「小林一茶」を見る
こまつ座「小林一茶」
作 井上ひさし
演出 鵜山仁
音楽 宮川彬良
出演 和田正人/石井一孝/久保酎吉/石田圭祐
小嶋尚樹/大原康裕/小椋毅/植田真介
川辺邦弘/松角洋平/一色洋平/荘田由紀
観劇日 2015年4月11日(土曜日)午後7時開演
劇場 紀伊國屋ホール Q列13番
料金 7000円
上演時間 3時間(15分の休憩あり)
ロビーでは、パンフレットの他、井上ひさしの著作本等々が販売されていた。
ロビーのスタッフがこまつ座の半纏を着ているのも、紀伊國屋ホールに似合っていい感じである。
ネタバレありの感想は以下に。
全く記憶がなかったのだけれど、この感想を書こうとして検索したら、私は2005年に「小林一茶」を見ていた。
驚いた。
何に驚いたかといえば、実際に芝居を見ているときにも、見終わってからも、「この芝居は見たことがあるような気がする」とか、そういう感じを全く持たなかった自分に対してである。
誠にもって情けない。
しかし、そういう訳で、まっさらな状態でこの「小林一茶」を見ることになった。
開演前、小林一茶の日記(だと思うけれど、高校の頃から古文が苦手だった私は読もうとも思わなかったので、内容は不明)が書かれた幕が下がっている。日記というよりも原稿用紙だろうか。
何やらの顛末が書かれており、最後に小林一茶の名前が書かれている。
原稿用紙っぽい体裁だけれど、考えてみれば江戸時代に原稿用紙はなかっただろう。その原稿用紙にうっすら、定識幕の色がついてきて、その幕の向こうで動いている役者さんたちが影絵のように浮かび上がり、開演である。
何というか、台詞のひとつひとつの調子がいい。
幕が開くとそこは自身番で、人々が集っている。端っこの方にごはんを盗んだのだったか、食い逃げをしようとしたのだったか、そういう男が一人捕らえられ、膝を抱えている。
江戸で有名な札差であり、江戸で三本の指に入るという遊俳の夏目成美の別宅から480両が盗まれたという話で、八丁堀の旦那は、疑われている小林一茶が本当に盗んだのかどうか犯人の気持ちになって考えてみるために、ここで芝居をしてみようという趣向らしいのだ。
あり得ないだろう。
それから、犯人のことを「ホシ」と言うのは、江戸時代からのことなんだろうか。気になる。
それはともかく、小林一茶が盗んだという直接的な証拠はなく、本人も認めていない以上、状況証拠を固めるしかないということになったらしく、自身番に集った「座」の人々は、それぞれが知っている小林一茶を語り始める。
何故か、石井一孝演じる件の男も、竹里という小林一茶の人生においてかなり重要な地位を占める男を演じることになる。
小林一茶を演じるのは、和田正人演じる八丁堀の旦那である。
そんなゆくたてで、この自身番に集った人々による「小林一茶の生涯」ともいうべき芝居の上演が始まる。
観客席にいる私たちは、劇中劇を見ることになる訳だ。
考えてみればややこしい設定だけれど、割りとすんなりこの枠というか道具立てに入り込むことができた。多分、ここまでの場面、誰が主役という感じでもなく、群像劇っぽくなっていることも入りやすかった一因だと思う。
それと、歌ったり踊ったりという場面もあるのだけれど、それ以上に、役者さん達の台詞回しの調子がいい。それも、すんなりこの「劇中劇」に入り込めてしまった理由だと思う。
小林一茶というと、素朴とか穏やかとかそういうイメージである。
それが、そもそも「食い詰めた俳諧師」として、誰からも嫌われているから疑われた、というところから始まっているから意外な感じがする。
前に見たときも同じ感想を持ったので、我ながら進歩のないことである。
そして、賭け俳諧とでも言えばいいのか、集まった人々が参加料を支払って句を投じ、勧進元の示した条件にもっとも良く答えた人が総取り、という場で、石井一孝演じる竹里と、和田正人演じる一茶(当時は、まだ本名の弥太郎である)が出会う。
正しく、運命の出会いである。
「句を作ったのは初めて」という弥太郎の才能を竹里は認め、その場の勝利はさらって行くものの、弥太郎に千葉の油問屋で主人は俳諧もするという奉公先を紹介する。
この頃、句をするのは、他に生業を持って趣味として極めるという「遊俳」という人と、ひたすら俳諧だけをする、遊俳の間を巡って連句等々に参加することで寝食を得ようという「業俳」という人と、きっぱりと二手に分かれていたようだ。
弥太郎の奉公先は、その「遊俳」の家ということになる。
奉公先の主人の姪であるおよねとの結婚を控えた弥太郎だったけれど、竹里がやってきて「庵の主人になる」つまりはいっぱしの俳諧師として認められようとしていることを知り、およねを犠牲にしてまで、竹里を出し抜いて、奉公先の主人を裏切る。
竹里が奉公先の主人から受け取ったお金を盗み、そのお金を持ち逃げして自分が竹里の代わりにその庵の主人になろうというのだ。部屋を間違えて入り込んだ竹里に、「あなたがいなくなってしまうような気がする。今夜抱いて欲しい」と言って忍んできたおよねを差し出すような真似をする。
それでも弥太郎本人が「すまない」という気持ちを一応出しているからまだいいようなものの、はっきり言って酷い話である。
そこにあるのは、「竹里よりも自分の句の方が上だ」「竹里が登ろうとしている俳諧の道は、自分こそが登り、竹里に先立って頂上に立つべきだ」という恐ろしいばかりの執念と自信である。
およねは、その翌日、川に身を投げて死んだという。
しかし、その後も、弥太郎と竹里とおよねの三角関係というのか、俳諧と男と女を軸にした「座」なのだとおよねは言っていたけれど、その縁は続いて行く。
