「マンザナ、わが町」を見る
こまつ座 第113回公演・紀伊國屋書店提携「マンザナ、わが町」
作 井上ひさし
演出 鵜山仁
出演 土居裕子/熊谷真実/伊勢佳世/笹本玲奈/吉沢梨絵
観劇日 2015年10月10日(土曜日)午後6時30分開演
劇場 紀伊國屋ホール G列20番
料金 6500円
上演時間 3時間10分(15分の休憩あり)
こまつ座のお芝居は、最近、夜公演の方がチケット代がお安くなっている。ので、夜公演を見ることが増えた。
ロビーではパンフレットや、こまつ座公演のチケット等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
1942年のアメリカ合衆国で、真珠湾攻撃後、日系人が財産等も没収されて強制収容所に集められた。
この物語の舞台は、その中の「マンザナ」という収容所の、「演劇班」として集められた女性5人が暮らすバラックである。
土居裕子演じるジャーナリストのソフィアと、熊谷真実演じる浪曲師のオトメと、二人が台本の読み合わせをしているところから始まる。その台本は、「マンザナは自治の街」とか「自由がある」とか、どう考えても大嘘つきのプロパガンダ用台本で、所長から各ブロックの食堂で演じるように命じられたらしい。
ソフィアとオトメはそれぞれこの収容所に来たばかりで、以前にソフィアはオトメを取材したことがある。
この台本の読み合わせをしつつ、「こんなのは嘘っぱちだ」と文句をつけるオトメと、それでも命じられたのだから従う、問題があると思うところは大統領府への手紙で訴え続ける、それとこれとは別だと説くソフィアとの会話から、二人を始めとする日系人たちがどのような状況に置かれているかが語られる。
だから、井上ひさしは上手いんだよ、と(我ながら偉そうに)思う。
井上ひさしの舞台では割と多いと思うのだけれど、薄い紗のスクリーンが降りていて、そこに例えば「**年**月**日」とか「三日後」といった時の流れだったり、「**のソフィア」といった感じでシーンタイトルだったりが、文字で投影される。
「真珠湾攻撃」の直後ということは劇中でも何度も語られていたから、それを示すためにスクリーンに映し出されていた訳ではない。「いつか」ということよりは、この舞台で語られている出来事が非常に短期間の間に起きたことなんだということを示したかったのかなと思う。
概ね、4日間くらいを描いた物語なのだ。
そして、この舞台は全部で5つの場面で構成されていて、それぞれに「**のソフィア」といった形で、登場人物の名前を冠したタイトルが付けられ、スクリーンで映し出される。
けれど、そのシーンタイトルと、そのシーンで演じられる中味は、決して判りやすくリンクしている訳ではなかったように思う。笹本玲奈演じるリリアンの名前を使った「夢みるリリアン」だけは近かったかなと思うけれど、「これから演じる中味を知らせる」というよりは、「ん?」と思わせてこちらの注意を喚起する、何かを想像させることを目的に示されていたように思う。
始まってからしばらくは、ソフィアとオトメのシーンが続く。
土居裕子の声って何て綺麗なんでしょうと思う。トーンと通って真っ直ぐ観客席に届く。知的で冷静な役どころとマッチしている。熊谷真実のがらっパチといえばがらっパチな感じも似合っているし上手い。浪曲まで唸ってしまうのだから、本当に芸達者な役者さんなのだ。
オトメは日系1世、ソフィアは日系2世で、それぞれの生い立ちや境遇の違いも少しずつ語られる。
その二人のシーンを破るのが、伊勢佳世演じるサチコである。彼女も日系2世で、オトメとソフィアが日本語で語り合っていたのに比べると、英語と日本語の中途半端な感じのちゃんぽんでコミュニケーションを取っている。
ますます、「日系」と一言ではくくれない状況にあることが伝わって来る。
ソフィアが取材したことのある、笹本玲奈演じるリリアンがやって来る。彼女はホテルで歌っていた歌手だ。
歌手の役だから、歌うシーンも彼女が一番多い。だからなのか、笹本玲奈の声がちょっと枯れ気味だったのが勿体ないと思う。土居裕子がまた「枯れる」なんてことは思いも寄らない、みたいな声をキープしているし、二人で歌うシーンもあるから余計に目立ってしまう。
