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「カッコーの巣の上で」
上演台本・演出 河原雅彦
出演 小栗旬/神野三鈴/武田真治/大東駿介
福田転球/吉田メタル/伊達暁/櫻井章喜
駒木根隆介/田島ゆみか/八木のぞみ/江戸川萬時
長田奈麻/山内圭哉/藤木孝/吉田鋼太郎
観劇日 2014年7月19日(土曜日)午後6時開演
劇場 東京芸術劇場プレイハウス L列22番
上演時間 3時間(15分の休憩あり)
料金 10000円
「カッコーの巣の上で」というタイトルは、本当にほとんど映画を見ない私でも知っていた。でも、本当にほとんど映画を見ないので、どんなストーリーなのかは全く知らず、でも、ここまで映画が有名なのだから、見に来る人はストーリーを知っているんだろう映画を見たことがある人が多いだろうという前提で舞台が作られるんじゃないかなぁと勝手に想像し、ネットでストーリーだけはチェックしておいた。
私が読んだ映画版のストーリー紹介は、例えばこんな感じだった。
*****
刑務所の強制労働から逃れるため精神異常を装ってオレゴン州立精神病院に入ったマクマーフィは、そこで行われている管理体制に反発を感じる。彼は絶対権力を誇る婦長ラチェッドと対立しながら、入院患者たちの中に生きる気力を与えていくが……。60年代の精神病院を舞台に、体制の中で抗う男の姿を通して人間の尊厳と社会の不条理を問うK・キージーのベストセラーを、チェコから亡命してきたM・フォアマンが映画化した人間ドラマ。
(http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%B7%A3%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%A7/4572/story/)
*****
結局よく判らないよ、どうしてこのストーリーの映画がこんなに有名かつ名作とされているのだろうと不遜もいいところなことを思いながら見始めた。
舞台が暗い中、「パパ」で始まる独白が流れる。最初は誰の心の声なのか判らなかったのだけれど、直に、山内圭哉演じるチーフの声であると気付く。今のことを語っているのか、昔のことを語っているのか、それがまぜこぜになっているのか、よく判らない。
明るくなったそこは精神病院で、武田真治演じるハーディングをリーダー格に、患者達が暮らしている。ハーディング曰く、急性期の我々は回復の見込みがあるとされているが・・・、ということである。
最初にしゃべったときから「私はこの人を絶対に知っている」と思ったのが、神野三鈴演じるラチェット婦長だ。
絶対に知っている、でもどうしても名前が浮かんで来ない、とかなり悶々としてしまった。休憩時間にポスターを見て「おぉ、そうだった!」と手を打ってしまったくらいだ。
そして、実はこの物語のキーパースンは、小栗旬演じるマクマーフィでもなければ、チーフでもなく、このラチェット婦長なんじゃないかと思う。
病棟を完璧に管理する彼女には、吉田鋼太郎演じるスパイヴィ医師も逆らえず、患者たちもそのほとんど狡猾とさえ言える手練手管にやられて全く牙を抜かれてしまっているような状況だ。
彼女のねっとりした「Boys」という呼びかけには、何とも言えないゾワゾワとした、ひれ伏さなくては殺されちゃうんじゃないかというような、力がこもっている。
多分、それは彼女の側に「自分が圧倒的な強者だ」という自信があるからじゃないかという気もする。
そうして、婦長に絶対服従し、グループセラピーと称して弱みをつつかれてなお一層萎縮していく患者たちを見て、マクマーフィの苛立ちは募る。
そして、患者たちをときには挑発し葉っぱをかけ、ラチェット婦長の「完全な管理」を打破しようとあれこれ試みる。
最初のうちは、そのマクマーフィが次々に取り出す煙草やチューインガム、カードの出どころがとても不思議だったのだけれど、そのうちまぁどうでもいいかという気分になった。
