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グループる・ばるVol.22「蜜柑とユウウツ~茨木のり子異聞」
作 長田育恵(てがみ座)
演出 マキノゾミ
出演 グループる・ばる/松金よね子 岡本麗 田岡美也子
木野花/小林隆/野添義弘(SET)/岡田達也(演劇集団キャラメルボックス)
観劇日 2015年6月20日(土曜日)午後1時開演
劇場 東京芸術劇場 シアターイースト
料金 4500円
上演時間 2時間25分(10分の休憩あり)
ロビーで茨木のり子の詩集等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
詩人の茨木のり子を扱った評伝劇である。
Webサイトで読んだのだったか、る・ぱるでは三人一致で演目を決めることになっているためになかなか新作ということにならず、ここ数年はずっと再演が続いていたのだそうだ。
つまりは、満を持して選んだテーマだということになる。
フライヤーにも書かれていたけれど、相当の「産みの苦しみ」があったらしい。
しかし、実際に芝居が始まってしまえばそんな苦労を感じさせることなく、舞台は軽やかである。
これまた「フライヤー」に「茨木のり子は登場しない」と書いてあったので、松金よね子演じるノリコが出てきたときには「嘘つき!」と思ったけれど、彼女は亡くなった茨木のり子がこの世に残した「気がかり」であって、彼女自身ではないらしい。
そして、ノリコは茨木のり子の自宅に舞い戻り、「最期の一日」を何度も演じて彼女の「気がかり」を探す日々を送っているようだ。
そのノリコの手助けをしているのが、田岡美也子演じる紀子(きいちゃん)と、岡本麗演じる典子(てんこ)である。彼女たちはノリコとたまたま同じ時刻に亡くなった女性で、次の世で少しでもいいモノに生まれ変わるべく、徳を積もうと死んでからもあがいているらしい。
そして、小林隆演じる「たもっちゃん」が生前の茨木のり子が住んでいた家を管理人として守り、3人の女性を見守っている。
彼らいわば「冥界の住人」とは別に、茨木のり子の家を訪れている人々がいる。
岡田達也演じる彼女の甥と、野添義弘演じる編集者、そして、木野花演じる谷川俊太郎を通じて彼女と親交を持っていた葉子である。
葉子は茨木のり子の死を悼みに来ており、甥っ子と編集者は、果たして彼女が「遺作」を残しているかどうかを確認するために来ているものらしい。
現実の世界と亡くなった人々の世界、その二つは交わりそうで交わらない。かろうじて葉子が時々「冥界の人々」の存在を感じることがあるくらいだ。
そして、気分が悪くなってしまった葉子と、茨木のり子の遺作を探し始める編集者たちを余所に、冥界の人々はノリコが体現している「気がかり」が何なのか、それをノリコに思い出させようと茨木のり子の人生を再現し始める。
彼女たち曰く、茨木のり子の人生は昭和20年8月15日に始まっている。
軍国少女だった茨木のり子は、だから、彼女の人生が始まる前の姿である。というよりも、軍国少女だったこと、自分で考えようとしなかったことを省みてからの人生が彼女の本当の人生である、という趣旨の様だ。
医者の娘で優等生、全校生徒が彼女の号令で敬礼をする、そんな少女だったらしい。
しかし、敗戦の日を迎え、民主主義に席巻される世の中に順応したものの、「これでは付和雷同だ」「自分の頭で考えなくてはならない」という思いが強くなり、その考えに賛同してくれた医者の夫と結婚し、そして「考えるために、言葉にならないことを言葉にするために」彼女は詩を書き始める。
この辺りの経過について、てんこもきいちゃんも否定的だ。
機会を捕らえては、ノリコに向かって「あなたは生活に余裕があったからそんなことが言えるのよ」「きれいごとよ」と責め、否定する。
彼女たちの「苦労」を知るノリコは最初は怯むものの、しかし、それでも書くことは必要なのだと、自分にとって書くことは必要だったのだと繰り返し切々と訴える。
正直に言うと、なかなかこのてんこやきいちゃんの主張に対抗するのは難しいと思ってしまう。生活の苦労知らなくて、「生活の苦労を知らないからそんなことが言えるんだ」という非難に対抗することは相当に難しい。
でも、そこに対抗するのではなく、戦うのではなく、相手を否定するのではなく、弱々しいけれどしかし切々と、ノリコは自分の思いを訴える。
そこに実は説得力はない、ような気がする。
休憩前だったと思うのだけれど、ほとんど松金よね子が演じていた茨木のり子の生前の姿を、田岡美也子と岡本麗がワンシーンずつ演じている。
そうしたら、次はもう「冥界の人々」としてのてんこときいちゃんは登場しなくなるのかしらと思ったのだけれど、そういう訳でもないらしい。
その後も、「現実世界」の人々は背景に退き、ひたすら茨木のり子の人生が時系列に沿って演じられて行く。
