« 「ス・ワ・ン」を見る | トップページ | 「パッション」のチケットを購入する »

2015.07.11

「阿弖流為」を見る

松竹創業120周年 新橋演舞場 七月歌舞伎 「阿弖流為」
作 中島かずき
演出 いのうえひでのり
出演 市川染五郎/中村勘九郎/中村七之助 ほか
観劇日 2015年7月11日(土曜日)午前11時30分開演
劇場 新橋演舞場 1階6列8番
料金 16500円
上演時間 3時間45分(30分の休憩あり)

 2002年に劇団☆新感線で上演された「アテルイ」が「阿弖流為」となって新橋演舞場に登場である。

 筋書き(1800円)は相当に迷ったけど購入しなかった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 歌舞伎公式総合サイト 歌舞伎美人内、「阿弖流為」のページはこちら。

 一番顕著だったのは音楽だと思う。
 三味線の音ももちろん聞こえていたけれど、ドラムセットの音ももちろん聞こえて来る。その二種類の音が違和感なく共存しているところで、「阿弖流為」はすでに成功していたように思う。

 2002年の舞台は見ていて、そのときもアテルイを演じていた市川染五郎はそのまま阿弖流為を、堤真一が演じていた坂上田村麻呂を中村勘九郎が、水野美紀が演じていた立烏帽子と鈴鹿を中村七之助が演じる。
 市川染五郎に、中村兄弟を配したところが上手いと思う。
 また、坂上田村麻呂にせよ、鈴鹿にせよ、役と役者がまた上手く合っていると思う。

 日本統一を狙って蝦夷討伐が行われている最中、阿弖流為率いる立烏帽子党は都で貴族達の金蔵を襲い、蝦夷討伐の軍資金をかっさらおうとしている。
 しかし、彼女たちの立烏帽子党を名乗る盗賊一味が都を荒らしており、自らの偽物を退治してくれようと待ち構え、そこに坂上田村麻呂も都の治安を守ろうと参戦し、さらに北の狼を名乗る男も加勢する。
 これがきっかけで、「北の狼」こと阿弖流為と坂上田村麻呂は知遇を得、さらに阿弖流為と立烏帽子は自分たちが蝦夷の地を追われた理由を思い出す。二人は、蝦夷の地から逃げようとしていたところ神の領域に迷い込み、神の使いを殺してしまった故に、名前も記憶も封じられて追放されていた二人だったのだ。

 考えてみればどうにもこうにも大風呂敷を広げた設定である。
 しかも、市村萬次郎演じる帝の巫女である御霊御前は坂上田村麻呂の姉であり、坂東彌十郎演じる右大臣は坂上田村麻呂の伯父だというのだから、話はいきなり国家規模である。
 それは、劇団☆新感線という舞台にも合っていたけれど、歌舞伎という舞台にも合っている大きさだなぁと思う。
 それにしても、10年以上前とはいえかなり好きだった舞台の流れをここまで忘れていると我ながら情けなくなる。阿弖流為と坂上田村麻呂の関係辺りまでは覚えていたけれど、鈴鹿を挟んで三角関係だったように思い込んでいたし、御霊御前だの右大臣だの、その存在すら記憶にない。

 恐らくは、睨んだり見栄を切ったりすることにかけてプロが大勢揃っているのが歌舞伎の強みで、そこはもう大前提で使いまくる。
 その上で、殺陣のシーンでは刀が打ち合わされる効果音が入り、ドラムの音が響き、ブルーのライトが舞台側から客席に斜めに降ろされるという新感線の照明が多用される。
 何度も書いてしまうけれど、本当に上手く、両方の美味しいところが合体しているよなぁと思う。
 正確に言うと、今思い返すとそう思うけれど、舞台を見ているときは、完全に「この先はどうなるのか」だけに集中して見ていたので、歌舞伎らしいとか、新感線らしいとか考えている場合ではなかった。
 何しろ、広げられた風呂敷が大きすぎる。