この後で登場する吉沢梨絵演じるジョイスはハリウッド女優で、そうして5人が揃い、収容所長が用意した「マンザナ、わが町」の稽古にいよいよ入って行く。
この「マンザナ、わが町」という台本が胡散臭すぎたものだから、5人の考え方や感じ方、生い立ちや立場の違いから軋轢が生まれて来る。
日系1世であるオトメはアメリカ市民権を得ていない、4人の2世たちはアメリカ生まれのアメリカ市民だ。ジョイスとオトメは日本に帰ることを願い、「日本人」であることにアイデンティティを求めようとしているように見えるし、ソフィアとリリアンはアメリカンドリームの国、民主主義の国である合衆国を信じる気持ちを持っている。
ジョイスは「芸者の役ばかり」しかオファーされないことに苛立ち、リリアンは日系人だからというだけの理由で解雇されたことに憤っている。
そうした対立の中で、サチコは拙い言葉ながらも、合衆国が日系人にやっていることと日本人がアジアでやっていることに違いはないのだと言うけれど、それは他の4人から見事にスルーされてしまう。
劇作や演出の経験もあるソフィアは台本を読み込み、演出を考え、4人の女たちそれぞれに語りかけて、「権利は戦って勝ち取るのだ」「勝ち取る価値のある権利なのだ」という信念を説く。
突然集められて面識もなく(だから、比較的メンバーとの面識があったソフィアが中心に立つことになったのだろうけれど)、いわば「極限状態」にあるのだから、その5人が同じ方向を向いてがんばるなんて、すんなり行ったらその方が嘘臭い。
これだけ「歌える」女優が集まっているのに、歌うシーンが少ないのが勿体ない。
唯一と言っていいだろう、 土居裕子/、熊谷真実、笹本玲奈、吉沢梨絵の4人がハモって歌う「荒城の月」のシーンはだから貴重だし珠玉だ。
でも、そうして「聴かせた」上でさらに、「どうしてサチコは荒城の月を歌えなかったのか」という疑問に繋げ、オトメが火事騒ぎを起こすという「どんでん返しへの入口」に繋げるのだから、(ちょっと違うような気もするけれど)転んでもただでは起きないといったところだ。
火事騒ぎで皆が「大切なもの」を持ち出そうとしたところ、サチコが持ち出そうとしたのは「手帳」だった。4人は「すわ、FBIのスパイか」と色めき立つけれど、実際のところ、彼女は国務省から依頼を受けた人類学者で、「日本人が判らない」「だから日本人を研究しようと思った」「そのために"芝居を演じる"という刺激を与え、住み込みで自分が観察していた」と、滑らかすぎる日本語で語る。
ソフィアが推測していたとおり、5人が上演しようとしていた戯曲の作者は中国人である彼女だったのだ。
ここで、「荒城の月」を歌えなかった彼女がどうして、「京の五条の橋の上〜」を3番まで歌えたのか、その様子を見て何かに気付いた風だったソフィアが何に気付いていたのか、種明かしが欲しかったけれどそれは最後まで語られない。
サチコがソフィアたちを「演者」として選んだのは、ソフィアが前の年に上演した「阿Q正伝」を見たからだと告白し、そのことにソフィアは衝撃を受けているようだったけれど、その理由も語られない。
カタルシスを求める私としては、提示した謎は全て回収してくれ! と言いたいところだ。
そうして、いわば「サチコに裏切られた」彼女たちだったけれど、翌日(だったと思う)に再びやってきたサチコの生い立ちを聞き、「演劇」に対する思いを聞いて、何故かあっという間に和解する。
その「許してしまうこと」の早さに私は日本人らしさを感じたけれど、それが舞台の上で語られることはない。だとすると意図したことではなかったんだろうか。
でも、二次元のものである「戯曲」が、演じる人がいて、そして演出があって立ち上がってくることの感動を「劇作家」の立場で語るサチコの台詞は、そのまま、劇作家だけれど演出はしなかった(と思う)井上ひさし自身の実感だったのかなぁと思う。
この辺りは、ソフィア言うところの「おじや」で、舞台上では様々な国、様々な人の思いや伝統や背負っているものを一緒にお鍋に入れて煮込んでいい味を出す、日本の唱歌には外国の民謡や外国人作曲家の音楽がたくさん入っている、ということにも通じているような気がする。
