしたり迷ったり矛盾を抱えたりしている少女だし、クラスの男子に無視されているような三浦涼介演じるモトム少年だって、当たり前の少年だ。
当たり前の学校生活に見えるけれど、銀粉蝶演じるふゆこ先生と山本道子演じるはるみ先生が出てきた辺りから「当たり前」ではない感じが見えてくる。
ふゆこ先生は「あなた達は特別なんです」と説教をし、生徒達はその説教をシュンとして聞いているし、はるみ先生は「ちょっとした怪我で生徒を医務室に行かせたら不安そ呼ぶ」と言い、ふゆこ先生は「こうして我々保護官が生徒の前で言い争うことの方が不安を招く」と言う。
「先生」ではなく「保護官」なのだ。
さらに、床嶋佳子演じる、生徒達が「マダム」と呼んで敬っているような恐れているような、とにかく遠巻きにしている女性が現れ、しかし彼女は明らかに生徒達を怖がっている。
「マダム」と生徒達の接点は、どうやら、生徒達がやたらと多い(オペラグラスで拡大してみたら、教室に張ってある時間割の半分以上のコマを占めていた)図工の時間に作った作品を「選び」、そして選ばれた生徒には、外から入ってきたモノを買えるチケットが渡される、そのやりとりだけにあるようだ。
だから、最初のうち、私はこのヘールシャムという場所を、美術や音楽等々の芸術分野の才能を見込まれた少年少女だけが集められた学校で、余計な情報を入れないように外からの情報をシャットアウトしているものだとばかり思っていた。
そのうち、彼女たちの将来は「提供」しか待っていないとか、オフィスで働くような未来は自分たちにはないとか、外の変化が大きくてどうなるか判らないとか、やひろが枕を赤ちゃんに見立てて「NEVER LET ME GO」の歌に合わせて踊っているのを見たマダムが突然泣き出したりとか、どんどん話が不穏な方向に進んで行く。
はるみ先生も、モトムに「作品を生み出せないことは悪いことではない」と言ったり、「あれは間違っていた、作品を生み出しておけば将来、いいことがあるかも知れない」と言ったりする。
彼女たちをとりまく環境のおかしさがどんどん際立って行く。
でも、あくまでも彼女たちは、当たり前の少年少女で、やひろが大人びているのも、すずが意地悪だったり焼き餅を焼いたりするのも、モトム少年がなかなかやひろと仲良くできないのも、そういうやりとりは、やけに普通なのだ。
そのギャップのおかしさがどんどん際立って行くと言えばいいんだろうか。
そうして、「ヘールシャムにいられるのもあと僅か」と言っていた彼女たちは、外へ出た、らしい。
そこがどこかは判らないのだけれど、屋内でも葦が生えているような建物だ。ストーブも旧式な感じである。ヘールシャム出身者だけがそこにいる訳ではないらしい。
やっぱりそこでの会話もどんどん「私のオリジナル」とか「介護人」とか「提供が始まる」とか「ヘールシャム出身者のカップルが愛し合っていることを証明できれば提供が猶予される」とか、具体的になって行く。
「頭で判っていても目の前にはなかった」ヘールシャム時代とは異なり、成長した彼らが今いる場所は、「提供」ということが既に目の前の現実になっているのだ。
結局、「ヘールシャム」という場所が、将来的に臓器提供を行うことを目的としたクローンを育てる場所であると明確に示されたのはいつだったろう。
すずが、自分たちのオリジナルにまともな人間はいない、人間のくずばかりだと言ったときだったのか。
はるみ先生が、すずとやひろを呼び出し、淡々と2人が「判っています」と当たり前のように返事をしているときには既にはっきりと言葉にされていただろうか。
どうもその辺りがぼやけているのが、相変わらず私の間抜けなところである。
すずが「自分たちのオリジナルなんてくずに決まっている」と言うのも、そう言うすずに「あんたの言うことって、時々、凄くくだらない」とやひろが言い放つのも、モトムがやひろに「失くしたカセットテープを贈ろうって決めていたんだ」と言うのも、「たから岬」という海辺だ。
その堤防と、波打つ水、背景に描かれた空と海だけというシーンが、多分、この芝居の肝だったんじゃないかという感じがする。
彼らは「介護人」となった後、数年で「提供者」としての指名を受ける。
この役割を担っているのは「ヘールシャム」出身者だけではなさそうだ。
介護人になるのと同時に、彼らは別れ別れになってそれぞれがそれぞれの場所で仕事を始める。もう二度と会うことはないかも知れない。
