「1995」を見る
ブルドッキングヘッドロック Vol.26 「1995」
作・演出 喜安浩平
音楽 西山宏幸
映像 猪爪尚紀
出演 永井幸子/相楽樹/葛堂里奈/鳴海由莉
二見香帆/西山宏幸/篠原トオル/寺井義貴
猪爪尚紀/津留崎夏子/深澤千有紀/岡山誠
山口かほり/藤原よしこ/はしいくみ/浦嶋建太
山岸門人(劇団鹿殺し)/嶋村太一(親族代表)/岡田あがさ
観劇日 2015年8月1日(土曜日)午後7時開演
劇場 ザ・スズナリ D列13番
料金 4200円
上演時間 2時間30分
混雑していたので、物販はチェックしなかった。
ネタバレありの感想は以下に。
「ヘッドロックの意味が違う」と言われて、その通りなのだけれど、マチネ公演で新感線を見ていたせいか、「ロックががんがん鳴っている芝居」なのだと思い込んでいた。
だから、最初の始まり方が静かすぎて意外だった。もちろん、この「意外」という感想は単なる私の思い込みが生んだものである。
舞台は、向かって右側のダイニングスペース、左手前にはテーブルと椅子の置かれたテラスがあり、その奥に一段高くなってソファコーナーがある。
この舞台セット全体が、現在(が「いつ」なのかは示されていないけれど、多分「今」という設定だと思う)の三島家のマンションになったり、1995年の芸能事務所になったりする。
最初のうちは登場人物が「すれ違っても相手のことが見えていないようにみえる」ことが続いたり、ゴルフでオリンピック強化選手に指定されているらしい三島家の娘を演じていた筈の相楽樹が、「愛子ちゃん」と呼ばれてアイドルとしてデビュー前の高校生を演じていたりして、何が錯綜しているんだろうという感じだったけれど、タイトルもそうだし、キャスト表も「現在」と「1995年」に分かれていることもあって、現在と1995年の出来事が双方とも時系列に沿いつつ交互に演じられているのだなと判る。
オトナの愛子はパソコンに秘密を抱えているようだし、少女の愛子は妙に落ち着き払っているし、どちらの時代もキーパースンは愛子だ。
大人の愛子は、友人のお見合いをわが家でセッティングしたり、レストランなのか社長をしている夫の部下が家に入り込んでいて居心地が悪そうだったり、パソコンを開いては何やらこそこそ打っていたり、1回だけデートしたことのある夫の友人(なのか?)の門脇氏に迫られていたり、友人の見合い相手が実はアイドルを目指していた時期の自分のことを知っていたり、何やら不安定な要素満載なのだけれど、表面上は極穏やかに暮らしているように見える。
難しい年頃だろう娘との関係もまずまず良好のようだ。
少女の愛子の方は、芸能事務所に所属して、4人組でのデビューを目指している、らしい。
その芸能事務所も駈けだし、彼女たちもアイドルして駈けだし(というかまだ駈けだしてもいない)、不安定なことこの上ないけれど、レコードデビューの話や映画の話などが舞い込んでいるようだ。
津留崎夏子演じるこの芸能事務所の事務員の夏木と、岡田あがさ演じるこの事務所に所属しているらし女優の赤尾とが冷めた女ととっちらかっている女をそれぞれ見事に演じていて楽しい。
この芝居の「笑い」の部分は主に彼女たちが担当していたんじゃないかと思う。
大人の愛子の日常と、その彼女が20歳の頃に送っていたいわば「非日常」の様子が交互に示される。
どちらの愛子も淡々としていて、一歩引いているように見える。
そのうち、1995年の愛子は、大人の愛子がパソコンで執筆している「小説」であることが判って来る。惹句等々によると「止めた筈の時間が動き出す」ということだったけれど、その辺の肝の部分は私にはよく判らなかった。
アイドルを目指していた自分を封印したい、忘れたい、という趣旨ではなさそうなのだけれど、では時間を止めるというのはどういうことなのか。
1995年頃というのは、アイドル氷河期と言われた時代だそうだ。
その辺りはよく覚えていないのだけれど、高橋由美子が「20世紀最後のアイドル」というキャッチフレーズでデビューしていたのは覚えている。
夏木と映画監督が語っていた、岩井俊二監督の「桜の園」や「12人の優しい日本人」という映画もよく覚えている。その会話に私も入りたい! と思ったくらいだ。
