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2015.09.23

「國語元年」を見る

こまつ座第111回公演「國語元年」
作 井上ひさし
演出 栗山民也
出演 八嶋智人/朝海ひかる/久保酎吉/那須佐代子
    田根楽子/竹内都子/後藤浩明/佐藤誓
    土屋裕一/森川由樹/たかお鷹/山本龍二
観劇日 2015年9月22日(火曜日)午後6時30分開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 6列3番
料金 7800円
上演時間 3時間(15分の休憩あり)

 ロビーではパンフレット等が販売されていた。
 私が見た公演は満席だったようだ。

 ネタバレありの感想は以下に。

 こまつ座の公式Webサイトはこちら。

 明治維新後、当初は「唱歌集を作れ」と命じられていた八嶋智人演じる南郷清之輔が、その半年がかりの仕事が仕上がった途端(しかも、音楽教師とピアノを各小学校に用意できないからと、その成果は全く日の目を見ない)、今度は「日本全国共通の話し言葉を作れ」と命じられ、その達成に向けて奮闘するという物語である。
 舞台はその南郷家の板間と和室の続き部屋で、今でいうリビングダイニングというところだろうか。
 写真機が最初に登場し、土屋裕一じる書生の広沢がカメラマン兼狂言回しとして舞台を進行させて行く。

 江戸時代は300余りも藩があって、極端なことをいえばその藩ごとに言葉が違う。ついでに、「身分」によっても使う言葉が違っている。
 南郷家は正にその縮図というべき家で、南郷清之輔は長州、妻とその父は薩摩、書生は名古屋、女中たちは江戸山の手言葉に下町言葉、米沢言葉と来るし、車夫の弥平は遠野、唱歌集を作るために呼んだピアノ弾きは英語しかしゃべれない。
 そこへ、自称国文学者の元公家が京言葉をひっさげて居候し、河内弁をしゃべる女郎が南郷清之輔相手に怒鳴り込み(後に人違いだと判る)、会津の男が押し込み強盗にやってくる。
 しっちゃかめっちゃかだ。

 しかし、彼らは主人である南郷清之輔思いであることは間違いなく、彼が役所に出かけると「田中閣下」に今度こそお褒めの言葉を頂戴したに違いないと固唾を飲んで出迎え、南郷清之輔が「お叱りを受けた」と元気のない様子で帰ってくれば唱歌集の中からその場にふさわしい歌を全員で歌って励ます。
 劇中で歌われる歌は、「むすんでひらいて」から、第九、賛美歌まで多岐にわたる。そしてそれぞれにオリジナルの歌詞が付けられている、
 それを、上手すぎない感じでハモるのが上手くはまった感じだ。

 「國語元年」というこのお芝居が、日本全国共通の話し言葉を作ろうとした男とその一家の物語だということだけは知っていて、何となく明るく楽しい物語だと思い込んでいたけれど、どうも勝手が違うと最初に思ったのは、この南郷清之輔が新しいお役目をいただいたと家族に報告するシーンだ。
 清之輔はキッパリはっきりと「軍隊で隊長が命令したときに、その命令が兵隊にきちんと伝わらないと困る」から、「全国共通の話し言葉が必要なのだ」と説明する。
 それはそうだろうと思うけれど、いや、そこにおまえはきな臭さを感じないのかとツッコミたくなってしまう。

 さて、言葉を統一するためにはどうしたらいいか研究を始めた清之輔は、まず「母音をきちんと発音できるように訓練する」「子音をきちんと発音できるように訓練する」というところから始める。
 しかし、元強盗の会津の虎三郎から、「同じ物を違う言葉で呼んでいる現実は、それでは対応できない」と指摘される。
 この虎三郎という男、実に見事な文語体の手紙を書く男で、文語体を話し言葉の元にすればいいのではないかと至極真っ当な提案もするのだけれど、何故かあっさりと清之輔に却下される。
 いや、それっていいアイデアだと思う、とこれまたツッコミたくなる。 

 全国共通の話言葉を作るためには、どこかの地域の言葉を大本にするしかないと考えつけば、もちろん、南郷家の中だけでも「自分がしゃべる言葉を日本全国共通の言葉に!」という嘆願が一斉に清之輔の元に集まる。
 その余りの混乱に、南郷家で使われている言葉全てを元にしたいと上申すれば、「明治維新の逆賊の言葉を元にするなどまかりならん」と決めつけられる。
 そこで清之輔は、全国統一話し言葉を作るためには、「政治の力」が必要なんだと目覚める。
 そうだ、明治新政府の高官たちの気に入る案を出さなければ、日本全国にその言葉を強制することはできないんだという方向に考え始める。

 いや、だからそこが違うよね、と思ってしまう。
 ここは、「言葉をそんな政治の力で決めたり強制したりしていいものか」とか「全国統一話し言葉制定の本当の目的は何なのか」とか、自分の仕事の意義を考え直すべきチャンスだったろうに、何故か清之輔の発想はそちらに向かないのだ。
 一生懸命だし、必死だし、真面目だし、悪い人ではなさそうなのだけれど、これで結構な高官だというのは本当だろうかと思ってしまう。
 自覚的にやってすらいないというところが、もう南郷清之輔という人物の致命的なところのように感じる。
 それを矯正するのが、山本龍二演じる虎三郎という人物だ。