病棟の患者たちを完全な支配下に置こうとする婦長と、その婦長に絶対服従を誓っている患者達に苛立ち「個」「己」というものはないのかと強烈にアジるマクマーフィとの対立の構造のように見える。
実際のところがどうなのかはともかく、割とこの舞台では、ラチェット婦長を悪、マクマーフィを善とまでは言えなくとも人間味豊かな患者達の味方、と描いているように感じる。
しかし、最初の方のグループセラピーでスパイヴィ医師がカルテを読み上げるシーンで「疑いがある」と言われただけだけれど、映画の設定ではマクマーフィはそもそも「刑務所に入って重労働をするのがイヤで精神病を装った」だけの人物である。
この設定が舞台でも踏襲されたのかはだからよく判らないのだけれど、しかし、そう思って見てしまうと、ここでマクマーフィがやっていることだって、ある意味で、ラチェット婦長の言動とそう変わりはしないのではないかと思ってしまう。
だって、マクマーフィは患者ではないのだ。
だから、マクマーフィが、他の患者達は自分の意思でここから出て行くことができるけれど、自分は婦長の判断がなければ、たとえ刑期としてよていされていた5ヶ月が過ぎたとしても出て行けないと知って暴れたときには、さらに違和感が強くなった。
だって、自分でわざわざ刑務所に入りたくないから精神病患者を装ったのではないか。
そうすると、刑期とは関係なく病気が治らなければ外に出して貰えないと知らずにやった欺瞞ならそれはどちらかというとマヌケということだし、自分が知らなかったことを周りの人間が教えなかったと怒り狂うのもちょっと違うんじゃないのとしか見えない。
「カッコーの巣の上で」という舞台で、マクマーフィが善のように振る舞うことに漂い続ける違和感は、結局、ここにあるのだと思う。
それでも、ずっと耳が聞こえないしゃべらない振りを通していたチーフに対して、まず謝罪するよう強要するラチェット婦長に腹を立てて殴りかかり電気ショック療法をされたり、マクマーフィの女友達であるキャンディと寝た直後の僅かな間だけどもりがなくなっていたビリーに対し、母親を持ち出して威圧し続け彼が再びどもるよりも酷い状況に追い込み、さらには自殺させたラチェット婦長の首を絞めようとしたマクマーフィは、ラチェット婦長に対しているときだけは確実に、患者たちにとって善であり味方だったんだと納得するしかないのかも知れないとも思う。
そこの説得力を持たせるための小栗旬なのかなという気もする。
しかし、自分の身を危険にさらしてまで挑発し、マクマーフィのロボトミー手術を実施させようというラチェット婦長という人は、とんでもない人ではある。
神野三鈴の演じるラチェット婦長は、自分が管理する病棟で事故がないこと、完璧に自分のコントロール下に置くことだけを目的としているように演じられていたと思う。すでに目的と手段が逆転している。ある意味で、病識がない分、この病院にいる人々の中で一番病んでいるのはラチェット婦長なのではとすら思えてくる。
もちろん、彼女のやり方が結局は患者の回復のためであり、プロに徹しているだけだと造形することもできた筈だと思う。変な言い方になるけれど、可能性は無限だなと思うのだ。
最後は、まずマクマーフィに聞こえていることを看破され、グループセラピーでラチェット婦長に責め立てられた際にマクマーフィに庇われて一緒に抵抗しようとして共に電気ショック療法を受けさせられたチーフが、ロボトミー手術をされたマクマーフィに「これはマクマーフィじゃない」「マクマーフィは自分と同じ名前の人形がこの先20年もここにあることを喜ばない」と言って、枕を顔に押しつけ、殺してしまう。
それに気付かない患者たちもどうかと思うけれど、そこにやってきたハーディングが、どさくさに紛れてキープしていた窓の鍵を用いて窓を開け、チーフを逃がそうとする。
しかし、チーフはそれを断り、「おまえなら配電盤を持ち上げてここから脱出できる」「この配電盤を持ち上げられたら奇跡が起きる」とマクマーフィに言われたことを糧に、そのとおり、窓に投げつけて壊し、そこから出て行くのだ。
