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2015.09.12

「NINAGAWA・マクベス」を見る

「NINAGAWA・マクベス」
作 ウィリアム・シェイクスピア
翻訳 小田島雄志
演出 蜷川幸雄
出演 市村正親/田中裕子/橋本さとし/柳楽優弥
    瑳川哲朗/吉田鋼太郎/ほか
観劇日 2015年9月12日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 シアターコクーン Q列1番
料金 13500円
上演時間 2時間55分(20分の休憩あり)

 ロビーではパンフレットやTシャツ、トートバッグなどが販売されていたけれど、値段はチェックしそびれてしまった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 bunkamuraの公式Webサイト内、「NINAGAWA・マクベス」のページはこちら。

 多分「仏壇の中のマクベス」として、蜷川幸雄演出の舞台の中でも有名な舞台なのだと思う。
 チラシの写真はどう見ても和装だなとは思っていたけれど、その他の予備知識が何もないまま見に行き、開演前、舞台が本当に「お仏壇」のようだったのには驚いた。
 「お仏壇」ではあるけれど、同時に昔のテレビみたいだなとも思う。30年とか40年くらい前までは、仏壇とテレビはとても近しいものとして扱われていたのではないかと思うのだ。

 二人の老婆が現れ、途中まで開かれていた観音開きの扉をゆっくりと押し開き、障子の向こうに三人の魔女が現れるところから舞台が始まる。
 魔女達は、般若のようなメイクをし、赤い打ち掛けをまとい、扇をゆっくりと揺らしている。
 黒と金を基調とした舞台セットといい、正しく「様式美」という感じである。
 舞台セットと衣裳は「和」だけれど、役名はマクベスでありバンクォーである。

 台本も、最初に登場した老婆たちがシーンが変わるたびに舞台両脇でちんまり座ってご飯を食べたり、何か手仕事をしたりしている以外の、「ストーリー」としてはとても正統的なマクベスだったと思う。
 多分、台詞も台詞回しもそうだ。
 その辺りは非常に正統的なシェイクスピア劇で、しかし、セットと衣裳を完全に和の世界、それも死を連想させる仏壇をセットに持って来ることで、一種異様な雰囲気を醸し出している。
 「仏壇」という枠があるためか、舞台上に役者が一人、というシーンが意外と多かったにも関わらず、舞台が広すぎるという感じはない。むしろ、とても狭く感じる。

 市村正親のシェイクスピアは、リチャード三世を見たことがあると思う。あちらは題材が題材だし「一人勝ち」だったけれど、マクベスを演じる市村正親には何故か一人勝ち感がない。
 むしろ、田中裕子演じるマクベス夫人の方に重量感を感じるくらいだ。それは、多分、田中裕子の声の力なんじゃないかという気がする。
 それにしても、マクベス夫人も何だかなぁと思う。夫を唆すだけ唆して悪事に手を染めさせ、王位をもぎ取らせておいて、自分はさっさと狂気の世界に逃げ出して先に死んでしまう。マクベスの人生を狂わせたのは三人の魔女じゃなくてこのマクベス夫人だよなぁと思う。それだけのことをしているのに、あくまでも「マクベス夫人」で彼女の名前が騙られることはないのではなかろうか。
 シェイクスピア劇に元々女性の登場人物は少ないけれど、この貶められようときたら酷すぎるという感じがした。
 マクベスは何度も見ている筈なのに、どうして今さらこういう感想が浮かんだのかは、自分でもよく判らない。

 舞台セットの暗さと明るさ、そのコントラストの強さは、「森」の場面で最高潮を迎えたように思う。
 バーナムの森は桜の木々により表現され、ひたすら桜吹雪が舞い続ける。その桜の花びらの白さと明るさ、その周りを縁取るセットの黒さと暗さは強烈だ。
 これが、「緑の森」だと、またイメージが違って来る。
 もしかして、シェイクスピアの思い描く「森」と、例えば私が思い浮かべる「森」とは全くそのイメージが違っているんじゃないかとふと思う。

 ところで、最初に仏壇の扉を開け、休憩前に閉め、休憩後に開けた二人の老婆は何故ずっと舞台上にいたのだろう。
 場面が変わるときには、真上からのスポットと舞台を斜めに照らすスポットとで明るく照らされ、ちんまりと舞台の両端に座った姿が浮かび上がるけれど、マクベスの舞台が動き始めるとまた闇に紛れる。
 派手派手な衣裳の「マクベス」らに比べ、畑仕事をしている昭和初期のおばあさん、といった風情である。
 何故、彼女たちが必要だったのかは判らないのだけれど、彼女たちを見ていて私が思っていたのは「もしかして、マクベスという舞台はとても退屈なんじゃなかろうか」ということだった。

 一人の男が下克上の挙げ句にその良心の呵責に耐えかねて心身を弱らせ、そして成敗される。
 もの凄く強引に短くまとめると「マクベス」というのはそういう話で、それは「話」としては退屈だと言ってしまっていいような気がする。
 その「退屈」な物語を退屈でなくするために、魔女が出てきたり、謎かけがあったり、マクベス夫人が野心家の嫁になったり、復讐劇を始めたりする。

 そしてさらに、その外側に仏壇という「枠」を設けることで、退屈な話に観客を引き込み、興味を持たせようとしたんじゃないかしらという気もする。
 「仏壇」はもちろん舞台上にずっと「死」を置くという効果もあるし、マクベス自身がどんなに野心をたぎらせて策謀の限りを尽くしているそのまっただ中にいたときに、もっとも遠い存在である筈の「死」とのギャップを際立たせるし、そして、舞台上にバンクォーの幽霊が登場しやすくさせているようにも思う。

 「マクベス」という話は退屈だ。
 でも、「マクベス」という舞台は強烈で興味深い。
 そういう風に思った。

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