そして、どうやら愛子たち4人組のデビューの話は、「アイドル氷河期」「アイドルよりも女優」「女優なら映画」という筋の話に翻弄されて行くらしい。
その映画の話が「4人で出演する」から「愛子だけが出演する」という方向に舵を切ったことで、このデビューの話はおかしくなって行くらしい。
そのことと、大人になった愛子の「事情」との間に関係があるのかないのか、その辺を判りやすく示してくれればいいのにと思うけれど、表向きはそうは見せていないけれど、この芝居の求めるところに「判りやすさ」というのはほとんど含まれていないのじゃないかという気がする。
後半になって、俄然話はSFちっくになって行き、門脇が「私は実は2095年から来たんです」と言い始めた辺りからぶっとび始める。
いや、今まで確かに時系列はあっちこっち(あるいは現実の世界と小説の世界のあっちこっち)に飛んではいたけれど、SF的要素はなかった筈だよね、と思う。ここで2095年を出すのなら、もうちょっと伏線を張っておこうよと思う。突然「2095年から来たんです」ってギャグじゃないんだから、と思う。
2095年と言われてから後、話は何度か「SFではない方」に揺り戻されるけれど、「過去(あるいは小説)」の改変から、もう一人「僕は未来から来たんです」という人間(当然のことながら、アイドル時代の愛子のことを知っている人物である)が現れたところで、「時」が壊れてしまった、らしい。
地震が起こり、愛子、七海、それから何世代も母から娘に地震で失われた命が受け継がれて行った血筋はやがて、2095年には「女神」となって君臨する。
この繰り返しがエンディングなのかと思ったけれど、ここから先が長い。
愛子、あるいは、女神が2095年にいる。
2095年は、どうやらそこは「瓦礫の町」らしい。労働に従事している人々は、瓦礫を片付けているのか、町を建設しているのか、最早判らなくなっているようだ。
そして、ラストが暗転で終わったことは覚えているのだけれど、その直前のシーンが何だったかがはっきり思い出せない。
万歳三唱のシーンだっただろうか。
1995年は、阪神大震災が起き、地下鉄サリン事件があった年である。
2015年は、「オリンピックのために」という大義名分があった(というか、ある)年である。
その三つの出来事を絡め、未来の東京を絡め、物語は進んで行く。
「グロテスクな日常」と言うのなら、色々と舞台上からグロテスクな日常が囁かれていたようにも思うけれど、もっともっと今の日常はグロテスクだよと思う。
グロテスクな日常というよりも、やはり1995年という特別な年、あるいは特別ではない時代に向けたオマージュというべき舞台なんじゃないかと思った。
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コメント
アンソニーさま、再び、コメントありがとうございました。
この感想、実は自分であまり気に入らずに書いたもののしばらくオープンしていなかったのです。
ご心配いただきありがとうございます。
やっぱり未来人が出たところで、話がいきなりアクロバティックになりますよね。
この芝居はSFだったのか! みたいな。
あれには驚きました。
私としては、夏木さんにもっと活躍して欲しかったです。彼女を主役にスピンオフ作品を上演してくれないかしらと思ったくらいです(笑)。
またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。
投稿: 姫林檎 | 2015.08.24 22:36
姫林檎様
私の携帯にこのブログ更新が先週まで現れず、
密かに心配しておりました。新感線も先日まで観れなかったのでそちらでコメントできずでした。その後も体調よくないとのこと、大丈夫ですか?
お大事になさってくださいね。
私は急に未来人が出たあたりからえ?となり、自分はなにか伏線を見逃してたのかそれとも寝てたのか?と混乱しました。
あまりにも急でしたよね(^_^;)
その後もなんだか微妙に置いていかれてそのまま終わってしまいました。
他にも色々気になる事や登場人物とかのことを
うまく回収されてない気もしてたのですが
なんだったのかすでに記憶が曖昧です(´・_・`)
投稿: アンソニー | 2015.08.24 01:03