しかし、まず最初にモトムが、次にすずが「提供者」となり、一度の提供で体調を崩したすずの介護人にやひろが就き、そして、荒れ果てた海辺に漁船が打ち上げられた場所で、3人は再会する。
そこで、ヘールシャムが閉鎖されたことが語られ、死期を悟ったかのようなすずはモトムとやひろに「2人の仲を裂き続けたこと」を謝り、2人でマダムのところに行って「提供者となることを猶予して貰ってくれ」と頼む。
何というか、当たり前の三角関係と、臓器提供するための存在と、何もない何も残っていない場所と、そういう様々な要素がこのシーンで一つになった、融合した、という感じがする。
そこにカタルシスというようなものは全くないのだけれど、しかし、ここで多分、伏線の多くが回収されたように思う。
だから、2人がマダムの家を訪れたシーンは、「全ての謎が明かされる」といった意味合いではなく、2人の物語に帰結させるためのシーンのように見えた。
しかし、くっきりきっぱりと「語られる」のは、最後の最後、マダムの家を訪れてからだ。
2人は、「猶予期間を与えるかどうか、すなわち2人が愛し合っているかどうかを決めるのは、彼らが作った作品だ」という考えのもと、学校時代に一切作品を作らなかったモトムは最近の作品を持ち、介護人を続けているやひろは「最初の提供」を、3回目の提供を終えたばかりのモトムは「4回目の提供」を猶予してくれるよう、マダムに頼む。
登場時から、沈痛な表情を隠さなかったマダムは、ここでもやはり辛そうな顔をしている。
そして、やひろがモトムの介護を務めていると言うことで、私はすずの死を知ったし、冒頭でやひろがモトムではない人の介護人を務めていることで、私はやひろが生き延びていることとモトムが死んでしまったことを知るのだ。
そういう意味では、「やひろがモトムの介護人を務めている」と言ったときに、全ては語られていた、のかも知れない。
しかし、マダムは「作品を見てくれ」と土下座するモトムに動揺し、ふゆこ先生を呼び出す。
そして、ふゆこ先生は、「少し前まで、1年に5組くらいがここを訪れていた」と言いつつ、「倉庫を整理してキャビネットを運び出さなくてはならないから時間がない」と言いつつ、2人に、ふゆこ先生の「真実」を語る。
それにしても銀粉蝶の声はいいなぁと思う。
というよりも、このお芝居に出演していた特に女優さん達は声のいい人ばかりだったなぁと思う。私は「舞台は声だ」と思っているので、もの凄い安心感と安定感を感じる。
何というか、誰もが「真実を語る声」の持ち主だと思うのだ。
ただし、このシーンのふゆこ先生は、どう見ても「ふゆこ先生にとっての真実」を語っている。
そこで、相手の立場に立ってしまうマダムは常に揺らいでいる訳だけれど、己の真実しか見つめていないふゆこ先生は揺らぐことはない。そういう意味では「はるみ先生」も揺らいでいた人だ。
ふゆこ先生が語ったのは、ヘールシャムは、クローン技術で生まれた彼らが教育を受け、しかるべき環境に育てば「心を持つ」ということを、「心を持つ筈がない」と言う人々に知らせるため、そういった人々に対抗するためであったということだ。
そして、やひろやモトムの時代は、「幸せな時代だった」のだと言う。
マダムが「作品」を選んでいたのも、そもそも「ヘールシャム」に図工の時間が多かったのも、全て、「対抗する」ためだけだったということが語られる。
つまりは、「猶予期間」や「猶予を与える」などということは存在しないし行われていない。
そして、ふゆこ先生はすでに、彼らに対する関心を失っている。もっといえば「負けた」ことを認めたくないというだけの関心しか持っていない。
その答えを聞き、モトムは慟哭し、やひろはそんなモトムを抱きかかえる。
2人の「幸せだった」時間がフラッシュバックし、そして、幕である。
実のところ、ふゆこ先生が語ったのはふゆこ先生の真実であって、だから、この芝居にいわゆる「謎解き」は存在しない。
そもそも、「謎解き」を求めている舞台ではない。
では、何を語ろうとしているのかと言われると、何だかもやっとしているように思う。
多分、追々、ボディブローのように効いてくると思う。
とにかく、見ている間は、我ながら久しぶりにがっと集中していた。重くて厚くて静かな舞台だった。
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