 義のために戦うことは是とするがそれが大義となると胡散臭いと公言していた坂上田村麻呂も、阿弖流為が蝦夷の地に戻り、族長となって蝦夷を統べて戦い始めたと聞いて、征夷大将軍として蝦夷の地に赴くことを決める。
 時が時、世が世、立場が違っていれば多分「親友」にもなれただろう二人なのに、敵味方に分かれて戦うことになる。
 でも、それを二人とも「なるべくしてなった」「武人の血が騒ぐ」と何故か肯定的な描かれ方だ。
 父祖の地を追われている訳で、阿弖流為が深刻かつ考え過ぎというか、思い込みが激しいというか、思い悩むことが多い一方で、坂上田村麻呂は軽いといえば軽い、明るいといえば明るい面が強調されている。
 それは、阿弖流為と坂上田村麻呂のそれぞれの出自や立場を表しているのと同時に、市川染五郎と中村勘九郎という役者それぞれの「いいところ」を際立たせようとしているのだろうとも思う。

 30分の休憩を挟んだ二幕は、とりあえず手首に巻いたバンドが気になる。
 入場のときに配られたそれは、二幕の最後に光り、その光が星々の光になるので忘れずに手首に巻き、光ったら振ってくださいという説明書きまでついているという念の入ったアイテムだ。
 その手首が気になりつつ、二幕が始まる。

 ところで私がいた席は花道のすぐ横で、しかもかなり前方である。
 この「阿弖流為」というお芝居は、とにかく両花道に両雄が並び立つのがその白眉で、すぐ目の前に役者さんがいる、その汗から唾から全て見えるというのは、かなり贅沢な近さだ。
 その代わり、「両雄並び立つ」という感じではなく、目の前の彼と、あちらの彼という感じになってしまうのは仕方がない。そのとき、自分のそばにいた側に立って見てしまうことになる。
 せりがある花道の側にいたので、やはりメインで使われることが多く、何とも贅沢な気分を味わう。

 二幕目は、とにかく殺陣満載、どんでん返しの連続で、一幕以上に息つく暇もない。
 ただひたすら阿弖流為を慕い、阿弖流為とともに戦っているように見えた立烏帽子が、御霊御前の「面白い存在が」の一言で俄然最も大きな謎になってしまうところが何だか凄いと思う。
 一方で、坂上田村麻呂は、姉である御霊御前に裏切られ、伯父である右大臣にもそもそも「捨て駒」として扱われ、率いて来た兵達を死兵にするために右大臣に殺されてしまう。

 その右大臣の「日本を一つに」とか、「帝のご意志」、「外つ国の攻撃から日本を守るために、日本が一枚岩にならねばならない」という物言いは、今の日本の状況を憂え、批判しているものとして聞こえて来る。
 これもまた、舞台の力だよ、と思う。
 そんな汚い「政」に力を貸したくない、そんな帝軍の一員でありたくない、そのような戦の趨勢など見たくないという坂上田村麻呂の姿勢は、右大臣に殺され掛けた自分を救ってくれた、「鈴鹿」という女の死を招いてしまう。
 その鈴鹿は、実は立烏帽子として阿弖流為の思い人として戦っていた筈の女性である筈の存在だ。
 阿弖流為の思い人であるところの鈴鹿が田村麻呂を救ったのだとすると、常に阿弖流為に付き従っていた立烏帽子は鈴鹿ではない、ということになる。

 また、阿弖流為の、自分が蝦夷を統べて戦うことで、蝦夷の苦しみを長引かせているだけなのではないかという苦悩も、おまえがやっていることは日本と同じだと言われてさらに苦悩が深まるのも、多分、「今」を映し出しているのだと思う。
 見ながらそんなことを考えてしまうのと同時に、市川染五郎の殺陣は重く、中村勘九郎の殺陣は軽く、中村七之助の殺陣は優雅だなぁと単純に感心してしまう。
 ご一緒した方と終演後にその話になって、市川染五郎の殺陣の重さは疲れからではないかというご意見だったのだけれど、私はどちらかというと狙った結果なんじゃないかという気がした。
 何だかんだ、育ちのいい、何かと「逃げる」ことをしてしまう田村麻呂に比べ、元々が族長の息子として育ち、追放や部族消滅の危機に瀕した阿弖流為の殺陣が、重く深刻だというのはありそうな気がするのだ。

