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「元禄港歌-千年の恋の森-」
作 秋元松代
演出 蜷川幸雄
出演 市川猿之助/宮沢りえ/高橋一生/鈴木杏
市川猿弥/新橋耐子/段田安則ほか
観劇日 2016年1月30日(土曜日)午後1時開演
劇場 シアターコクーン 1階E列21番
料金 13500円
上演時間 2時間35分(20分の休憩あり)
ロビーでは、筋書きのようなパンフレットや、出演者の過去作品のDVDなどが販売されていた。
ネタバレありの乾燥は以下に。
秋元松代の作、蜷川幸雄演出作品であれば一度は見ておこうと思ったのが、観劇のきっかけである。
秋元松代は「情」を描いた女流劇作家の草分けというイメージだ。その彼女の作品を、初演で演出した蜷川幸雄が再度、演出するというなら興味も湧くというものである。恐らくは、昭和を代表する舞台になっていた筈だし、80代になった蜷川幸雄がどう演出するのか気になった。
ましてや、市川猿之助が瞽女たちの「おっかさん」を演じるのだ。それは見ものであるに決まっている。
舞台には、三重に椿のアーチがかけられている。舞台全体を覆い、舞台全体をどこかから隔絶しているアーチである。
そのアーチは照明の暗がりに沈み、その下に一体の人形と人形使いの紋付袴姿の方が登場して舞台が始まる。
記憶が定かでないけれど、美空ひばりの歌に合わせて人形が舞っていたと思う。若い娘の人形だ。
何かで、人形を使うときには、人形の視線を人形の指先に合わせると生きているように見えると読んだことがあるけれど、どちらかというとこの人形の舞は、指先を見ないことで浮世離れした感じを出しているような気がした。
人形が舞っているときからすでに始まっていたのか、人形が舞台から去ってから始まったのか、天井から一つ二つと赤い椿の花が落ち始める。
その落ちるテンポはゆっくりで、そして、一定ではない。不吉もいいところだ。
全く、蜷川幸雄流の演出だと思う。こうして舞台上に動くものは赤い椿だけという状況を作り出し、そこに観客の注意を集めた上で、舞台には一転人が溢れ、荒っぽい男たちによる喧騒が作り出される。
この変化で、あっという間に江戸時代らしい舞台上の世界に取り込まれてしまう。
高橋一生演じる万次郎は、この町の大店「筑前屋」の次男坊のようだ。ご多分に洩れず、いかにも遊び人、いかにも穀潰し、調子はいいけど憎めないといった若者らしい。そう言い切るには、喧嘩っ早そうだし、弱い者に対して理不尽を押し付けようという感じがいただけない。
この次男坊っぷりが、今ひとつ、高橋一生に合っていない感じがするのはどうしてなんだろう。気の良さそうな感じがないというか、次男坊の屈折の方がより前面に出ていたように思う。
お店の跡取りとして江戸に出したお店の舵取りを任せれているらしい、段田安則演じる長男の信助は、嫌味なくらいの生真面目ぶり、親孝行ぶりである。
この長男は、商売の相談のためにちょうど江戸から実家に帰って来たところらしい。
新橋耐子演じるお墓参りに行く途中だったらしい母親のお浜は、この真面目で出来物の長男よりも、ダメダメな次男が可愛くて仕方がないようだ。
よくある話である。
そこへ「南無阿弥陀仏」という幟を掲げた男ばかりの人々が通りかかる。
その場に集まった人々が、信助も含めて体を背け視線を合わせないようにし、役人たちが追い立てるようにしていたのがどうしてなのか、よく判らなかった。
時代背景等々をきちんと知っていないと、舞台をきちんと楽しめない、受け止められないし、それは勿体ないことだと改めて思う。
彼らに対する役人たちの対応が酷かったこともあって、その後に登場した瞽女たちが町の人々に楽しみに待たれ、歓迎されている様子だったのが意外だった。
旅芸人である彼女たちは、1年に1回だけやってくる娯楽として人々に待たれる存在だったんだろうか。
市川猿之助演じる一座を率いる糸栄と、宮沢りえ演じる初音は、二人とも目が見えない。その二人の道案内を務めているのが、鈴木杏演じる歌春で、彼女の明るい声が舞台をぱっと華やかにしていたと思う。
瞽女たちは、久し振りの長男の帰還に湧く筑前屋に招かれ、三味線と弾き語りを披露する。「葛の葉子別れ」とを披露しつつ糸栄は泣き伏してしまう。
初音に心奪われている信助は、初音に対して「昔に会ったことがある」という恋の初期症状の思いから離れられないのと同時に、糸栄に対しては、「この女性は子供を持ったことがあるのではないか」という疑念を拭うことができない。
それは決して興味本位ということではなく、「葛の葉」のストーリーと、「自分の母親はお店の女将さんとは別にいるのではないか」という疑念への答えがここにあるのかも知れないという思いからのようだ。
信助と初音がこうした「親子の情」の話を交わすうちにさらに心通わせる一方で、万次郎は3年も前から歌春と「できて」いたらしい。
兄弟揃ってかよ! と思っていたら、歌春の方は、大店のお坊っちゃまと結婚できるわけもないという現実をよく知っていて、結婚の申し込みをされたからもうこれきりにして欲しいと言い出す。
なかなか分別臭い対応だけれど、どうにも無理をしている感が漂うのが上手い。ここに不幸が一つ約束されたという感じが伝わって来る。
そしてまた、市川猿弥演じる筑前屋の主人とお浜がどうにも仲睦まじいとは異なる感じで交わす会話から、信助との母親は糸栄であること、信助を我が子として育てることにお浜は全く納得しておらず、本当は信助のことが大嫌いだし、だから万次郎を我儘一杯に育ててしまったことが伝えられる。