ノリコの「人生の振り返り」は、この4ヶ月ほどの間、毎回、夫が亡くなったところで終わってしまっていたらしい。
しかし、この日は「現実の世界」での来客3名の存在に助けられたのか、その続きに進むことができた。正直に言うと、ここも「どうしてなのか」はよく判らない。判りやすく説明されることはない。今までと何が違うのか、来客があるから、というのはたもっちゃんが言ってくれるが、だからどうしたまでは説明してくれないのだ。
それはともかくとして、夫が亡くなった後、葉子が訪ねて来てくれるエピソードが始まる。
その年、結婚してこの家に夫婦で引っ越してきたときに植えた蜜柑の木が初めて実を付けた。
なかなか花が咲かなかった木だけれど、夫の告別式の日には満開の白い花を咲かせていたらしい。
そのときに描いた絵を葉子は持ってきてくれたのだ。
しかし、もちろん彼女の来訪の目的はそれだけではない。茨木のり子の詩が変わってしまったことを憂え、自分の好きだった「深いところから汲んだことを分かりやすい言葉で届ける」ことをしなければならないのだと訴えに来たのだ。
ちょうどそのときに、編集者がやってきて、茨木のり子に「好きな詩を紹介する文章を書いてほしい」と依頼する。
葉子の言葉と編集者の依頼と、その二つが茨木のり子を再び詩人にする。
自分でもどうしてそう思ったのかよく判らないのだけれど、このシーンで葉子が帰って行こうとするとき、食卓の上に乗っていた蜜柑(庭の木になったものだ)を「一つ、もらって行くわね」とでも言って持っていけばいいのに、と思った。
この芝居では、要所要所に茨木のり子の書いた詩の朗読が挟まる。
滑舌がいいって素晴らしいと思う。る・ぱるの3人が朗読する詩は、よけいなストレスなくこちらに届くように思う。
もっとも、私が知っていた詩は「わたしが一番きれいだったとき」という詩だけだし、それも始まりのこの部分だけだった。ロビーでは茨木のり子の詩集も販売していて、買って帰ろうかとも思ったのだけれど、自分が詩集を読むことはどうにもなさそうで、買わずじまいだった。
舞台セットはちょっと宙に浮いたようなイメージのリビングダイニングで、そこは一軒家の2階にあるという設定らしい。
そして、このリビングにある木の革張りの椅子(ロッキングチェアというイメージなのだけれど、どうも揺れないような感じだ)が、特に亡くなった後では茨木のり子の夫を象徴する存在となる。
この椅子の革のくたびれた感じがよくて、何だかこの舞台の主役はこの椅子なんじゃないかという感じがするくらいだ。
結局、ノリコの「気がかり」が何だったのかということの答えは、冥界の人々が演じていた茨木のり子の人生から浮かび上がってくるのではなく、遺作原稿を探していた現実の人々がもたらす。
それは、茨木のり子が自分の死後に出版されることを望んで遺した、ひたすら夫のことを書いた詩であり、書きためた詩を保管していた箱に一緒に入れられていた夫の喉仏の骨であった。
葉子が「お骨を夫と同じ絹袋に入れてほしいと言っていた」ことを思いだし、ノリコの気がかりは解決し、ノリコもてんこもきいちゃんも、次の人生に向かおうとこの家を去る。
何だかなぁ、そんな安易なことでいいのか、これまで積み上げてきた茨木のり子の人生と、「気がかり」の発見との間に、判りやすい直接的な関係が全くないってどうなのかと思う。
何だか積み上げてきたことが無駄だったというか、横からうっちゃりを食らわせられたような感じさえしてしまう。
茨木のり子の人生を演じていた部分では、割と彼女の主張とおそらくは芝居の作り手たちの言いたいことを直接的に重ねているんじゃないかと思う部分が多かっただけに、余計に、ご都合主義度が高いような気がしてしまったのだ。
しかし、小林隆演じる管理人が舞台の端っこに足をぶらぶらさせて座って物思いにふけっているところに、ノリコが戻ってくる。
ノリコは、管理人の正体がもう一つの忘れ物だったと言い、管理人と名乗るたもっちゃんに「あなたは蜜柑の木ね」と語りかける。
だから、冥界の人々はベージュや生成の衣装だったのに、彼だけは茶と緑の衣装だったのね! と思い、それまでの不満が吹っ飛んで「やられた!」感が広がった。
反則だよとも思うけれど、こういうどっきりというか驚きの持つ力って大きいなとも思うのだ。
この芝居を見ながら、これは間違いなく「いい」お芝居だよなと思っていた。
でも、何故か見終わった後では、何となく「いいお芝居」感が強すぎて、食い足りない感も残ったのだった。
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コメント
かず様、初めまして、でしょうか。
コメントありがとうございます。
「蜜柑の精」の謎の答えを教えてくださってありがとうございます。
やっぱりそうでしたか!