三人共が、多分、憎んだり絶望したりしながらも、俳諧という世界から離れられず、執着しているのだから、ある意味で当たり前である。
そして、この三人を再び結びつけたのは、忘れていたけれど480両を盗まれたとして渦中の人物である夏目成美その人である。
俳諧を巡っても、およねという女を巡っても、この三人の方こそが「離れられない」三人なのかも知れない。
西国からの凱旋を竹里に邪魔された弥太郎、二人して夏目成美を訪ねるが二人共にバッサリと切られ、そして夏目成美に折檻されるおよねを見かねて江戸を出奔する竹里と、その状況で発句を繰り出し続ける一茶。
人間としてはどう考えても竹里の方に共感はしないまでも同情するけれど、しかし、名を成すのはこの場合、ほとんど狂っているようにも見える一茶の方なんだろうなとは思うのだ。
竹里を演じている「男」も、ときどき、一茶の才能を認め、竹里の思いを推測するような「台詞ではない」言葉を吐く。
千葉の素封家の家で後家さんと結婚してその家の主人に収まり遊俳として生きて行こうかという幸運に恵まれた一茶を、その家で庭番をしていた竹里は邪魔をする。
そういえば、何となく一方的に一茶が竹里を酷い目に遭わせていたような気がしていたけれど、最初の「出し抜いた」出来事はともかくとして、その後は、ひたすら竹里が仕返しをしていたような気もする。ただ、間におよねという女が入ると、竹里という男の駄目さ加減というか、そういうものが強調されるのだ。
それにしても、このおよねなど、紅一点で登場する女性を何人も演じていた荘田由紀の婀娜っぽさというのか、姐御肌な感じがいいなぁと思う。彼女の存在に説得力がないと、この二人の関係がかなり薄〜い感じになってしまいそうな気がする。
そして、この千葉の素封家での竹里の振る舞いについて、「男」が、これは一茶を邪魔したのではなく叱咤激励したのだ、業俳として生きて行くべきだという励ましなんだと解説したことで、(かなり最初のところで観客には明らかなのだけれど)舞台上の登場人物たちは「こいつは竹里なんじゃないか!」と色めき立つことになる。
井上ひさしの戯曲らしい仕掛けだなぁと思う。
でも、もちろん、芝居の最初の方で明らかにされた仕掛けだけで満足する筈もない。というよりも、仕掛けの一つを芝居の最初の方で種明かししてしまうことで、背後にあるさらに大きな仕掛けを隠そうという意図があるようにも思える。
和田正人演じる一茶は、俳諧について異常に執着している人物で、それ以外の人でも何でも足蹴にすることに何らの躊躇いもない「情」のない行動を取る奴だけれど、同時に軽みがある人物として造形されているように思う。竹里が言うような「小心な人物」の片鱗が見えないところがちょっと残念である。
一方の、石井一孝演じる竹里は、何というか、最初の出会いの頃のことが忘れられない「一茶の才能を見出したのは自分だ」という自負と、見出した自分の方が上だという思いが錯綜している人物のように描かれているような気がする。
そして、その一茶の「軽み」の部分は、和田正人が二役で演じている八丁堀の旦那にも引き継がれる。というよりも、ここのギャップを埋めるための軽みだったのかも知れない。
八丁堀の旦那は、伯父だったかが奉行所の結構いいところにいる方らしく、本人もなかなか切れる。「犯人になったつもりで」小林一茶を演じるうちに、この480両盗難事件の犯人は本当に小林一茶だったのか、そもそも480両の盗難事件なんてものはなかったのじゃないかと考え始める。
そういう八丁堀の旦那に対する、「座」の人々の好意は本物ではあるらしく、「実は・・・」と語り始める。
そもそも480両の盗難などという事件はなく、すべては夏目成美の企みで、480両盗難事件をでっち上げ、「濡れ米」をわざと作ることで、年越しの準備をしよう、楽に暮らそうということであるようだ。この辺りの「理由」というか、屁理屈が実はあまり思い出せない。
しかし、竹里が血相を変えたように、「濡れ米」を作ることで、その年貢を納めた農民たちは再び同じだけの年貢を納めなくてはならなくなり、小林一茶は全くの濡れ衣を着せられることになる。
伯父の存在もちらつかされて八丁堀の旦那は説得されそうにも見えるけれど、結局、彼は竹里を逃がし、小林一茶をお解き放ちにするよう言い、とりあえずこの企みを頓挫させたところで「俺は戯作者に戻る」とばかりに軽やかに去って行く。
刀の腕も確からしいのに、惜しいと言えば惜しい、こんな世界にいる必要はないよねと言えばないという気がする。
しかし、だからといってこの「濡れ米」の企みが完全に潰えた訳ではなく、「座」の人々は、「さて、他に犯人にふさわしい人間がいるかね」とこの「お芝居」を完結させるために顔をつきあわせて相談を始める。
強かだ。
この「座」の人々と八丁堀の旦那とのやりとり、八丁堀のだんなと逃げて行く竹里とのやりとりの中で、八丁堀の旦那は、小林一茶に「発句だけを作ればいい」と伝言する。
連句をするには、相手も必要だし、評判も必要である。しかし、発句をひたすら作るのであれば、ただ一人で作り続ければいい。夏目成美の存在も関係ない。
竹里は目から鱗、という顔をして、明るい表情になって走り去って行く。
結局、彼が小林一茶を濡れ衣から救ったのだ、と言えなくもない。
技巧に走りすぎだよという気もしたけれど、しかし、やっぱり井上ひさしだよなぁ、井上ひさしの書く評伝劇って楽しいよなぁ、3時間なんてあっという間だったよなぁと思ったのだった。
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