「自作自演」第10回を見る
芸劇+トーク 異世代リーディング「自作自演」第10回
出演 立川談春/前川知大
観劇日 2014年12月22日(月曜日)午後7時開演
劇場 東京芸術劇場シアターイースト D列18番
料金 3000円
上演時間 2時間5分(10分の休憩あり)
ネタバレありの感想は以下に。
30分ずつ「自作自演」した後10分間の休憩、それからトークという構成である。
前に第7回を見ていて、そのときには徳永京子氏がトークの司会として参加していたけれど、今回は司会なしということで、劇場スタッフ(だと思われる)方が最初の挨拶だけやっていた。
その挨拶に「原発反対の集会じゃないんだから」と突っ込みを入れたのが談春師匠で、ご本人曰く「僕、凄く感じ悪い人みたいに見えてると思うけど、前川君が本当に見て判るくらい緊張していて、少し雰囲気を柔らかくしないと」ということだった。
それでもまだ腑に落ちない感じだったのだけれど、前川知大のリーディングが始まって、まず説明しますという感じで喋り始め、「凄く緊張している」「劇団員も来ているし」「自作を読むって人生で2回目で」「ちょっと暖めようかと言われたのでお願いしますと答えた」等々と話しているのを聞いているうちに何となく場が本当に温まってきたのを感じた。
「翻案というのは・・・」とか、「ニコ生というのは・・・」とか、「基本的にト書きは読みませんが1ヶ所だけそれを言わないと判らないところがあるので・・・」とか説明が入る。
前川知大が読んだのは、ドストエフスキーの「地下室の手記」を翻案して一人芝居に書いた「地下室の手記」の冒頭部分である。
カメラに向かって独白しそれをニコニコ動画で生放送、という設定の一人芝居なので、そもそもセリフは全編独り言というか呟きのようなものである。だから、実を言うと、トークの部分と、リーディングの始まりの部分がはっきりとは判らなかった。狙っていたのか、私が単純に鈍いのか、理由はよく判らない。
安井順平が演じたこの一人芝居は見ていて、二人はキャラクターも声も見た目も全く違うのだけれど、イントネーションというかしゃべり方がどことなく似ているなぁと思った。
蜷川幸雄演出の「太陽 2038」のときに、稽古の最初に劇作家本人によるリーディングが必ずあるのだそうで、凄く嫌だったけれど押しに負けてやることになり、2時間半にわたって出演者やスタッフが聞く中自分で読んだ、ほとんどイジメだ、蜷川さんは隣に座って多分作家が力を入れて読んだ箇所なんかをチェックしていた、と言っていたけれど、前川知大は作・演出をしていたから、作家が力を入れたいところを演出家として力を入れるように演出し、結果、作家の読み方と役者の読み方に共通点が生まれたのかなぁと思う。
始まりからして、ナチュラルな感じだった。
談春師匠は「こんなに緊張しているのに、前川君の方が先なんだよ」と言っていたけれど、談春師匠の後で読む方が地獄でしょ、と思ったのは私だけではない筈である。そのときの劇場スタッフの方が「若い方からということになっていまして」と答えたのは恐らくは素直な反応で、談春師匠が腕を叩いて見せたことで笑いに変わっちゃうんだなと思ったことである。
「みんな、地下室の手記は見ているんでしょ? それを劇作家が読むのを聞くのは面白いかも知れないけどさ」と言いつつ読み始める。いや、談春師匠目当てで来ている人も多いんじゃないかなぁという客席だったのだけれど、どうなんだろう。
前川知大の読み方もナチュラルだったけれど、談春師匠の読み方もナチュラルである。ただし、こちらは落語的なというか、「本を読んでいる」という感じではない、ほとんど落語を噺しているかのような読み方という意味だ。
でもナチュラルだと感じるのは何故なんだろう。会話が続いていたせいなのか、そもそも本当にそういう本だったのか、文章で書いてあったものをその場で会話体に変えて語っているんじゃないかと途中で疑ったくらいだ。
このシリーズに落語家に登場願うのは初めてだと劇場スタッフの方が言っていたけれど、当たり前だけれど、やっぱり「語り」が違うのだった。何だか素で語っているように見える。でも、芸にも見える。何だか不思議なナチュラルさだった。
あー、楽しかった、と普通に思っている自分がいる。
同時に、どちらの「自作自演」も怒りをテーマにしていて、かつ、こちらに焦燥感を抱かせるなぁと思った。それが題材の力なのか、読み方の為せる業なのか、その両方が組み合わさった結果なのか、あるいはこちらの状態が一番の因子なのかはよく判らないのだけれど、ざわざわっとした感触を残すリーディングだった。