まぁ、このお芝居の本質とはいささか離れた話題なのかも知れませんが、私としてはスッキリいたしました。
大阪公演のチケットを押さえてご夫婦でお出かけになるって素敵ですね。
奥様のご感想はいかがでしたでしょうか。
そして、私、役名(あるいは役者さんのお名前)を逆に書いています?
そう、でしたっけ?
すみません、既に記憶の彼方になっております・・・。
教えていただいてありがとうございました。
またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。
投稿: 姫林檎 | 2015.07.07 23:29
姫林檎様
私も同じ日の同じ時間の回で観ました。
恥ずかしながら、私は茨木のり子さんはお名前しか存じ上げなかったのですが、家内がファンであったためチケットをとって二人で見に行く予定でした。
ところが、当日は家内の高校の同窓会の日と重なってしまったため、家内は同窓会に出かけ、私が一人で観ました。
観て衝撃を受けました。茨木のり子という詩人の人生を通して現在の日本の状況に対する強烈な危機意識を表現していると感じたからです。
これは家内にも見せなければならぬと思い、終演後、大阪の吹田で行われる最終公演のチケットを速攻で押さえ、7月5日に二人で大阪に見に行ってきました。
そこで行われたアフタートークで演出のマキノノゾミさんが、「たもっちゃん」の衣裳は皆さんが想像したとおり、蜜柑の精なので緑の上着で茶色のズボンにしたとおっしゃっていました。
あ、それから余計なことかもしれませんが、紀子は岡本麗さんが、典子は田岡美也子さんが演じておられました。
投稿: かず | 2015.07.07 22:21
みき様、コメントありがとうございます。
小林さんの衣裳について、同じように解釈されている方がいらっしゃって嬉しいです。ありがとうございます。
前から3列目の正面とは、贅沢な観劇をなさいましたね。
羨ましいです。
岡田達也さんは決して「若手」ではないと思うのですが(笑)、この座組では若者っぽい感じでしたね(笑)。好青年という雰囲気がハマっていたと思います。
またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。
投稿: 姫林檎 | 2015.06.25 22:15
こんにちは。同じ時間に観てました。お目にかかりたかったです。
小林さんの服装はおそらく姫さまのお考え通りだと思います。
私は最後に舞台に座っている小林さんのちょうど正面3列目だったので、小林さんの目に涙が溢れてくるところが見えました。こちらも胸が熱くなりました。
こういうベテランの役者さんたちの芝居は、内容以上に皆さんのこれまで積み上げてきた技を見せてもらえる感じで好きです。その中で岡田くんも頑張っていましたね。微笑ましかったです。
投稿: みき | 2015.06.24 08:34
みずえ様、コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、テンコさんやきいちゃんがどんな人生を送ってきたのか、もっと知りたくなりましたよね。
でも、そこを膨らませると、4時間くらいのお芝居になりそうです(笑)。
たもっちゃんの服装は、多分、そういう意味だと思うのですが、どうでしょう。
実は全く違う意味があったりするのかも知れません。
またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。
投稿: 姫林檎 | 2015.06.23 23:05
姫林檎さま
私も観ました。
私はこの「る・ぱる」の公演は初めてでした。
岡田さんのファンなので観たんですが、る・ぱるの三人はもちろん、客演の方々もさすが皆上手でしたね。
茨木のりこさんに関しては、私も、「私が一番きれいだったとき」しか知らず、こんなに書いていた方なのかと、初めていろいろ知った次第です。
普通に彼女の人生をなぞる展開かと思ったら、そうじゃなかったので、その分興味深かったですね。
ただ、私としては、のりこさんより、テンコさんやきいちゃんの人生の方が知りたかった気もします。
そう思わせる舞台というのもどうなんだろう、と思ったりもしましたが。
蜜柑の精(と言っていいのかな)の服装に関しては気づかなかったです。
ここを読んで目から鱗でした。
教えてくださって、ありがとうございました。
投稿: みずえ | 2015.06.23 13:17