« 「ア・ラ・カルト アンコール 役者と音楽家のいるレストラン」のチケットを予約する | トップページ | 「暴走ジュリエット」を見る »

2014.10.12

「小指の思い出」を見る

「小指の思い出」
作 野田秀樹
演出 藤本貴大
出演 勝地涼/飴屋法水/青柳いづみ/山崎ルキノ
    川崎ゆり子/伊東茄那/小泉まき/石井亮介
    斎藤章子/中島広隆/宮崎吐夢/
    山内健司/山中崇/松重豊
ミュージシャン 青葉市子/Kan Sano/山本達久
観劇日 2014年10月11日(土曜日)午後2時開演
劇場 東京芸術劇場プレイハウス 1階D列11番
上演時間 2時間5分
料金 5000円

 ロビーではパンフレットやCDなどが販売されていたけれど、何だか立ち寄りそびれてしまった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 東京芸術劇場の公式Webサイト内、「小指の思い出」のページはこちら。

 「小指の思い出」を見た記憶はないのだけれど、何故か主人公が「赤木圭一郎」だということは知っていた。
 何故だろう。戯曲を読んだのだろうか。
 しかし、ストーリーにも全く覚えがなかった。相変わらずの記憶力のなさに我ながら笑えてくる。

 舞台上に幕はなく、デコボコとしたモノの上に生成り(真っ白ではない)布がかけられている。
 その布が取り払われると、そこには車があり、何やら鉄骨のようなものが組まれた枠があり、自転車がある。
 舞台奥には、「prologue」等と章立ての番号とタイトルが表示される。一番最初に出ていたのは、羊の画像と番号で、勝地涼演じる赤木圭一郎が、「羊が一匹、羊が二匹・・・」と数えている。
 この舞台では、何故か、少なくともこの最初のうちは、判りやすくみながマイクを付けていた。
 そういえば、終わり頃にはほとんどこのマイクが気にならなくなっていたのだけれど、マイク自体がなかったのか、マイクに私が慣れてしまったのか、どちらだろう。

 「小指の思い出」は、赤木圭一郎が「当たり屋」を育てる専門学校に通っている場面と、その彼が「子供時代に戻れる」という白い実(実は歯磨きペースト)を口にしたことで飛ばされる、昔のニュルンベルグの場面とを行ったり来たりしながら進んで行った。ような気がするのだけれど、どうも今ひとつ定かではない。
 その辺りは、わざと曖昧にして、舞台を使っていたような気がする。
 現代の日本だったら車だし、昔のニュルンベルグだったら馬車だし、現代の日本だったら警官だし、昔のニュルンベルグだったら男爵なのだけれど、その辺りは、「判らそう」とは思っていないように見える。

 最初のシーンで赤木圭一郎が羊の数を数える中、青柳いづみ演じる粕羽八月(だと思う)が乗る車の上に、飴屋法水演じる粕羽聖子が立ち、大きなハンマーをずっと車の天井に打ち続ける。その姿が異様だ。
 何のためにそんなことをしているのか、そもそも、車の運転席に座る女と、その車の天井に乗っかって打ち続ける男はどんな関係にあるのか、何者なのか、全く判らない。
 その2人の(といっても、運転席の女は子の時点でほとんど姿は見えないのだけれど)異様さが、多分、この芝居の底にある不気味さを醸し出していたと思う。それは、最後まで続く。

 やっぱり舞台は見たことがないよなぁ、「小指の思い出」っていう戯曲を読んだことがあるかなぁと思いながら見ていた訳だけれど、夢の遊眠社の「小指の思い出」を見たかどうかは置いておいて、思っていたのは、テンポって重要なんだなということだった。
 もっと早くていい、もっと畳みかけるようにぶつけてくればいいのにとずっと思っていたような気がする。
 最初のうちは、台本をかなり変えたのかななどとも思っていたけれど、途中からは、やっぱり野田秀樹の作品だと思うことの方が増えて行った。言葉遊びが途中からぐわっと増えたからかも知れない。