そういえば、どうしてチーフはこの病院に入ることになったのだろう。語られたけれど見逃していたんだろうか。
最後は、ベッドで死んでいるマクマーフィと、外の光溢れる世界を歩いて行くチーフという対照的な2人だけを舞台に残し、幕である。
それまで舞台を狭く使い、全体的に暗く、プロジェクションマッピングでチーフが語っているときのその心象風景(と思われる)様子を映し出したりしていた舞台と、ほとんどのセットを取り除き、明るい光を強烈に照らしてくるので、目がくらむ。
その目のくらみ方は、多分、チーフの目のくらみ方だ。
ふと我に返るとチーフは殺人犯なのだけれど、しかし、逃げおおせろ、と応援したくなったのもまた事実なのだった。
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コメント
IMA10さま、初めまして&コメントありがとうございます。
映画をきちんと見ておられる方にとっては、随分と違和感のある舞台だったということになりますでしょうか。
どうしても「比べる」ということはしてしまいますし、比較対象が「名作」ということになると、その違和感も大きくなってしまいがちですよね。
私もDVDを借りて来て映画を見てみようかしらと思います。
吉田鋼太郎演じるドクターは、私はラチェット婦長の権力が医師を凌駕するものであることを示すことが最大の目的なのかなと思っていました。
「花子とアン」だけでなく、これからはテレビでもたくさん拝見することができそうですね。
でも、やっぱり舞台で拝見したい役者さんだと思います。
拙い感想に対して、色々と教えていただきましてありがとうございます。
またどうぞ、遊びにいらしてくださいませ。
投稿: 姫林檎 | 2014.08.14 23:17
始めまして。IMA10と申します。先日兵庫で観ました。
皆さんどんな感想かなぁ~と検索していたところ姫林檎さんの
レビューを拝見して 共感するところあり思わずコメントさせて頂きました。
舞台ならではのセリフの応酬の面白さや小栗旬さん始めキャストの芝居熱みたいなものはとても伝わりました。小栗さんは男の僕でも
カッコ良い、色気ある俳優さんだなって思います。
私的には面白い舞台でした。 ただ僕はこの物語でよく引き合いに出されるキーワード「尊厳、解放」等について映画で受け取ったそれと同様のものは希薄でした。映画を引きずって観劇したのが間違いと言われればそれまでですが。
姫林檎さん同様、僕にとっても舞台上の小栗マクマーフィーは登場からやんちゃで気のいい善人でした。
ラチェット婦長は神野さんがどういうプランで、また演出家さんがどういう人物として設定したかは別として
小栗マクマーフィーの強烈でさわやかな存在感の前には
”善vs悪”の 悪側にまわらされるしかなかった、少なくとも観客の意識の中では。
この善人マクマーフィが精神病棟のこれまた既に人間味に溢れてしまっていた患者達と心を通わせ、鼓舞して自己を解放していく(その象徴はチーフ)。 どちらかと言えばそんな感じのハートウオーミングな勧善懲悪ストーリーになっていたのか、そうなってしまったのか、そんな感想です。
だから故にラストのチーフがマクマフィーにとる行動も映画のような意味をもたせられなかったような気がします。他の患者がその現場にいるのも、、ちょっとあれは。。。(笑)
繰り返しますが流石あれだけのキャストが台詞劇で3時間を一気に観せてくれたので舞台自体は楽しめました。
映画は映画、これはこれと観劇中も切り替えようとしましたが
ストーリーラインから舞台、キャラの設定が映画を比較的忠実に踏襲しているのでつい。。 でもそんな見比べての感想も観賞・観劇のひとつの楽しみだとは思います(^^)
またブログでのレビュー読ませて頂きますね。
お邪魔しました。
p.s. 前半にちょろっと出たドクター吉田鋼太郎さんは結局
物語的にどいういった役割なのか最後まで謎でした。
友情出演みたいなものでしょうか(笑)
投稿: IMA10 | 2014.08.13 16:06