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2015.02.14

「エッグ」を見る

NODA MAP 第19回公演「エッグ」
作・演出 野田秀樹
音楽 椎名林檎
出演 妻夫木聡/深津絵里/仲村トオル/秋山菜津子
    大倉孝二/藤井隆/野田秀樹/橋爪功 他
観劇日 2015年2月13日(金曜日)午後7時開演
劇場 東京芸術劇場プレイハウス 1階H列11番
料金 9800円
上演時間 2時間5分

 ロビーでは、パンフレットやCDなどが販売されていた。
 ネタバレありの感想は以下に。

 「エッグ」の公式Webサイトはこちら。

 2年前の初演の再演だから、もちろん、ストーリーは覚えている。
 主要キャストも変わっていない(アンサンブルは多分替わっていると思うけれど)から、舞台上の全体の印象もそれほど大きくは変わらない。
 ただ、2年前には確か「2020年東京オリンピック」は決まっていなかったし、どちらかというと「2020年の東京オリンピックは無理だよね」という雰囲気が強かったと思うし、中国との関係も今ほどは沈んでいなかったように思うので、舞台上で語られていることを受け止めるこちらの心持ちはかなり違っていたと思う。

 私はそう思うのだけれど、はっきり「どのシーン」とは言えないのだけれど、「ここは笑うところじゃないだろう」というところで客席から笑いが起きて、何だか違和感を覚えたのも事実だ。
 ここで笑うってことは、この舞台の言わんとするところが伝わっていない、あるいは理解することを客席が拒否しているってこと? と我ながら上から目線だなとか自分だって判っていないよきっと、と思いながらも、何だかそう感じてしまった。
 多分、それだけ、見ている側の状況が2年前よりもどこかが「キツく」なっているのだと思う。

 「エッグ」というスポーツに熱狂する人々、苺いちえという歌手に熱狂する人々の姿は、怖い。
 その後ろで「スポーツと音楽さえ押さえて置けば、大衆を掴んだも同じこと」と言い切る秋山菜津子演じるオーナー。
 「振付師としてではなく、これからは大衆を踊らせて見せます」と言い切る藤井隆演じる振付師。
 「エッグの(の記録が残されないようにする)監督」である、橋爪功演じる監督。
 表に立っている、仲村トオル演じる粒来や妻夫木聡演じる阿倍や大倉孝二演じる平川といったアスリートに、深津絵里演じるシンガーソングライターの苺イチエ。

 スポーツや音楽への熱狂と表裏一体の関係で、戦争に対する熱狂、満州国の存在、最後まで台詞で語られることはない七三一部隊の名前がじわじわと舞台を占領して行く感じは、やはり野田秀樹だなぁと思う。
 軽やかに始まった舞台が、やがてじわじわとその後ろにある黒いものを見せ始め、はっきりとあるいは密やかにある一つの真実を語って行くというのは、野田地図以降の野田秀樹の舞台の一貫したあり方だと思う。
 多分、その「実は」を役として見せていたのが粒来で、エッグというスポーツを背負って立つキャプテンであり、満州国にいる帝大卒の医者であり、自殺したと見せかけて実は生きていた(恐らくは)軍人であるという存在は、この舞台の構造をそのまま役として見せていたように感じる。

 その粒来の身替わりとされてしまう阿部が、粒来の場所をじわじわと脳天気に乗っ取って行くように見せて、最後に引っ繰り返される。
 何というか、勧善懲悪の舞台ではない。
 阿部は最後には粒来の身替わりとして死んでしまう訳で、どちらかというと、悪が勝ったかのような終わり方である。その傍らにイチエがいたことだけが、何というか、救いだ。

