「火のようにさみしい姉がいて」 を見る
シス・カンパニー公演「火のようにさみしい姉がいて」
作 清水邦夫
演出 蜷川幸雄
出演 大竹しのぶ/宮沢りえ/段田安則/山崎一
平岳大/満島真之介/西尾まり/中山祐一朗
市川夏江/立石涼子/新橋耐子 他
観劇日 2014年9月27日(土曜日)午後1時開演
劇場 シアターコクーン 2階B列12番
上演時間 2時間10分(15分の休憩あり)
料金 9500円
ロビーではパンフレット(1000円)が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
幕開けは、楽屋のような空間で、鏡の前で段田安則演じる「男」がオセローの台詞をおさらいしている。
鏡が並んだ空間の向こうには床屋と思われる空間が透けて見えている。
満島真之介演じる青年が「15分前です」「10分前です」と伝えに来たり、宮沢りえ演じる「男」の妻と思しき女がやってきて「昨日、上手く行かなかったところをもう一度さらっておきましょう」と言ってオセローがいきなり始まったりすることで、ここが舞台の楽屋裏であることが判る。
衣装もメイクもなく演じられる「オセロー」らしい。
そうして、男と妻と青年とが語るうちに、妻も男と結婚する前は女優だったことや、「妻が22ヶ月妊娠し続けている」と思い言い張っているのは男なのか妻なのか全く判らないよ、ということなどが判ってくる。
宮沢りえ、綺麗だよねー、スタイルもいいよねー、と思う。
鏡がずらっと一列に並べられているせいか、後ろ姿を見せての演技が多いので、余計にそう思う。
そして、その鏡には、舞台上の役者だけでなく、客席にいる人々をも映し出している。ある意味、蜷川演出の定番である。
さて、おかしなことを言っているのは男なのか妻なのか、それが判らないまま、この2人はオセローの舞台が終わると転地療養のため、男の故郷に向かったらしい。
男が故郷に帰るのは20年ぶりだし、妻は結婚して7〜8年くらいらしいので、もちろん初めてである。
駅の近くからバスに乗るはずがバス停が見当たらず、2人は近くにあった床屋さんに道を聞こうと入ってみるが、開けっ放しになっているのに無人である。
かなり不気味だ。
妻が勝手にお手洗いを借り、男がつい興が乗って鏡の前でオセローの台詞を語っていたところ、男の手が当たってカップを割ってしまう。
そのカップが床に落ちて割れるタイミングで、大竹しのぶ演じるこの床屋の主人らしい「中ノ郷のお姉さん」や、山崎一演じるみをたらしらが戻って来る。
この床屋の客は、多く、薬売りを担ってきた老婆たちらしい。
みをたらしだって、「女として生きてきた」男らしいのだ。
中ノ郷の女がカミソリを研ぐ「シャリっ シャリッ」という音をBGMに、男とこの老婆達がやりとりを始める。
カップの弁償問題で揺れる。
「オセローの続きが見たい」と言われる。
男の調子は狂いっぱなしで、段々、怒り始めているようにも、転地療養の甲斐は全くなかったようにも見える。大汗をかいて髪を振り乱し、一言で言うと「哀れ」という感じの見た目だ。
そこへ、トイレを借りていた妻が戻ってきて、事態はさらにややこしくなって行く。強気の妻と弱気な男、夫の郷里に馴染もうという妻ともう捨てた郷里だと思っているようにも見える男、床屋の客達は最初は「こんな奴知らね」という風情だったのに、そのうち、役者としての男を知っていることも、男がこの近辺の出身であることも知っていることが明らかになって行く。
男が不条理に打ちのめされているようにも見えるし、妻が事態をさらに悪化させているようにも見える。
男は、ほとんど錯乱状態になって、客である老婆の一人を殴り倒してしまい、本人も反撃されてひっくり返ってしまう。
多分、この辺りで休憩に入ったと思う。
だから、転地療養になっていないじゃん、ここに男は戻ってこない方が良かったじゃん、っていうか、この床屋は一体何なのだ? 男はよっぽど郷里に帰れないようなことをして飛び出したのか? という感じになっている。
休憩が終わると、男はソファに横になっており、妻はコートを脱いで鮮やかな青いワンピース姿になってかいがいしく看病をしている。
ところで、こういったシチュエーションでのお約束のように思うのだけれど、西尾まり演じる、この床屋さんの見習いの女の子がとても効いている。普通そうで、気が利かない感じで、ストンと普通のことを言ったりやったり、「やっぱりあっち側の人間だったのね!」という感じのことをしたりする。ここでは、ものすごーくマズイらしいお茶をわざわざいれて、妻に渡し、でも盛んに「飲まない方がいいですよ」と勧めていた。
そこへ、妻が「呼んでくれ!」と求めた、男の姉と弟がやってくる。
平岳大弟は中学の先生になっているらしい。男は最初、この男が弟だと認めようとしない。弟の方も「自分はかなり前に養子に出されたから」とそのことを極力気にしないようにしている。
でも、この弟を演じているのが平岳大だったとは、最後まで気がつかなかった。ニット帽を深めに被っていたとはいえ、情けない限りである。