さらに、万次郎と歌春が出来ていることを知っているからこそ、歌春と大石継太演じるお店出入りの職人との結婚を急いでまとめようとしている。
もうこうなってくると縺れた糸が解けるには荒療治しかないだろうし、それは決して幸福なものではなさそうである。
美空ひばりの声も歌も、決して幸せ一杯な人を歌っている訳ではないもんなぁと思った。
信助が滅法真面目な律儀者だし、筑前屋主人がどっしりと落ち着いた感じを漂わせているし、そもそも丁稚からのたたき上げでお店のお嬢さんであったお浜の婿になって、お店をさらに大きくしてきたことが語られる。
さらに、お浜の造型がどちらかというと「嫌な感じ」だから、彼女が理不尽な聞き分けのない女性のように見えてしまうけれど、よくよく考えれば彼女の言っていることは、「浮気して作った子供を私に育てさせるなんて! 跡取りにするなんて!」ということな訳で、それほど酷いことを言っている訳ではない。
それなのに、彼女を嫌な女に見せてしまうのは何なのか、考えなくちゃいけないような気がする。
初音も分別くさいことを言っていたけれど、二人きりになった阿弥陀堂で、「これきり会わない」という状況に信助ともども負けてしまう。
信助はまた、どこで確信をしたのか、糸栄が母親であると知り、そうとは言わずに翡翠を「いい芸を聞かせてもらったから」と渡す。
恋愛感情に親子の情、昼メロのように、その「情」は絡み合って、かつ「身分」などというものに押し潰されそうになる。これだけ大上段に構えた物語だし、現代劇でもないし、それなのに何故だか展開から目が離せないのが自分でも不思議だった。
「ここさえ離れれば恋しい人を思い切れる」と思っていた初音らが呼び戻され、歌春に未練タラタラの万次郎が歌春夫婦の近くにいる訳だから、何も起こらない方がどうかしている。
万次郎は人妻になった歌春の元に通い、それを知った歌春の夫は万次郎のところに怒鳴り込む。
その様子を見ていた筑前屋平兵衛は万次郎を殴りつけ、万次郎が披露するはずだった舞は信助が代わって踊ることになる。そうなっても、万次郎は行方不明になったという歌春のことを心配している。「女は哀しい」と呟き、母親に「お袋様のことでもある」と言う。
ダメダメなだけではないというところだろうか。
和吉は、舞を舞っているのは万次郎だと信じて毒薬を投げ付け、実は信助だと知って驚いて逃げ出す。
行方知れずになっていた歌春がそこに血まみれで現れ、和吉に切りつけられたのだと言い、糸栄たちのそばを離れるのではなかったと呟き、万次郎に会わせてくれと頼む。
その頼みを万次郎の両親が聞き届けていたのが、私にはちょっと不思議だった。若い娘の今際の際の頼みだったからだろうか。それとも万次郎の所業を申し訳ないと思っていたからだろうか。
信助の両目は毒薬のために見えなくなってしまい、糸栄と初音とは、身も世もなく嘆き、泣き崩れる。
初音がこんなに明らさまでは二人の関係がバレバレになっちゃうじゃんと思ったけれど、その辺りは登場人物の誰も気にしていなかった風なのが意外だ。糸栄が、信助のことを大っぴらに「息子だ」と宣言したときには、その場に人々が明らかにどよめいていただけに、余計にその違いが気になった。
これが「手をつけた」だけなら誰も気にしないけれど、子供を産んで実子として育てられていたとなると話は別だということだとすると、何て切ないのだろうと思う。
視力を失った信助は、初音と糸栄を伴って、その場を去る。
その三人を見送る筑前屋の人々をストップモーションのように見せて、幕が降りた。
カーテンコールで、芝居で演じていた役とは全く違う素で登場する役者さんもいれば、最後まで「役」で居続ける役者さんもいると思う。
カーテンコールも「演出の範囲」なんだろうか。
この舞台の市川猿之助は、最後まで、糸栄だったと思う。そして、市川猿之助が演じていたのは、哀しい母親だったんじゃないかと思った。
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コメント
みき様、コメントありがとうございます。
そして、色々とお教えいただきまして感謝です。
このお芝居は「元禄」とタイトルについていますし江戸時代のお話だと思いますが、江戸時代にも念仏を唱える人々を弾圧するようなことが行われていたのですね。
糸栄を演じていた市川猿之助さんが違和感なく舞台にあったので、何となくこちらの感覚もちょっとずつずれたというか、ふわっとなっていたところがあったように思います。
お浜を歌舞伎役者さんが演じていると思われたのは、多分、そんな理由もあるのではないでしょうか。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
またどうぞ遊びにいらしてくあさいませ。
投稿: 姫林檎 | 2016.02.03 22:36
こんにちは。
物語の時代背景はよくわかりませんが、一時期、念仏さえ唱えれば極楽浄土へ行けるという宗派が民衆に広がり、それを脅威に感じた朝廷が弾圧したことがあったので、そのことを表していたのかなと思います。法然上人や親鸞は流罪になりました。
それから、瞽女というのは盲目の女旅芸人のことなので、晴眼者が手引きをしていたこと、私は今回初めて知りました。
偉そうに書いていますが、幕間に確認するまで、お浜を演じているのが歌舞伎役者(男性)だと思って見ていたトホホな私です。今年もよろしくです!
投稿: みき | 2016.02.01 22:40