 多分、スポーツと音楽と戦争というのが、この舞台のいわば「表のストーリー」だと思うのだけれど、今回、気になったまま最後まで判らないよと思っていたのが、「劇作」ということだ。
 何故、寺山修司の遺作を、芸術監督である(多分)野田秀樹が引き継いで「エッグ」という物語を完成させる、というもう一つの「筋」がこの舞台に、あるいはこの戯曲に必要だったんだろうと考えてしまった。
 それくらい、この舞台では、「寺山修司」の名前と、彼が書いたという黄ばんだ原稿用紙が繰り返し現れ、強調されていたと思う。

 その原稿は、ときに「エッグ」の記録映画の脚本となり(そして、オーナー等の手によって勝手に切り刻まれ)、ときに苺イチエが記録した「記録されてはならない」七三一部隊の記録となり、ときに寺山修司の遺作原稿に戻り、芸術監督の「私は読み違えていました」という台詞とともに、時代を2020年東京オリンピックから1964年の東京オリンピック、さらに開催されなかった1940年の東京オリンピックへと遡らせ、そのたびにエッグという競技も「男の中の男」というスポーツから「白衣の天使」がそのユニフォームとなり、最後には、「スポーツではなかった」というその始まりが明らかにされていくというスイッチの役割を果たしている。

 この「原稿」は何だったんだろう、どうしてここに寺山修司という存在が必要だったんだろう、何故脳天気なヒーローから始まる主人公が阿倍比羅夫という名前なんだろう、と思う。
 多分、この舞台では「名前」が色々な意味を背負って使われているからじゃないかと思ったのは、見終わってからだ。虚名ということは、多分、Twitterでの呟きにも繋がるし、名前ではなく番号で呼ばれていた人々のこと、スポーツや音楽の世界で作られた虚構の象徴である「名前」はヒーローやヒロインには必須だ。
 それは、この「エッグ」という世界を支えるもう一つの柱でもあったんだなぁと改めて思う。

 ただ、寺山修司が寺山修司であったことには、絶対に何らかの必然性があると思うのだけれど、まだよく判らない。その一つは寺山修司が東北の出身であることが含まれるのではないかとは思う。今の日本で「東北」という言葉からは地方の名前だけではない、様々な状況を想起させるからだ。
 そして、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という歌が劇中で詠まれていることも、印象に残る。

 「初演を覚えていて再演を見る」ときは、結構、初演とどこが違うのかということが気になって仕方がなかったりするのだけれど、不思議と今回はそういうことはなかった。
 多分、見ている私自身や、社会状況など、客席の側の変化、受け止め方の変化の方が大きかったからということもあるし、このお芝居そのものが普遍的であるという理由もあったんじゃないかと思う。
 再演を見ようかどうかちょっと迷っていたのだけれど、本当に見て良かったと思った。

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コメント

 アンソニーさま、コメントありがとうございます。

 えーと、何とか元気にしております。お気遣い感謝です。

 「エッグ」は重いですよね。
 その重さを受け止めるには、見ているこちらにも覚悟が要求されているように思います。

 初演も見ていたこともあって、七三一部隊の衝撃よりも何故か寺山修司にひっかかりを覚えました。
 でも、やっぱりその理由はよく判らないです。
 かなり時間がたってから「あっ」と思うときが来るような気もします。

投稿: 姫林檎 | 2015.02.21 23:50

姫林檎様、お久しぶりです。
お元気ですか?

後からいろいろと考えたり調べたりして非常に興味深い芝居だったし、今回再演で観れてよかったなと思ってます。
観終わった後はかなり消耗しましたけど。。。


阿倍比羅夫は裸足のアベベと呼ばれたマラソン選手なんだろうと解釈してるのですがいかがですか?
オリンピックの円谷選手やら七三一部隊の犠牲になってしまった平川さんだったりと名前にもいろいろな意味が含まれていてそれを踏まえた上でやはり再度観劇したくなりました。

姫林檎様の感想を読んでなぜ寺山修司でなくてはいけなかったのかという疑問について考えてますが答えが見つかりません。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや 

これに答えがあるような気もしますが。。。。どうなんでしょうね。

投稿: アンソニー | 2015.02.21 19:29

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