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「コペンハーゲン」
作 マイケル・フレイン
翻訳 小田島恒志
演出 小川絵梨子
出演 段田安則/宮沢りえ/浅野和之
観劇日 2016年6月18日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 シアタートラム F列12番
上演時間 2時間10分(15分の休憩あり)
料金 7800円
ロビーではパンフレット(800円)が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
こういう言い方は不謹慎なのかも知れないけれど、とにかく格好いい舞台だった。
1941年、ドイツに占領されたデンマークのコペンハーゲンで、浅野和之演じる物理学者ニールス・ボーアは、段田安則演じるかつての弟子で今はドイツのライプチヒ大学にいる物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの訪問を受ける。
この「訪問」は史実だそうだけれど、実際に二人の間でどんな会話が交わされたのかは判っていないそうだ。
核兵器開発に何らかの影響を与えたことは間違いないこのときの会話を、死後の世界にいる二人の物理学者と宮沢りえ演じるニールス・ボーア夫人のマルグレーテの三人が再現しようとする。
そういう戯曲だ。
暗めの舞台、正面奥に数段の階段があり、何となく玄関のようになっている。柱が立てられ、片方には帽子とコートが掛けられるようになっている。
手前に木の椅子がいくつか置かれ、少し奥にワインやグラスが置かれた木製のキャビネットが置かれている。
反対側には裸電球の明かりがある。
それだけの舞台セットだ。
シンプルな舞台セットに、登場人物は3人だけ、役者も3人だけでひたすら「会話劇」が続く。
もう本当に我ながらしつこいけれど、やっぱり役者さんは声だよと思う。
特に、この芝居のように登場人物が少なく、役者も少なく、音楽もほとんど(もしかしたら全く)使われず、動きもそれほど大きくなく、語られていることの意味がかなり判らない。
そうなったらもう、声としゃべり方の説得力しかないではないかと思う。
そして、あり過ぎるほど説得力のある3人なのだ。
段田安則と宮沢りえはひたすらクリアな声でしゃべり方だと思う。
舞台の上の役者さんが3人ともクリアで押しの強い声だったとしたら、逆説的にとてもうるさい舞台になっていたと思う。浅野和之のちょっとしゃがれたといえばいいのか、適当な表現が浮かばないけれど、とにかく彼の声が加わることで揃わなくなり、舞台上で交わされる声の奥行きが増したように思う。
舞台上の時間は行ったり来たりする。
すでに死後の世界にいる3人が、もう真実を語っても誰も傷つけないし裏切らないとして、1941年の「会話」を再現しようとする。
一応「素」でいる男二人に対して、マルグレーテだけはその場の傍観者だったためなのか、「心の声」も台詞としてしゃべり、こちらに聞かせてくる。
今の死後の世界にいるのか、1941年にいるのか、実際に声に出された台詞なのか、心の中で呟いただけなのか、死後の世界にいる今の心の声なのか、その辺りはわざと曖昧にされているような気もする。
時々混乱するけれど、そもそも「混乱の中から真実を見つけよう」という芝居のようにも感じられる。
だからこそ、1941年の「会話」を、「下書きをしてみよう」と何回も繰り返すことになったのだと思う。
そこで交わされたのは「物理学の話」である。
マルグレーテに判るように語ろうとボーアはハイゼルベルグに言うけれど、マルグレーテはボーアの論文の清書を何度もタイプしている、セミプロだ。
「シュレーディンガーの猫」とか「不確定性原理」とか「シュタルク」とか「量子力学と波動力学」とか「ウラン235とウラン238」「相補性」とか、聞いたことはあるかも、という単語や人名がぽんぽんと出てきて説明はない。
だから、多分、舞台上で交わされた会話の意味は私にはほとんど判っていない。
私の中では、ハイゼルベルクがボーア宅を訪問したのは、つまるところ、自分がドイツで核兵器の開発を行いつつあることを伝えたかったからじゃないかと思う。
そして、ボーアは、ハイゼルベルグが根本的かつ単純な勘違いをしていることに気がついたけれど敢えてそれを指摘しなかったのではないかと思う。
ハイゼルベルグは、結果として「核兵器の開発はできない」と思い込んで「原子炉の開発」に邁進し、ボーアは結果として合衆国での核兵器開発に手を貸した。
ドイツでは核兵器の開発は行われず、合衆国はドイツに対して核兵器を使用しなかった。
イギリスの作家が書いてイギリスで上演されれば多分そこで話は終わるけれど、しかし、この芝居は実際に原子爆弾が使われた日本でこうして上演されている。
オバマ大統領は、つい先日、広島を訪れている。
多分、そこには、イギリスで上演されたときとは違う意味が生まれている筈だと思う。
そして、ドイツで上演された場合でも、合衆国で上演された場合でも、この芝居の持つ意味、与える印象は随分と違うし、演出家や役者やこの芝居の「作り手」側に立つ人は否応なくそれを考えなくてはならないんだろうと思った。
いい芝居を見た、見て良かったと思う。
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コメント
こんばんは、帰りの新幹線車内です。
小川さんは新国立劇場の芸術監督に就任されたそうです。
小川さんの演出となると無条件で観たくなる、そんなお気に入りです。
ましてシス公演でトラムで達者な三人芝居、見逃せません。
本当に「声」ですよね、特に段田さん。
いつもうっとりしちゃいます。
小難しい理論は置いといて(理解不能)、途中から日本人として胸が締め付けられました。
開発や落とした側の国と落とされた側は永遠に相容れないと思えますが…。
時間を行ったり来たり、小川さんの「星の数ホド」を思い出しました。
次回はトラムの「レディエントバーミン」が楽しみです!
またちょこちょこお邪魔します。
投稿: あんみん | 2016.07.02 22:35