「朝日のような夕日をつれて2014」 を見る
KOKAMI@network vol.13 紀伊國屋ホール開場50年記念公演「朝日のような夕日をつれて2014」
作・演出 鴻上尚史
出演 大高洋夫/小須田康人/藤井隆/伊礼彼方/玉置玲央
観劇日 2014年8月2日(土曜日)午後7時開演
劇場 紀伊國屋ホール O列1番
上演時間 2時間
料金 8500円
ロビーでは、「第三舞台」の復刻版や、DVD、Tシャツやパーカ、パンフレット(1000円)等が販売されていた。
開演前後のロビーに鴻上尚史が立っているのも相変わらずだ。
ネタバレありの感想は以下に。
「朝日のような夕日をつれて」17年ぶりの再演だそうだ。
思い返してみたところ、私は,朝日の91と97を見ているらしい。その97から17年ぶりということになる。もうそんなに立ってしまったんだなぁとしみじみする。
確か、91では客席から「帰って来ました!」と登場したのはゴド2を演じていた勝村政信だったと思うのだけれど(97のときはどうだったろう)、今回はゴド1を演じていた藤井隆が「17年ぶりに!」と叫んだときには、本当にしみじみしてしまった。
「朝日のような夕日をつれて」というお芝居の枠は、そういったところも含めて、ほぼ踏襲されていたという印象だ。
真っ暗な舞台から聞こえるウィスパーで始まり、八百屋になった舞台の一番後ろに下がった5人が群唱して終わる。
使われていた音楽も、アレンジは変えていたけれど、局はほぼ同じだったんじゃなかろうか。思わず「懐かしい」と呟いてしまったくらいだ。
「みよこの手紙」の冒頭とか、ウィスパーから始まる「朝日のような夕日をつれて」とか、そういう部分も、印象としては変わらない。でも、全く同じではなかったような気がする。
ついでに書くと、フラフープをしたり、ダーツをしたり、2人のゴドーに対して「本物は誰だ!」とクイズをするのも変わらない。
今さらながらという感じが強くするけれど、「朝日のような夕日をつれて」は、大きく二層構造になっている。
一方は、言わずと知れた「ゴドーを待ちながら」の世界だ。ウラジミールとエストラゴンは、大高洋夫演じるウラヤマと小須田康人演じるエスカワに置き換わり、玉置玲央演じる少年が「ゴドーさんは来られないって」と伝言を持って来るのだけれど、藤井隆演じるゴド1だけでなく、伊礼彼方演じるゴド2まで登場する。
待たれていると信じていたゴドーたちだけれど、ウラヤマもエスカワも全く待っていた様子もなく、感動の再会もなく、あっさり去って行こうとする。
もう一方は、立花トーイというオモチャ会社の世界で、小須田康人演じる社長に、大高洋夫演じる企画部長だったか営業部長だったかとにかく部長、藤井隆演じる研究員に、伊礼彼方演じるマーケティング担当(マーケッターとか言われていたような気がする)、玉置玲央が演じていたのはこっちの世界では何だったか、インタビューされる人ってことになるんだろうか。
そして、こちらの世界には、社長の娘として「みよこ」が登場する。
何故だか、みよこだけはひらがなで書きたくなる。
今回、立花トーイが社運をかけて開発したのが「SOUL LIFE」というネットゲームだ、と言っていいのだと思う。
「SOUL LIFE」は、日常の中の非日常を味わえる。
FACEBOOKやそれまでのゲーム等で集めた個人情報を駆使し、その人に合った、その人を傷つけない世界をゲームの中で「日常」として展開する。
趣味が全く同じ人と出会えることさえ簡単にできてしまう、かも知れない。
ある意味「ゲーム礼賛」なのだけれど、うーんと、それってゲームではなく現実逃避なのでは? とか、「自分が傷つかない、他人を傷つけない」という世界をそんなにイイモノ風に持ち上げるってどうなの? とか、そういう疑問がふつふつと湧いてくる。
あれ、こういう構造だったっけ? と思ったのは、多分、ここだけだ。
他は、逆に言うと、もう徹底して「フォーマット」を守っていたという印象である。
オマージュなんだろうなという感想が、頭の中に何度もやってきた。
何しろ紀伊國屋ホール50周年記念だし、「朝日をやらなければ第三舞台は終われない」のである。もっとも、ついつい久々に買ってしまったパンフレットの小須田康人のページを見たら「僕にはそういう感覚はあまりない」とキッパリ書いてあって笑ってしまった。
そうそう、予定調和っていうのはやっぱり良くないんだよと思う。
全体の印象としては、大高さんも小須田さんも50歳を超えてすごくよく動くなぁと思う。「見せ方」が上手いのかも知れないけれど、動きを抑えているとか、動けていないとか、そういう印象はまったくない。逆に3人の若手を引っ張っているという感じさえする。
この「全然変わっていないじゃん!」ということの凄さを考えるとクラクラする。
そしてこの2人が煽っているという感じは全くないのだけれど、藤井隆と伊礼彼方については煽られているなぁという印象があるのが不思議だ。
少年の玉置玲央は、どこまでもマイペースという感じがするけれど、それは作った結果なのかもなぁとも思う。いずれにしても、私が見た中では、もっとも「少年」が強い朝日だ。何より、声がいい。
初日開幕後間がないためかも知れないのだけれど、藤井隆が群唱のときなどに他の4人に追いつかず、何を言っているのか聞き取れないことがちらほらあったのが気になる。台詞をしゃべっているときも、早口の台詞に気持ちだけが先走って口は動いていないよ、間に合ってないよ、という感じのところがあった。
それもあって、ゴド1や研究員の存在感が少し薄くなり、強い「少年」と、アナ雪の「Let it go」の替え歌を朗々と歌い上げたゴド2とのバランスが、これまでの「朝日」とは違う印象を生んでいたと思う。
藤井隆の武器は「動ける」というところだと思うのだけれど、他の4人も相当に動けてしまったからその武器が使えず、「声」という武器を持たない分、弱くなっているように思う。
多分、この部分が一番「違った」ところなんじゃなかろうか。
それともう一つあらと思ったのが、映像を駆使していたところだ。
バーチャルリアリティのシーンなどではもちろんこれまでも使われていたけれど、最初のダンスシーンで手前に薄いスクリーンを降ろしてそこに踊っている姿を映し出し、透けて見える役者さんとの二重写しのようにしたり、「いかにも手作り」な感じだったクイズや教室のシーンのバックを、いかにも手描きな映像を後ろのスクリーン(でいいんだろうか)に映し出すことでセットに代えていたりした。
手元にある朝日のDVDを全て見返してみたくなった。
「SOUL LIFE」が生み出すというノスタルジーを、「朝日のような夕日をつれて2014」も生み出した、ということかも知れないと思う。
「第三舞台」が変わり続け、変わらないのと同じように、「朝日のような夕日をつれて」も変わり続け、そして変わらないんだなと思ったのだった。
<2014年8月4日追記>
ふと、通勤電車の中で、これまでの「朝日」にはあったけれど、今回の「朝日」からなくなっていたシーンに気がついた。
そういえば、今回、全員で力一杯何かを投げ続けるシーンがなくなっていた。
確か、17年前の「朝日」のときにもこのシーンは危ない(肩を痛めるかも)というような話が出ていた、ような気がする、と思う。
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