舞台には、たくさんのエッセンスが集まっている。役者も演出家も舞台美術も照明も音響も何もかもをごった煮にして「いい味」ができあがっているということなんじゃないだろうか。
「自分のこの芝居を演じたい」と言うサチコに4人が盛り上がっていると、所長に呼ばれていたソフィアが「私は明日にはここにいない」と言う。
危険思想の持ち主として、別の収容所に送られることになったのだと言う。
その「危険思想の持ち主」と決めつけられた理由は、彼女が毎日大統領府に送っていた手紙だ。そこには、ルーズベルトとヒットラー、合衆国とナチスドイツ、やっていることは同じだ、同類だということが、もちろん合衆国には己が入るということも自戒しつつ、しかし激しく弾劾する言葉が並んでいた。
ソフィアの「戦って勝ち取るしかない」という言葉は、本当に「戦っている」上で語られていたということだ。
ジョイスを筆頭に4人が「そんなことは止めさせる!」と飛び出して行く。
「そこを動くな」と言われたソフィアは、先ほどの手紙の続きをタイプライターで打ち出す。そこにはさらに激しさを増した言葉が並ぶ。
戻って来た4人は、ソフィアは収容所を移る必要はなくなったと告げる。
説明を求めるソフィアに、4人は「芸者姿のジョイスのファンだった所長に色仕掛けで・・・」と語り始めるけれど、ソフィアは全く信じようとしない。
すると「本当はこっち」ということで、4人が4人とも、浪曲でルーズベルト大統領をからかいの種にしたり、不当解雇を連邦裁判所に提訴するつもりだと宣言したり、自分が行ったような調査は憲法違反だからそれを決定したあなたと一緒に出頭しましょうと言ったり、それぞれが「思っていること」を告げて、「だから自分もソフィアと一緒に収容所を移動させるべきだ」と主張したのだと語る。
「これは本当だからね」と繰り返すオトメが怪しい。
ソフィアはしかし、この説明に納得し、自ら思っていることを直接観客にぶつけましょうと言い、明日からの公演に備えようとする。
正直に言うと、えー! と思った。
ソフィアはその説明で納得したんだろうか。そもそも、4人の二つ目の説明は「事実」だったんだろうか。それとも、事実ではないと知りつつソフィアはツッコまなかったということなんだろうか。
仮に事実だったとして、ソフィアはそれで「満足」なんだろうか。自分の信念を曲げたことにはならないんだろうか。少なくとも、そういう葛藤が生じなかったんだろうか。
あんなに日本に帰りたがっていたオトメとジョイスは、ジョイスの父親からの連絡を袖にして、収容所に残ることを決めてしまったけれど、それで良かったんだろうか。
サチコは「出演させて欲しい」と言っていた筈だけれど、一緒に練習しようとするサチコにソフィアは「作者はそこにいて」と椅子に座らせてしまう。これはソフィアの意趣返しなんだろうか。
サチコが、マンザナは日系人の集う広場であり、地球人が集う広場だとスクリプトを変えますと宣言するから、サチコは自分がそこに立てないことを気にしていないんだろうか。
そして、ソフィアは明日からも大統領府への手紙を送り続けるんだろうか。
5人が明日を夢見るキラキラした目で前を向いているところで、この芝居は終わる。
彼女たちの後ろにあるスクリーンに、46年後、レーガン大統領が公式の謝罪文を出し、一人2万ドルの損害賠償金が支払われたこと、しかしその時点ですでに強制収容所に送られた日系人の半数近い5万人が既になくなっていたことが、文章で浮かび上がる。
そして、幕である。
いいお芝居だったし、カーテンコールの拍手も鳴り止まなかった。
でも、やっぱりラストに納得がゆかない。何だかしっくり来ない。この「ストンと落ちない」感じが何なのか、その正体を考え続ける必要があると思っている。
| 固定リンク
「*芝居」カテゴリの記事
- 「マクベス」の抽選予約に申し込む(2025.02.06)
- 「紅鬼物語」の抽選予約に申し込む(2025.02.07)
- 「消失」を見る(2025.02.02)
- 「ベイジルタウンの女神」の抽選予約に申し込む(2025.01.30)
「*感想」カテゴリの記事
- 「消失」を見る(2025.02.02)
- 「りぼん」を見る(2025.01.12)
- 2024年の5本を選ぶ(2024.12.30)
- 「て」を見る(2024.12.29)
コメント