「ワーニャ伯父さん」を見る
KERA meets CHEKHOV Vol.3/4 「ワーニャ伯父さん」
作 アントン・チェーホフ
上演台本・演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 段田安則/宮沢りえ/黒木華/
山崎一/横田栄司/水野あや
遠山俊也/立石涼子/小野武彦
ギター演奏 伏見蛍
出演 木場勝己/伊沢磨紀/松本紀保/柴田義之
戸谷昌弘/小須田康人/楠侑子
観劇日 2017年9月18日(日曜日)午後1時30分開演
劇場 新国立劇場小劇場
料金 8500円
上演時間 2時間25分(15分の休憩あり)
ケラさんのチェーホフである。
ロビーではパンフレット(700円)が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
ワーニャ伯父さんという芝居を見るのは初めてではない筈と思ってこのブログを検索したら、華のん企画のワーニャおじさんを2009年に見ていた。
それにしても、随分前のことになるんだなぁと思う。
しかも、「ワーニャ伯父さんと姪のソーニャは、ソーニャの父親ある芸術学の教授のもとへ、農場を経営しながら仕送りを続けて来た。教授が前妻の実家でもある農場に若くて美人の後妻を連れて来てから、ワーニャ伯父さんは今まで尊敬して仕えてきたのは間違いだったと思うようになった」というかなり半端な記憶しか残っていなかった。
チェーホフの戯曲がこれほど上演され、評価され、愛されているのに、どうも私にはよく判らない。
「全体的に暗い」「よく判らない」という印象しか持てないというのは、我ながら浅すぎるし残念すぎる。でも、やはりよく判らない。
その「暗い」芝居の中で、いかにもケラリーノ・サンドロヴィッチ流の笑いが散りばめられていてほっとした。何しろ、ストーリーとしては全く救いがない。
ソーニャのものである農場を自分たちの生活のために売り払おうとした教授に、ワーニャ伯父さんは怒り爆発、教授を拳銃で殺そうとまでするけれど、結局殺すことはできない。ソーニャに促されて教授と和解し、今までの自分の人生に絶望しているにも関わらず、その暮らしを続けて行くということだけを勝ち取る。
段田安則演じるワーニャ伯父さんが一番不幸な感じがするけれど、実は山崎一演じる教授自身だって幸せな訳ではない。
そもそも、都会での生活に金銭的に行き詰まって前妻の実家に身を寄せるというところからして、かなり追い詰められた感がある。生活破綻の一歩手前だ。自分が「一流の学者」ではないことは教授本人が一番良く知っているだろうに、自分は一流だという幻想から逃れられていない。
持病のリュウマチもある。
宮沢りえ演じる教授の妻エレーナは、ひたすら退屈している。退屈しているから、自然保護運動に邁進している横田栄司演じる医師に心惹かれているけれど、義理の娘であるソーニャが彼を慕っていることも、医師がソーニャを愛していないことも知っている。
それなのに、「ソーニャのことをどう思っているかさりげなく聴いてあげる」と言ってしまうところが彼女の駄目なところだ。それを「作戦」とか「駆け引き」ではなく、「駄目なところ」としてこの戯曲では描いているように見える。
このエレーナがよく判らなくて「若くて美人」と散々言われる割に、そして宮沢りえに役を振っている割に、エレーナ自身が「若くて美人」を活かしていない、むしろ持て余しているような感じに見えた。
もっと「若くて美人」が鼻に着く感じの立ち位置なのかと思ったら、そうでもない。「気むずかしい年寄りの学者にお金目当てで嫁いだ」という悪女っぽい感じもない。
本人の自覚なしに、まじめで木訥な農場の人々の暮らしを狂わせているけれど、高貴な感じは高慢な感じはない。
このエレーナが教授の前妻の親友で、教授の前妻の兄であるワーニャ伯父さんも昔から彼女を知っていて、ちょっとは憧れていて、彼女と自分が結婚するという可能性もあったんだと独白するシーンがあって、かなり驚いた。
何というか、エレーナという人は農場の人々から見て「高嶺の花」なのかと思っていたら、意外と近い手が届くところにいた人なんじゃないかという驚きだ。
ソーニャだって、これまでほとんど口も利かなかったらしいのに、何故かあっという間に彼女に懐いてしまっている。
黒木華演じるソーニャは、慕っていた医師が自分のことを全く愛していないということを知り、「次に来るのは夏だ」と行って去って行く医師を見送る。
農場経営の仕事に戻りながらワーニャ伯父さんに語りかける風で「死んだら安らぐことができる」「諦めるしかない」「我慢するしかない」と静かに自らに言い聞かせているように見える。
死ぬまで彼女は働くしかないし、安らげることはないし、我慢し続けるしかないと言う。
それを、帳簿を付けながら、淡々と、誰とも目を合わせることなく、当たり前のことのように彼女は語る。
死ぬまで安らげない。生きている間は休めない。働くしかない。
そして、農場「主」でもない父親とその後妻に仕送りをし続けると決めている。
ソーニャは多分、この先、結婚することもなく、ただそれだけのために働き続ける「覚悟」をしている。「覚悟」であればまだいいけれど、それが自分の人生だと諦めて受け入れてしまっている。
そこには「悲愴な覚悟」すらない。
父親である教授夫妻は仕送りを「もらい続ける」ことができるのに、ソーニャは仕送りを「し続ける」しかない。
その格差が一体どこで生まれてしまったのか、理解できない。
私は理解できないけれど、ワーニャ伯父さんはともかくソーニャはあっさりと受け入れてしまっているし、多分、ワーニャ伯父さんもそこからこの先逃げだそうとはしないだろう。
何だか救いがない終わり方だ。
ワーニャ伯父さんとソーニャの人生より、今の私の方がまだマシだ。
そう思わせて観る側に勇気を与えることがこの戯曲の目的なんだろうか。
多分違うと思うけれど、そう一瞬思ってしまったくらい、この芝居のラストシーンに希望を見出すことができなかった。
でもそれは、多分、「ワーニャ伯父さん」上演としては成功なんだと思う。
そういうお芝居だった。
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