「ブエノスアイレス午前零時」を見る
パルコ・プロデュース公演 「ブエノスアイレス午前零時」
原作 藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」(河出書房新社)
脚本 蓬莱竜太
演出 行定勲
音楽 coba
出演 森田剛/瀧本美織/橋本じゅん
千葉哲也/松永怜子/松本まりか
村木仁/伊達暁/原田美枝子 他
観劇日 2014年12月5日(金曜日)午後6時30分開演
劇場 新国立劇場中劇場 17列54番
上演時間 3時間(15分の休憩あり)
料金 10000円
ロビーではパンフレット(1800円、だったと思う)などが販売され、またリピーターチケットも売られていた。
ネタバレありの感想は以下に。
始まりは空っぽの舞台だ。
黒いそのまんまな感じの床と、そこに四角く開けられた穴があって、最初は井戸かと思ったのだけれど、どうやら温泉がそこで湧いていて森田剛演じるカザマはそこで温泉卵を作っているらしい。
原田美枝子演じる白い杖をついた白髪の女が現れ、二人は話し始める。
幕開けはこうだ。
カザマが勤めている「新潟と福島の県境にある」温泉ホテルはなかなか経営が厳しいようで、ダンスホールで社交ダンスができることを売りにしようとしているらしい。
社交ダンスのグループが団体で泊まりに来ていて、従業員たちはその準備で忙しい。支配人夫妻もダンスを踊るようだ。掃除も忙しいし、男性従業員はダンス必修ということになっているようだ。
そこへ、先ほどの白髪の女が現れ、カザマの兄が現れ、そして、白髪の女ミツコは社交ダンスご一行の一員であることや、カザマのことをニコラスという男と間違えていることなどが判って来る。
そうして、ミツコの語る「彼女が若い頃にいたブエノスアイレス」と「日本の温泉ホテル」、ブエノスアイレスにいたニコラスという男とカザマが重なり始め、日本の温泉ホテルにいる年老いたミツコと、瀧本美織演じるブエノスアイレスにいた頃のミツコが分離し、時と場所が飛び交いながら、森田剛だけは衣裳もほとんど変えずにカザマとニコラスの二役を演じて行く。
錯綜感というか迷宮感を出そうという構成だと思う。
意図はそうなんだろうなと思うし、新国立劇場の贅沢な舞台機構をふんだんに活用して温泉ホテルとブエノスアイレスのボカという港町の酒場との転換もスムーズだし、カザマとニコラスを演じる森田剛と、年老いて温泉ホテルにいるミツコをその姿のままブエノスアイレスの酒場の隅にこそっといさせるという工夫とで二つの世界の繋がりを保とうとしているのも判る。
また、カザマとニコラスを演じる森田剛と、ミツコを二人一役で演じる原田美枝子と瀧本美織以外の出演者は、全員が一人二役で日本とブエノスアイレスと両方に登場する。
ブエノスアイレスでミツコの姉貴分の娼婦を演じていた松本まりかが、日本ではミツコを介護するバイトを演じ、白髪のミツコから「姉さん」と呼ばれている、なんていうのも工夫だと思う。
でも、見ているときは、これってストレートにブエノスアイレスだけの方が楽しいんじゃないかなと思ってしまった。
見ているときは、きっと原作小説も両方の時と場所を行き来するようなお話なんだろうな、それをそのまま舞台化したんだろうなと思っていたんだけれど、帰宅してサイトを見てみたら、どうやらこの「二つの時と場所を行ったり来たりする」というのは、舞台化に当たっての工夫だったらしい。
ちょっと意外だった。
ストーリーを全く知らずに見に行ったので、ミツコの語るニコラスとミツコはどうなってしまうんだろう、という興味で引っ張られる。
だから余計に、そこだけでぐいぐい引っ張ってくれればいいのにと思ってしまったのかも知れない。
酒場というよりは娼館の入口で倒れていたミツコをニコラスは店に拾い、橋本じゅん演じるボスに会わせると、ボスは彼女を自分の女として酒場の歌手として扱うと宣言する。ある意味、出世だ。
ミツコはニコラスを気に入ったようで、折々、花札をしたり、閉店後に遊びに来たりしていたらしい。
そうしてミツコがこっそり遊びに来ていたときに、ボスが酔っ払ってたった一人で店に現れ、ミツコがいることを知って激高し、ニコラスを殺そうとしたところをミツコが酒瓶で頭を殴って殺してしまう。
・・・と思ったら、実はボスは生きていたのだけれど、千葉哲也演じる一の子分のフアンが現れて起き上がってきたボスをナイフで刺し殺し、ニコラスは二人の代わりに警察に出頭する。
もの凄く大ざっぱだけれど、ここまでが一幕だ。