 阿弖流為と共に戦ってきた立烏帽子は実は蝦夷の神であり、阿弖流為を戦に駆り出すために鈴鹿の姿を借りていたのだということが明かされる。
 阿弖流為は、あくまでも帝軍との戦いを求める神を殺し、田村麻呂が提案してきた和睦の道を選ぶ。
 しかし、和睦し、蝦夷の自治を認めようとした坂上田村麻呂は、都に戻って右大臣の反撃に遭い、蟄居させられ、阿弖流為との約束を守ることはできそうにない。
 蟄居していわばふてくされていた田村麻呂の元に鈴鹿が現れ、そこで何度目かの立ち直りを図った田村麻呂は、打ち首にならんとしていた阿弖流為を救い、勝負を挑み、阿弖流為がわざと見せた隙に釣り込まれて殺してしまう。
 それが阿弖流為の狙いだったのだ。

 右大臣を殺し、帝に蝦夷の処遇を約束させ、坂上田村麻呂が何ごとかを決心して、この舞台も幕である。

 多分、この舞台にはまだまだ余白があって、笑いを取る軽やかな芝居にも行けるし、さらに重厚にテーマを追及することもできるような気がする。
 前者の場合、片岡亀蔵演じる蛮甲が絶対にキーパースンだと思う。というか、今の段階でもかなりこの芝居の「美味しいところ」を彼がかっさらっていると思う。
 でも、書いてしまうと本当に楽しみがなくなってしまうので自粛する。とにかく、この舞台で、この物語で、目が離せない存在である。

 釣り込まれて入り込んで、この先阿弖流為と坂上田村麻呂はどうなるのか、「帝」なんてものはそもそも存在していたのか、神であった立烏帽子の神らしくない感じは何だったのか、何だか色々なことが頭の中をぐるぐる回り、でも他のことを考える余裕も余白もなく、のめり込んで見ることができる。
 そういう舞台がやっぱり好きだなぁとしみじみと思える舞台だった。

|

« 「ス・ワ・ン」を見る | トップページ | 「パッション」のチケットを購入する »

*芝居」カテゴリの記事

*感想」カテゴリの記事

*伝統芸能」カテゴリの記事

コメント

 アンソニー様、コメントありがとうございます。

 先週末から急に暑くなりましたね。ご想像のとおり、私もヘロヘロになっております(笑)。

 おっしゃるとおり、とてもいいお席で見ることができました。敢えて難をいえば、「両花道」を一目で見渡すことができなかったところでしょうか・・・。贅沢なお話ですが。
 もう一回見るとしたら、いっそ3階席から見下ろす感じがいいのかもと思ったりもしています。

 このブログがきっかけでお芝居を観て頂けて、面白かったと言っていただけると嬉しいです。ありがとうございます。

 染五郎さんの殺陣は、初日を見た方によると初日はもっと流麗な感じだったそうですが、いのうえひでのりさんは上演中でもバンバン演出を変える方ですし、狙って重くしたのではないかと私も思っています。

 またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。

投稿: 姫林檎 | 2015.07.13 23:30

姫林檎様、こんにちは。
いきなり暑くなってしまい、すでにバテ気味です。。(^^;
姫林檎様は大丈夫ですか?

阿弖流為、とてもいい席でご覧になられたんですね。
うらやましいです。私は今月他にいろいろ見るため
あまりいい席で手配しなかったのですが、舞台の演出や効果を十分楽しむためにはどこで観るかがかなり重要だと思ったので、もう一度行こうかなとか思ってスケジュール帳を眺めています。


とっても面白かったですよね。ほんとここでこの
演目を知る事ができてよかったです、いつもありがとうございます。 チケット手配の時から書いてくださるので
こちらのチケットの手配も間に合うし助かります。

阿弖流為役の染五郎さんの殺陣の重さ、私は
姫林檎様と同意見です。境遇やらそういった要素も
あわせて重く演出していたと思いました。


新感線と歌舞伎、両者がうまく融合していて素晴らしい相乗効果を生んでいたと思いました。
歌舞伎NEXTという新しい形のエンターテイメントだと
ドキュメンタリーで染五郎さんがおっしゃってましたけどまた次回ある時は必ず観に行きたいです。

投稿: アンソニー | 2015.07.13 12:05

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「阿弖流為」を見る:

« 「ス・ワ・ン」を見る | トップページ | 「パッション」のチケットを購入する »