 でも、野田秀樹の戯曲を野田秀樹が演出したときには、常にある一定以上のテンポが維持されていると思うのだけれど、そこをかなり抑えめにしているような気がした。
 そして、台詞はゆっくりはっきり言われた方が入ってくるのが普通だと思うのだけれど、これが何故か入って来ないのだ。もっとテンポ良く言って、そしたら判るから、という気がずっとしていたのが不思議である。
 早く、聞き取れないくらいにポンポンとやりとりされた方が伝わるってことがあるんだなと思った。意外だ。

 飴屋法水と青柳いづみの2人が重奏低音のように不気味さを醸し出していたのと同じように、青葉市子らの音楽が不思議さというか爽やかさというか、浮揚感みたいなものをこっそりと流し続けていたように思う。最初は意識して音楽を聴いていたのだけれど、そのうち舞台と一体化してしまって、特に音楽に意識を向けることはなくなった、
 その見た目に見覚えがあって、しばらく考えてしまったのだけれど、青葉市子は、9日間の女王の舞台でも拝見している。あのときは、一部演じてもいたし、歌っている場面も多かったのだけれど、今回は完全に背景に溶け込んでいた。

 うんと後ろに下げて見た目の存在感を薄くするなどということができたのは、舞台を相当に広く使っていたためだ。自転車を走らせたり、自動車を台車のようなものの上に乗せて何台も舞台の上に置いたりしていたからか、舞台上に幕のようなものは一切なくて、舞台の奥、袖の奥まで見えていた。
 その閉ざされていない空間は、多分、先ほどの2人が醸し出す不気味さを緩和し、その不気味さに負けないために必要だったのだと思う。

 不気味さとメインで戦っていたのは、赤木圭一郎と、当たり屋文左衛門らを演じた松重豊だったんじゃなかろうか。
 一定のイントネーションを維持していた青柳いづみや、ほとんど台詞を語らなかった(という印象が強い)飴屋法水とは違って、この2人はやたらと滑舌良く、爽やかに、あくまでも正面切って、様々なことを語っていたような気がする。
 現代の当たり屋業は割とすぐ舞台の端に追いやられ、ニュルンベルグの当たり屋であり、そして自らの子供を妄想の世界に作り赤木圭一郎すら自分の子供にしてしまった、粕羽聖子という女性の妄想の世界にあっというまに席巻されてしまう。
 この粕羽聖子役は、ほとんど飴屋法水と青柳いづみの2人1役みたいなもので、それが余計にややこしくし、判りにくくし、そして不気味さを増幅させていたようにも思う。

 最後には、赤木圭一郎である子供を殺した罪で粕羽聖子が極刑を言い渡され、そして、幕となる。
 同じ戯曲でも演出家が変わることによって舞台は変わるし、役者が変わったり見る側が変わったりすれば、多分、また別の芝居になる。
 戯曲を書いた人が演出することは、考えようによっては意外と短い間しかできないんだよなぁとか、上手く言えないのだけれど、何だかそんなことを考えてしまったのだった。
 

|

« 「ア・ラ・カルト アンコール 役者と音楽家のいるレストラン」のチケットを予約する | トップページ | 「暴走ジュリエット」を見る »

音楽」カテゴリの記事

*芝居」カテゴリの記事

*感想」カテゴリの記事

コメント

 みずえ様、コメントありがとうございます。

 そういえば、感想の本文中には書きませんでしたが、私は初藤本貴大演出作品だったので、それで余計に判らないかも、と思ってしまったのかも知れません。

 何だかよく判らなかったですよね(笑)。
 でも、「何だかよく判らなかった」もアリかなと思っています。

 またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。

投稿: 姫林檎 | 2014.10.14 23:07

姫林檎さま

私も観ましたよ。
この舞台は初めてでした。
なので、野田さん演出のそれと比較することはできませんが、恐らく藤本さんの色は濃かったんでしょうね。
音の使い方なんかも、すごく印象的でした。

ただ、正直なことを言うと、私はあまり意味がわからなかったです……最後の方でやっと、輪郭がぼんやり見えてきたくらいでした……。

投稿: みずえ | 2014.10.14 13:27

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「小指の思い出」を見る:

« 「ア・ラ・カルト アンコール 役者と音楽家のいるレストラン」のチケットを予約する | トップページ | 「暴走ジュリエット」を見る »