一幕の終わりだったか二幕の始まりだったか忘れたけれど、白髪のミツコが「このときに初めて会ったのじゃない」と叫んで、そこに何かがあることが示される。
一幕は、割と交互に日本とブエノスアイレスが語られていたのだけれど、二幕になるとその境目が少しずつ曖昧になって行ったような気がする。どちらともつかない(というか、敢えて明確にしない)場面が増えたような気がするのだけれど、芝居を見ているときの私の記憶力はかなり偏っているので定かではない。
二幕は、5年後に刑務所から出てきたニコラスが酒場にやってきて「ミツコに会わせろ」「フアンに会わせろ」と叫ぶところから始まる。
いつの間にか、ニコラスは「狂犬」扱いだ。ボスを殺したから、なんだろうか。
ミツコはがらりと雰囲気を変え、フアンの女になり、そして娼婦としても働いており、名前もマリアと変えたらしい。
そんなミツコを見ても、ニコラスは5年前の姿しか見えないのか、「どうしたんだ」「フアンに無理矢理働かされているんだろう」と言い続けるし、ミツコはミツコで「ミツコなんて名前の女はいない」とドスの利いた声で受け答えする。
随分と雰囲気を変えたものである。
それでもミツコに執着するニコラスは、行きずりの浮浪者を殺して持っていた金を奪い、その金でミツコを買うと大見得を切るけれどフアンに笑って莫迦にされ、殺されそうになったところを、「1時間だけ買われましょう」と言ったミツコに救われる。
二人だけになるとミツコはがらりと雰囲気を変え、このままでは殺されるから逃げてくれと懇願し、ニコラスはお前も一緒に逃げるんだと返す。
王道といえば王道の展開である。
そうして逃げようとした二人だったけれど、ミツコは土壇場でやはり逃げられないと言い、フアンは、ニコラスの保釈金を払ったのは自分だけれどその保釈金をミツコは生涯かけて返すと言ったんだ、とニコラスに言う。
ブエノスアイレスの話は実はここで終わりで、この先のミツコとニコラスの話は全く語られない。
唯一、白髪になったミツコが日本の温泉ホテルにいるということだけが語られている。
このブエノスアイレスでの最後の場面と、日本の温泉ホテルで開かれているダンスパーティにミツコがドレスを着て現れ、森田剛と原田美枝子と瀧本美織の三人でタンゴを踊っているシーンが、ブエノスアイレスと日本での物語が交錯したことを象徴するシーンだ。
ブエノスアイレスでは男も女もタンゴを踊っているし、日本の温泉ホテルだって社交ダンスパーティーがある訳で、全編にわたってタンゴの音楽が流れているし、踊っているシーンも多い。場面転換の際にもダンスのシーンが使われている。
タンゴの足捌きって綺麗だなぁと思う。何というか女性を綺麗に見せるためのダンスという感じだ。
瀧本美織の足も綺麗だなぁと思う。何だか感想がオヤジくさいけど仕方がない。
でも、3人で踊ったシーンを含めて、もっと綺麗に作っても良かったのになぁという気もする。綺麗にというか、派手にというか、艶っぽくと言った方がいいかも知れない。その踊るシーンくらい、原田美枝子が白髪じゃなくなってもいいんじゃないと思ったのだけれど、その後のシーンとの繋がりがおかしくなっちゃうんだろうか。
多分、本筋とは外れるのだけれど、そこが一番不満だった。
ラストシーンは、再びカザマが温泉卵を作っているシーンだ。
そこへ、橋本じゅん演じるホテルの支配人がやってくる。「カザマくんはここにいるべき人じゃない」「クビですか?」「そうじゃない。やって欲しいことは本当にたくさんある。」というような、いわば心温まる会話が交わされる。
経営していた会社を潰して父親の跡を継ぐことにした兄とは別に、広告代理店での仕事をしくじったカザマもいわばモラトリアムをやっている訳だけれど、ミツコと関わってほんの少し上向きにはなったものの、解決はしていない。「もうちょっとここで迷っていていいですか?」という言葉に、支配人は笑顔になる。
「でも、ここにいるならダンスを覚えてね」と言われ、カザマが一人、ダンスの練習を始めて幕である。
話の続きや結末がどうなるのか気になって、何だかんだ夢中で見てしまったような気がする。
私はそうなるとストレートに押して欲しいので、時間と場所が行ったり来たりする幻惑感みたいなものはちょっと余計に感じてしまった。
見えてはいなかったのだけれど、この舞台の音楽は生演奏だったんだろうか。ちょっと気になっている。
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