 実のところ、南郷家の中でだって「言葉が通じている」とは言いがたい。
 ついでに言うと、私も結構、舞台上で話されていることの意味が判らないことも多かった。大概は、私が判らないところは舞台上の登場人物の誰かも判らないので、誰かが誰かに聞いたり、那須佐代子演じる江戸山の手言葉を話す女中頭の加律さんが通訳してくれることも多い。
 話の筋とは全く関係ないのだけれど、「何を言っているのかよく判らない」ところと「何を言っているのか大体判る」とのバランスが絶妙で凄いよなぁと思う。

 見ている人によって、判るところと判らないところが多分違っていて、私などは恐らく「一番判らないところが多い」観客だと思う。それでも、舞台上で何が起きているか判る。何をしゃべっているのかは判らなくても、何が起きているのかは判る。
 全国統一の話言葉を作ろうという必要性が伝わり、その混乱が伝わる。
 そういう絶妙のバランスをキープするために、井上ひさしの戯曲と、栗山民也の演出と、演じる役者さんたちの発する「言葉」と、細心の注意を払ってこの舞台を成立させているんだろうなと思うとドキドキする。
 この舞台で、地方を舞台にしたテレビドラマなどで「こんな言葉は使っていない」とか「イントネーションがおかしい」という批判が出ることがあるけれど、この芝居でそれがあったらかなりつや消しだろう。

 加津さんが、各藩の江戸留守居役の方々のために、地方の言葉と江戸言葉とを対照する本が作られており、だから江戸山の手言葉を日本全国共通の言葉とする土台はもうあるのだと高笑いしたときには、これで話が進むぞと思ったけれど、何故か彼女のこの発言はスルーされてしまう。
 でも、なるほど、これが今のいわゆる「標準語」の成立したひとつの要因だったんだな、それを芝居の中で示してくれたんだなと思う。

 同時に、彼女の高笑いは、南郷家に集う人々がそれぞれに抱えた、いわば「明治維新の負の遺産」のようなものを一際感じさせることにもなるし、実際、もしかしてこの芝居で描かれているのは日本全国統一話言葉などではなく、明治維新によって痛めつけられた人々の影なんじゃないかという気さえしてくる。
 そういう実は暗い話の中で、シーンが変わるごとに挑んでは失敗する書生の広沢の撮る記念写真と絶妙のタイミングで発せられるピアノ弾きの英語による笑い、それからみなで歌う「唱歌」にはもの凄い力がある。
 唱歌を歌っているときには、もちろん、単語や発音の違いは問題になっていなくて、私は「日本全国統一の話言葉を普及させるには、唱歌の普及が第一である」みたいな結論になるんじゃないかと思っていたのだけれど、残念ながらこの予想は外れた。

 南郷清之輔は、明治維新で活躍した薩摩・長州等の話言葉を中心とした単語帳を作って家族内言語戦争を勃発させ、虎三郎は自分たちが使っていた言葉を10銭というお金で売り渡す南郷家で働く人々に怒りを爆発させる。
 言葉は一生使う大切な道具だし、みんなが使っているみんなの道具だ。それを自分の勝手で売り渡していいものか、と怒鳴りつける。
 役人である南郷清之輔や国語学者である京の公家などより、彼が一番「言葉」というものに自覚的なのだ。

 僅か9つのルールしかない「日本全国統一の話言葉」をついに整理する。
 家の中でそのルールを実行してみたところ、怪訝な顔はされるものの、とりあえず話を通じさせることはできるようだ。
 もっとも「できるだけみんなが知っているような単語を選ぶ」という曖昧なルールがルールと言えるのか、ツッコミたい気持ちで一杯だけれど、最初に相談された虎三郎は、「これでケンカができるか」「これで女が口説けるか」と清之輔に問いかけ、自分自身には「これで強盗が出来れば立派なものだ」と呟く。

 その虎三郎が強盗に失敗し、警察に捕まり、そこから清之輔に出してきた手紙が、多分、「言葉」というものに対する井上ひさしの回答だ。
 一人一人が自らの言葉を高めようとし、そうした人々が1000人集まり、10000人集まれば、自ずと全国統一言葉は生まれてくる。一個人が全国統一言葉を生み出すなとということは不可能であり、多くの人々によってのみ達成することができ、達成されるべきである。

 その手紙は、ずっとお嬢様然としていた朝海ひかる演じる南郷清之輔の妻によってその存在を伏せられる。
 しかし、手紙を伏せるまでもなく、南郷清之輔は、出勤したら自らが働いていた部署も、自らが使っていた机も失くなっていたという事態に激しいショックを受け、混乱し、とても正気を保ってはいられない様子だ。
 それでも南郷家の人々は記念写真を撮ろうとし、その静止画のまま、彼らのその後が語られる。
 米沢から来た女中のふみと、写真の撮り手である書生の広沢以外の面々は、南郷家が離散した後さらに過酷な人生を送っている。
 そして、南郷清之輔も、ふうきょういん(と記憶しているけれど、東京癲狂院のことだと思う)で亡くなっている。

 「國語元年」というお芝居や、そこに登場する人物達が、こういう終わり方をし、こういう人生を送ったとは、見始める前には全く想像していなかった。
 だからこそ、多分、このお芝居は必要なんだと思う。見られてよかった。

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