「サバイバーズ・ギルト&シェイム」 を見る
KOKAMI@network vol.15「サバイバーズ・ギルト&シェイム」
作・演出 鴻上尚史
出演 山本涼介/南沢奈央/伊礼彼方
片桐仁/大高洋夫/長野里美
観劇日 2016年11月12日(土曜日)午後7時開演
劇場 紀伊國屋ホール
上演時間 2時間
料金 8500円
ロビーではもの凄く激しいパンフレットの売り込みが行われていた。何故だろう。
ネタバレありの感想は以下に。
開演前、客席には懐かしい音楽が流れていた。この曲は何だっけ、第三舞台のどのお芝居で流れていた曲だっけとずっと考えていたけれど、結局思い出せなかった。ハッシャ・バイだったような気がするけど確信が持てない。
幕開けは、山本凉介が舞台中央の一番高くなったところに正面を向いて立っている、そういうシーンだ。
随分と大胆な幕開けである。
しかも、セットが迷彩風、本人が着ている服も迷彩服で、目立たない。やっぱりかなり思い切った幕開けだと思う。
そして、ビデオカメラを持った南沢奈央が現れ、歌が流れてきたなぁと思ったら伊礼彼方が歌いながら現れる。音響かと思ったくらいで、流石の安定感だ、もしかして口パクか? と思ってしまったくらいだ。
大高洋夫が自転車に乗って登場というのも何だか懐かしい感じがする。
全員が無言で(伊礼彼方は歌っているけれど台詞はない)登場したところで、ダンスシーンというのもやはり懐かしい。
「バカシティ」を見たときに、「蜷川演出では物を落とし、第三舞台では踊り、新感線では殺陣シーンで始めるのよ!」と思った私の感想は、なかなか正確だったらしい。
山本凉介演じる明宏が迷彩服を着て戦場から帰って来たところから物語は始まる。
母親である長野里美と向き合っていると、とにかく大きく見える。身長が高いなぁ、というのが恥ずかしながら最初の感想だ。
紀伊國屋ホールのロビーがお花で埋まっていて驚いたけれど、そういえば客席の年齢層が若い女性に偏っている訳でもなくて、彼はどういう役者さんなんだろうと思う。全く予習していなかったので、ふとそんなことも思う。
この辺りのとぼけた演技は長野里美の真骨頂で、明宏が戦死し、幽霊となって帰って来たことが明かされる。
この母は、「雄ちゃん」と呼ぶ大高洋夫演じる男と来週再婚しようとしており、伊礼彼方演じる息子の義人(明宏の兄)はそれに激しく反対している。
雄司が幽霊になっても家に戻ってきたのは、映画研究会で憧れていた南沢奈央演じる夏希先輩を主演に映画を撮りたかったからである。
そこへ、片桐仁演じる、雄司の上官であったと名乗る榎戸という男が現れ、本当は戦死したのは自分であり明宏は生きていると告げる。
しっちゃかめっちゃかだ。
そのしっちゃかめっちゃかはとりあえず置いておかれ、一度は映画出演を拒否した夏希が一転、「自分のために」映画に乗り気になったことで、家族を巻き込み、夏希に惚れている義人も不承不承参加して、映画撮影が始まる。
「ごあいさつ」にあった、後悔があるという鴻上尚史初監督作品に引っかけ題材は「ロミオとジュリエット」を下敷きにした幼稚園児の恋物語だ。
開演前に「ごあいさつ」を読んでいたのに、「何故ここでロミオとジュリエットなんだ!」「何故、映画撮影なんだ!」と心の中でツッコミを入れてしまう。
夏希が協力を決めた理由も「サバイバーズギルド」で、この辺りから少しずつ物語は最後の収束に向けて走り出したと思う。
少なくとも見ているときに、どうしてここでロミオとジュリエットなのか、どうしてここで映画撮影なのか、ピンと来ていなくて申し訳ない。
家族の団らんを拒否するように、そういう場面になるといきなり暴力的になる雄ちゃんが、実は、東日本大震災を思い起こさせる「津波」のために妻と娘を失っていたことが判る。家族団らんは、妻と娘に対する裏切りだと彼自身が考えているようだ。
榎戸と明宏は、戦場で同じ部隊だった戦友達に「死に後れた」という気持ちが強い。だからこそ、自分は死んでいると思い込んでしまっている。
夏希は、映画研究会の集まりに遅刻したために自分が助かり、時間通りに集まっていた仲間たちがみな死んでしまったことに苦しんでいる。
義人は、心臓が悪いために戦場に出られない自分を恥じ、その屈折が弟や家族への攻撃的な言動に繋がっているように見える。
こうやって書き出すと、明宏と義人の母親だけが、少なくとも判りやすい形では、自分だけが生き残っていることへの違和感や罪悪感を感じていないようだ。
演じる側としては、それってかなり難しい立ち位置なのではなかろうか。
被り物っぽい扮装も見せつつ、「おこう」を彷彿とさせるような咳をしつつ、長野里美一人で一体どれだけの役割を果たしているんだろう。
映画撮影の場面を延々と続けつつ、実は、明宏を始めとする登場人物たちの背景を語る。
「幼稚園児のロミオとジュリエット」という映画が、「ジュリエット・ゲーム」という鴻上尚史初監督作品へのオマージュになっているのと同時に、笑いを生む枠組みとしても機能している。
でも、やっぱり映画を撮ることやロミオとジュリエットであることの必然性みたいなものが、書き手の側だけにではなく、物語の中に欲しかったなぁと思う。それがあると、更にカタルシスが大きくなったような気がする。
明宏も榎戸も実は死んでおらず、自分が死んだことに気がつかないままこの世に残っていたのは夏希だったことが判り、明宏は戦場に戻り、義人と榎戸は隠れて暮らすことにする。
そうして、幕だ。
何かを語りたいときにどういう設定を選ぶかということにはやはり拘りや傾向があって、鴻上尚史の場合はそれは「死者」であるような気がする。
この芝居では、語りたいことは役者に語らせるのではなく、多くを伊礼彼方が歌う歌の力に委ねていたようにも思う。
懐かしく、その「語り」を聞いた。
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