10分間の休憩の後、トークになった。
今回は司会なし、二人だけのトークである。
ちなみに、前川知大はシャツにネクタイ、談春師匠はスリーピース(だったような気がする)という服装で、談春師匠曰く「こういう格好で人前に立つのにも慣れてきた」そうだ。
このトークも面白い話、いい話、意外な話が炸裂していて、じっと息を詰めて聞いたり、大笑いしたりと大忙しだった。
二人がどうして知り合ったかという話(談春師匠が出た舞台に、イキウメの大窪人衛が呼ばれたことがきっかけだそうだ)、高校中退した話、「劇団をやっていく」のも「落語家として弟子を持つ」のも大変だという話、蜷川幸雄氏の話、談春師匠が見た「獣の柱」の話、「談春七夜」の話などなどが続く。
談春師匠が話のリードを取って、「しゃべり過ぎじゃない?」と思わせるちょっと手前で前川知大に話を振って語らせる、その辺りのタイミングは当たり前だけれど当意即妙という感じだ。
トークが盛り上がったところで、「会場から質問をしてもらってもなくてもいいと言われている」「我々もどちらでもいい」「質問があったら答える用意はできている」「質問したい人いますか?」ということで、質問タイムになった。
「劇団イキウメの名前の由来は?」という質問に、一言「勢いです」と答えたのが可笑しかったけれど、劇団のコンセプトとして生から死を覗き込むというのがあるという説明になるほどと思う。
蜷川幸雄氏の演出は劇団イキウメの芝居とは180度違っていて、「太陽 2038」はあまり良くなかったと思うという率直な感想を述べた方もいらして、それに対する答えが「自分は、自分の作品を抱え込むのではなくて色々な芝居に作ってもらいたいと思っている」「蜷川幸雄氏の演出は自分たちの芝居と全く異質だということは最初から判っていたので、どういう風になるか楽しみだった」という趣旨の回答になるほどなぁと思う。
作・演出の両方をやるということ、劇作家であるということ(多分、前田知大が自作でない芝居を演出したことはないのだと思う)、プレイヤーではないということも多分、そこに影響しているのではないかと思う。
談春師匠が「いい質問ですね」と評していた質問の内容と答えが何故かどうしても思い出せないのだけれど、最後の質問は覚えている。小さな空間から大きな空間でやるようになって何か変わりましたか、という質問である。
その質問に対して、談春師匠がかなり考え込んで自問自答していた、ような気がする。
前川知大の答えは、大きさというよりも、劇団の芝居だったらついてきてくれるお客さんがいるけれど、スーパー歌舞伎を書いたときにとにかく判りやすく書くように、例えば10行のセリフを書いたら「3行にしないとおばあちゃんが寝ます」と言われたという話を語っていた。
スーパー歌舞伎は見たし、イキウメの芝居も見たばかりなのだけれど、自分に置き換えてみて、そういう違いを全く感じていなかったのが我ながら情けない。
同時に、前に横内健介がスーパー歌舞伎を書いたときに市川猿翁に「悪役は悪役として書かなければ(そこに葛藤を書いたりすれば)役としての大きさを失う」と言われたという話を思い出した。
談春師匠は「上下(かみしも)を切る」ということを言っていて、この言葉の意味が判らずに思わずじーっと顔を見て言っていることを理解しようとしてしまったのだけれど、何というか私には「客席の大きさを意識する」「客席のどこに向かって話すかを区別する」というような意味に聞こえた。
それが違う、ということだ。
大きな空間で小さく芸を見せる、そういうやり方もあるけれど、2階席の一番後ろで、1階席だけに届くテンポ等で落語をやっているのを聞いたときに、2階席では「1階席と落語家とのやりとりを見せてもらっている」という感じでつまらなかった、だから工夫が必要だということのようだ。
音ではなく声を届けるためには優秀なスタッフが必要だし、そうすると落語が個人の芸から集団の作品になるという話や、志の輔師匠(兄、と呼んでいた)はパルコ劇場でやるときと1500人の会場でやるときは(同じ噺であっても)違う落語をやっている筈だし、その大きさに対応していると思う、という話をしていた。
最後は「もう帰ってください」と談春師匠が締めて、お開きとなった。
面白かった。いいものを見たし、聞いた。
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