「書く女」を見る
二兎社「書く女」
作・演出 永井愛
作曲・ピアノ演奏 林正樹
出演 黒木華/平岳大/朝倉あき/清水葉月
森岡光(不思議少年)/早瀬英里奈
長尾純子/橋本淳/兼崎健太郎
山崎彬(悪い芝居)/古河耕史/木野花
観劇日 2016年1月23日(土曜日)午後2時開演
劇場 世田谷パブリックシアター 1階H列28番
料金 6000円
上演時間 2時間50分(15分の休憩あり)
ロビーではパンフレットや永井愛の著作が販売され、ご本人がいらしてサインもしてくださっていた。
ネタバレありの感想は以下に。
10年前、私はこの「書く女」のチケットを手に入れていたにも関わらず、何かの理由で観に行っていないらしい。
どうしてそんな勿体ないことをしたのか、10年前の私に説教したい気分だ。
最初に舞台を見た感想は「広い!」だった。まだ始まる前だったけれど、それなのに何故か「このお芝居にはもっと狭い舞台が合う」と勝手に考えた自分が謎である。
左奥にピアノが置かれ、林正樹が演奏している姿が見え隠れしている。
右手には階段が奥へそれからさらに右手へ伸び、そこや舞台手前を傘を差した人々が忙しげに歩いているシーンから始まった。
樋口一葉の評伝劇といえば、やはり井上ひさしの「頭痛 肩こり 樋口一葉」が思い浮かぶ。
比較できるほど覚えている訳ではないけれど、でもやはり時々比べてしまっている自分がいる。比べているというよりも、井上ひさしは一葉の「恋」は描かなかったけれど(そもそも、「頭痛 肩こり 樋口一葉」には女優しか出て来ない)、永井愛は樋口一葉の「奇跡の14ヶ月」を生んだものの一つは「恋」だと考えたのだなという気がする。
また、ちらりとしか出て来なかったけれど、樋口一葉がとても優秀だったけれど、母親の「女に学問はいらない」という考えから進学させてもらえなかったことは、井上ひさしも永井愛も言及しなくちゃと思ったのだなと感じた。
うろ覚えの記憶だけれど、この話はどちらも、妹の邦子が母を詰るという場面で語られていたのも興味深い。母と一葉の関係だけではなく、母と邦子の関係、夏子と邦子の姉妹の関係も同時に語られている。
物語は、樋口夏子が、萩の舎で和歌を習っていたところ、父や兄が相次いで亡くなって戸主として家計を支えなくてはならなくなり、萩の舎の田辺龍子が小説を書いて売れたことから、自分も小説でお金を得ようと考えた辺りから始まる。
その手立てとして、夏子は友人の友人の兄である半井桃水に師事して小説を勉強し始める。
芝居を見ているときは判らなかったけれど、このときの夏子は20歳だったらしい。一葉という雅号を使い始めるのもこの頃からのようだ。
初演で夏子を演じたのが寺島しのぶだということは知っていて、黒木華演じる夏子を見ながら、お二方とも、けれんのある役者さんだなぁと思った。
ナチュラルと言われるお芝居ももちろんされると思うけれど、ぱっと華やかだったり、日常ではなかったり、はじけていたり、そういう役をさらりとそしてストレートに演じきってしまうのはやっぱり個性のような気がする。もっと言うと、それが似合う役者さんと似合わない役者さんがいて、お二方は間違いなく「似合う」役者さんだと思う。
しかし、「書く女」は、あえて言うと地味な物語だと思う。
小説を書き始めてから亡くなるまでの樋口一葉の生活と恋を淡々と語り、見せる。
樋口一葉は、小説を書き始めたときに、半井桃水という恋を得る。そして、この舞台では、両思いだけれど実らない恋だと描くことで、夏子の恋は長続きをする。そして、恋を捨てて捨ててそこに何が残るかを見たいと夏子は言い、残ったのは小説だったと語る。
以前に永井愛が「なぜ樋口一葉は変わったか、本物の小説を書けるようになったか、それは彼女が”生きた”からだと思う」と語っているのをどこかで見るか聞くかした記憶がある。
その記憶があったから、「生きた」ことの筆頭は「恋をした」なんだな、と舞台を見ている間中、繰り返し思うことになった。それなら樋口一葉が恋をしなかったら小説は書けず、今も読み継がれることはなかったんだろうかと考える。
その大枠の設定は、何だか切ないような気がした。
もちろん、夏子が”生きた”のは、恋をしたからだけという訳ではない。
夏子はしょっちゅう引っ越しをしていたようで、引っ越した先々で生活し、周りで暮らしている人々と交わり、萩の舎で出会った裕福な女性達とのつながりだけでなく、暮らしに困っている人々、遊郭に通う人々、同人を発行している文学青年たち、親の力関係をそのまま再現しているかのような子ども達、この芝居では「世間ではなく社会を知った」と表現されていたと思う。
様々な人の思いに触れた、きちんと向き合って見た、生活と借金に苦しめられた、一途に時間も季節も判らなくなるくらいに集中して書いて書いて書きまくった、だから「書けた」。
多分、そういうことを、そのことだけを描いた舞台だったんじゃないかと思う。
ひたすら生活苦を嘆き、士分としての誇りを持ち、ときには調子のいい様子も見せる夏子の母と、姉の執筆に理解を示し何だかんだ言いつつも夏子に代わって樋口家の生活を担いつつ明るい表情を見せる邦子と、樋口家の女性たちは、何だかんだたくましい。
樋口一葉最後の数ヶ月、彼女の元に集まって来た文学青年達と楽しそうにしている姿は、何だか違和感がありつつも、樋口一葉が見た夢のようにも見える。
最初はひたすら謙遜していた夏子が、小説を書いて書いて書きまくる頃には、自分の作品を批評し批判する文筆家が家に押しかけてきても毅然とかつ艶然と対応するように変わっている。
その変わり方は、変わりたくて変わった訳ではないと叫んでいるようにも見えるし、この変わった私を見てと主張しているようにも見える。
もしかしたら、何かがあるごとにに挟まる「会いたい」という夏子の独白は、恋心だけではなく、小説を書かなかった自分への憧れもあるんじゃないかという気もする。
高熱を発した夏子が、人生で出会った人々に夢なのか現なのか、それも定かでないまま一人一人に声をかけ、感謝を伝え、そして、亡くなる。
24歳という若さで亡くなる夏子に、小説を書いてきたことの満足も、小説を書いてきたことの辛さも感じられない。
ただ「生きた」という実感だけがそこにあったように見えた。
音響は(多分)生演奏のピアノだけで、そのピアノ演奏が楽しげだったり不安を煽ったり静かだったり焦燥感に溢れていたり、とてもよくこの舞台に合っていたと思う。
知っているのについこの先の夏子がどうなるのかと引き込まれてしまう、いい舞台だった。
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