しかし、もっと情けないことに、市川夏江も立石涼子も新橋耐子も、多分老婆達の中にいたのだろうと思うのだけれど、全く区別がついていなかった私である。さらに、中山祐一朗も全く気がつかなかった。多分、老婆達の中に何故かしっくりと混ざり込み、ときどき「男」に膝蹴りを食らわせていた男だろうと思うのだけれど、確信が持てていない。
ここで、弟に「がっかりさせないでくれ」と懇願された後に現れた「姉」が実は床屋の女主人だったというところから、俄然、舞台は「姉 vs 妻」の様相を帯びてくる。
どちらも戦闘的で強気、そして、「吾こそは男の保護者」と思っている。三角関係だ。
宮沢りえのどこまでも張って押していく声と、大竹しのぶのぼそっと低いのにどこまでも届きそうな声の争い、という感じもする。
いや、この2人の言い争いの中に挟まれた男はいたたまれないだろうなぁと、現実なのか虚構なのかどちらに対してなのかよく判らないまま同情心が湧いてきたくらいだ。
そのうち、「嘘をついているのは、男か女か」という勝負になってくる。
床屋の女主人は、「しいちゃん(というのが男の幼少時の呼び名だったらしい)は、人を騙す天才だった」という主張を崩さないし、男は「こんな女は自分の姉じゃない」という立場をどこまでも貫き通そうとする。
これが、男と女の言い分が拮抗していて「どちらが本当なんだろう」と思えればまた別の話になりそうだけれど、今回はどう見ても男の分が悪い。
男の妻だって、どんどん、「男の姉」と名乗る女の主張を前提として語るように仕向けられているように見える。
この床屋の女主人がまた、本当に姉なのかどうかはともかくとして、恐ろしく「ツボ」を心得た人である。彼女の方が「人を騙す天才」なんじゃないかというくらい、人の感情を手玉に取る。
この場合は、男の妻に対して、「自分は男の子供を産んだ」とほのめかすというほぼ最終兵器を繰り出すのだ。恐らくは、男を妻の手から取り戻すためになのだから、徹底しているし、恐ろしい。
こんなに恐ろしい、そして自分を支配している姉のいる場所にどうして帰ろうなんて思ったんだ、と思うけれど、床屋の女主人が男の姉だと決まった訳でもないし、男にとっての「姉」は全く違う人格である可能性もある。
もう、この頃にはどちらが本当でもどうでも良くなっているのだけれど、文章で振り返ってみると本当にややこしい。
ややこしいけれど、「でもそんなことはどうでもいいよ」「この女二人の緊迫した空気と男の情けない感じの前では、真実なんてどうでもいいよ」という気分になるから不思議である。
そうして、妻は、男が「役者として自分はそろそろ終わりだ」というようなことを言ったことに衝撃を受け、楽屋で青年に指摘され、本人もうすうすは判っていた筈なのだけれど、今まで言葉にはしたことがなかった本音を叫んでしまう。
「自分の方があんたよりも役者としての才能があった」「あんたのサポートになんか回らなければよかった」
妻としては本音以外の何ものでもないのだろうし、自分をサポートに回らせたんだからもっと役者の道を邁進しろよ! という思いも当然あっただろうと思うのだけれど、錯乱し切っている男には、これ以上の爆弾はないという感じである。
大体、男だって「妻の方が自分より役者として将来性があったかも」と思っていたに違いないのだ。
見ている間、特に休憩後の後半は特に思っていたのだけれど、このお芝居で淋しいのは「姉」なのかなぁという気がする。
床屋の女主人が姉だとすると、どう考えても淋しいのはこの姉よりも妻のような気がするのだ。
逆に、床屋の女主人が実は全くの赤の他人で姉ではなかったとすると、存在を消されてしまったかのような「本物の姉」はそれは火のようにさみしいだろうよと思う。
床屋の女主人が「姉」だったとしても、ここまで完全に弟に忘れ去られているのか、姉ではないと思い込まれているのか、「姉でなんかあるものか」と思い込みたがっているのか、弟との関係ではそれはやっぱり「火のようにさみしい」ということになるんだろうか。
何だかもうよく判らなくなってしまう。
逆上した男は、妻に掴みかかって喉を締め上げ、これまでは一応「寸止め」で済んできたのだけれど、その「寸止め」を大きく逸脱して、ついには殺してしまう。
そんな中、そういえば要所要所の響いていたカミソリを研ぐ音が再び聞こえ始める(確か、床屋の女主人がおもむろに立ち上がってカミソリを研ぎ始めていたような気がする)。
舞台が暗くなり、(割と珍しい感じがするのだけれど)幕が降りてきて、「幕」である。
判らないことがたくさん残るのだけれど、別に判らなくてもいいよねと思う。というか、「判らない」ということが全く気にならなくて、女の戦いを見て、男の情けなさを見て、それで十分! という感じがするのだ。
「女は怖い」というのが、この芝居であるという気がする。
わやわやといた老婆たちだって、相当に怖い女たちであったに違いないのだ。
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