「母と惑星について、および自転する女たちの記録」を見る
パルコ・プロデュース「母と惑星について、および自転する女たちの記録」
作 蓬莱竜太
演出 栗山民也
出演 志田未来/鈴木杏/田畑智子/斉藤由貴
観劇日 2016年7月30日(土曜日)午後2時開演
劇場 パルコ劇場 A列13番
上演時間 2時間30分(15分の休憩あり)
料金 7800円
多分、ロビーではパンフレット等を販売していたと思うけれどチェックしそびれてしまった。
ネタバレありの感想は以下に。
さて、この舞台の始まりがどういうシーンだったか、すでに覚えていない。
田畑智子演じる長女が、旅の感想なのかエッセイなのかをノートに書き付けつつ語っていた独白だったか、志田未来演じる三女が真っ向勝負で客席を向きスポットライトを浴びて心の中の台詞を語り始めたのか、鈴木杏演じる次女が夫とやっているらしいLINEの画面が舞台奥に映し出されていたのだったか、どうだったろう。
いずれにしても、三姉妹が姉妹旅行中の「今」から始まったことは間違いないと思う。
斉藤由貴演じる彼女たち三姉妹の母は、1ヶ月と少し前に心臓発作で亡くなったそうだ。
そして、三姉妹は、母の遺骨を散骨すべく、母が好きだった「飛んでイスタンブール」の曲にちなんで、イスタンブールに来ているらしい。
舞台手前から奥にかけて立ち上がるような、布を垂らしてそのまま固めたような舞台セットは、彼女たちの長崎の家でもあるし、イスタンブールの街中でもある。
こうして今思い出そうとすると、何だか全てが曖昧だ。
セットがどんな感じだったのか、姉妹はどうやって登場したのか、そういうことは何となくぼんやりとしか残っていない。
そうしたら何が残っているのかといえば、三姉妹の役はそれぞれの女優さんに似合った役を当てたなぁということだ。
長女ののしっかり者風に見せておいて二重の絨毯詐欺に引っかかるマヌケなところとか、次女の奔放かつ好き勝手やってる感じとか、三女の生真面目かつ要領が悪そうなところとか、あて書きしたんじゃないかと思ったくらいだ。逆に言うと、非常に手堅い意外性のないキャスティングという気もする。
彼女たちは今、イスタンブールに来ている。
長女は手帳に、次女はLINEに、三女は、最後に明かされたところでは手紙に、それぞれ自分の心情を語る。
もちろん、旅をしながら、母の思い出を語り合う。それは語り合うというよりは、どちらかというと「吐き出す」というのに近い。それぞれが母に対して葛藤を抱えていて、これまで言ったこともあれば言わなかったこともある。それを語る。
そして、その「語り」はときには姉妹をその「昔」に連れて行き、「昔のできごと」がその場で再現されたりする。
その独白と今と過去との行ったり来たりは、すべて役者さんたちの切替にかかっている。照明や音響の力も借りつつ、一瞬で切り替えるその切替がなかなか気持ちがいい。
母と娘の関係というのは永遠のテーマの一つで、でも彼女たちと母親との関係は、「一卵性親子」とは対極にある。
母親自身も自らの母親への葛藤を抱え、夫に逃げられ、バーを経営しながら三姉妹に対して「母性」というものを見せようとはせず、本人曰く「自分が飛んで行かないための重石」としか見ていない。あるいは、ライバルとしか見ていない。
母親らしいことをされていない、母親に愛されていない、父親のこともよく覚えていない、父親が誰か判らない。
三姉妹の母親に対する思いは複雑で、ついでにお互いに対しても「私の方が酷い目に遭った」とそれぞれが思っているように見える。
結局のところ、彼女たちは母親を疎んじ、嫌っているのと同時に、その母親が死んでからもまだ捕らわれている。だからイスタンブールくんだりまで来て、その雑踏の中に死んだ筈の母の姿を3人が揃って見たりする。
昔がそのまま演じられているシーンを見ていて、この母親に同情する余地とか、筋が通っている感じとか、そういう庇うべき要素はないように思う。
それなのに何故か、それが舞台の世界になると、「実はこんなに酷い母親にも一部の理はあった」みたいな話に必ずなるのが何だか理解できない気がする。
完全な善もなければ完全な悪もない。すでにオトナになった娘達が、自分たちの葛藤の原因を全て母親に求めるのはどうかと思う。
それでもやっぱり、この構図はよく理解出来ないなぁと思う。
長女が惚れっぽく飽きっぽく長年付き合っている恋人とその度別れてはよりを戻すことを繰り返しているのも、その恋人と8年付き合って結婚していないのも、次女が借金を抱えているにも関わらず専業主婦に拘泥しているのも、三女が付き合っている恋人にプロポーズされ今はまたその恋人の子供を妊娠しているのに結婚にも出産にも踏み切れないのも、それは「母の血を継いでいるのではないか」という思いからだろう。
そこには、母の母である祖母が原爆投下のときに長崎にいたという事実も含まれているのかも知れない。
それを全部母親のせいにするのはどうなのとか、母親にだって言い分も葛藤もあった筈だよとか、それは判るのだけれど、何というか、この芝居の大前提というか根底のところで、母親を全肯定しているような気がして、そこがどうしても引っかかってしまう。
ついうっかり、自分もその前提に引きずりこまれそうになっているのがちょっと怖い。
結局、問題は何ひとつ解決していない。
ただ、姉妹がそれぞれ自転するように一人でぐるぐると思い悩んだり腹を立てたり逡巡したりしていたことについてやっと吐き出すことができ、姉妹でいわば共有するようになったことが、進歩といえば進歩だ。
そして、そうやって自転を続ける姉妹の中心には、母がいて、娘たちはぐるぐると自転を続けるのと同時に、やっぱり母親の回りをぐるぐると回ることを止められそうにない。
タイトルはそういうことだったんだろうなと思う。
イスタンブールの空港に向かう途中、姉妹は結婚式に行き会う。
みな、新郎新婦も含めて踊り出し、一緒に踊ろうと誘われる。
その場所で、ずっと持ち歩いてきた母の遺骨を姉妹は撒く。
やっぱり何も解決はしていないけれど、次女は夫に「帰ったら色々と話さなくちゃならないことがある」とLINEで伝え、三女はこれまでの行くたてを全て恋人に伝えようとする。この舞台は、全て丸ごと、三女の手紙だったのだ。
三姉妹は、もう一度、母親の姿を見る。
しかし、舞台上に母が現れることはなく、照明が消えて幕である。
ありがちだとか見ているとき心の中で文句を付けていたのも、でも彼女たちのその後が気になってかなり集中して見ていたことも、見終わったら何だかスッキリしていたことも本当である。
不思議な舞台だった。
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