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「オーランドー」
作 ヴァージニア・ウルフ
翻案・脚本 サラ・ルール
翻訳 小田島恒志/小田島則子
演出 白井晃
出演 多部未華子/小芝風花/戸次重幸/池田鉄洋/野間口徹/小日向文世
演奏 林正樹/相川瞳/鈴木広志
観劇日 2017年10月28日(土曜日)午後6時30分開演
劇場 新国立劇場中劇場
上演時間 2時間25分(20分の休憩あり)
料金 9500円
ロビーではパンフレット等が販売されていたけれど、チェックしそびれた。
ネタバレありの感想は以下に。
広い舞台を広く使った舞台だというのが最初に浮かんだ感想だ。
新国立劇場中劇場の舞台をかなり広く、セットはほとんど置かず、桟橋のようなものが数本あって組み合わされ動かされ、背景なども映像を上手く使っている。
幕開け、空と雲(と多分、海)の映像が映し出され、波の音がして、そして演奏者達が入ってくるという始まりが心憎い感じである。
多部未華子は、広い舞台にひとりで立ち、自然に舞台を埋めてしまう女優さんだなぁと改めて思う。
同じようなシーンは、さいたま芸術劇場で見た「わたしを離さないで」でも見たような記憶があって、なおかつ、ひとり勝ちではないように主演舞台を務めてしまうってもの凄いことなんじゃないかという気がする。
少なくとも、他ではなかなか見ない。
その多部未華子演じるオーランドーはエリザベス1世の時代のイギリス貴族で、領地にある大きな木を詩に書こうと四苦八苦している。
残念ながら詩才はないようで、そこで紡ぎ出される言葉は惨憺たるものだ。
彼の屋敷に小日向文世演じるエリザベス1世がやってきて、オーランドーは宮廷に仕えることになる。
主に戸次重幸、池田鉄洋、野間口徹の3人が「コロス」として舞台の進行を務める。
しかし、ずっと気になっていたのだけれど、オーランドーの台詞だって、ほとんど「オーランドーは、**だと思った」といった感じで、自分のことをしゃべっているけれど、しゃべり方は地の文みたいになっている。
自分の台詞をしゃべっているのではなく、第三者のようにしゃべっていて、何だか落ち着かない。コロスを演じている3人が「コロス」ではない役になっているときの方が、よっぽど「台詞」をしゃべっているように聞こえる。
小日向文世が演じる役たちも、比較的「自分の台詞」をしゃべっていることが多かっただろうか。
池田鉄洋、野間口徹のお二人は出て来てすぐ判ったけれど、実は戸次重幸を見ても誰だか判らず、ずっと「あの俳優さんは誰だろう?」と思っていた。戸次重幸は何回か舞台で拝見したことがあるのに、我ながら情けない限りである。
この3人を「コロス」で使っちゃうって贅沢だよなぁ、でもその贅沢が許されたからこんなに登場人物の多い舞台を6人で演じることができてしまうんだろうなぁと思う。
前半は、16世紀イギリスが舞台だ。
オーランドーは、女王の寵愛を受けつつ、小芝風花演じるロシアの姫(と劇中では言われていたし、「ロマノフ」なんて台詞も出ていたけれど、どうも王族の姫には見えなかった)と恋仲になった挙げ句に駆け落ちを持ちかけて振られ、コンスタンチノープルへの赴任を願い出て聞き届けられる。
ここまでは「青年貴族オーランドー」の物語だ。
ところで、多部未華子と小芝風花の声って似ていないだろうか。
聞き間違えることはなかったけれど、どうにも「似た声だなぁ」という気がして仕方がなかった。その似た声の二人が恋人同士を演じて、二人で笑い合ったり喧嘩したりするものだから、その声が似ていることが際立つ。際立つと気になってしまう。
二人とも、よく通るいい声をしていて、だから何だか勿体ないような気がした。
この辺りまでは、オーランドー自身の「オーランドーは」で始まる台詞に違和感を感じつつも、何となく追えていたと思う。
それが、この辺りから訳が判らなくなる。
オーランドーは、コンスタンチノープルでいきなり寝て起きたら女性になっていた、という経験をする。
そして、女性として故郷に帰り、自分の屋敷に戻る。
ここまでも、まぁ、いい。
30歳の貴族の男が一夜にして女性になってしまい、故郷の屋敷に戻り、元の使用人たちにとにもかくにも迎えられ、以前の暮らしに戻ろうとする。
そこに「オーランドーはもう死んでいるのだから、女性のオーランドーから財産を取り上げる」みたいな訴訟が起こされるというやけに世知辛い設定が入ってくるのが謎だけれど、そういうファンタジーはありな気がする。
でも、この後が判らない。
時代は、17世紀、18世紀、19世紀、20世紀と進み、オーランドーは女性のまま、30歳(36歳という台詞もあったような気がする)のまま、生き続ける。
生き続けているのか、死んで新たな命として生まれ直しているのかはよく判らないけれど、とにかく、オーランドーは時間を超えて生き続けている。
だから何故、何のために、というところが私には判らず、何だか勝手に大混乱してしまった。
そうして、恋愛ゲームに現を抜かし、心から愛する人と出会って結婚し、車を運転してかっ飛ばし、オーランドーは数百年の時を体験する。
「青年貴族オーランドー」だったときから試み続けている故郷の大きな木を称える詩を作り、やっと満足の行く詩を書くことができた。
そのオーランドーを、小日向文世演じる「男」が舞台の端から見つめ、見上げている。
そこで、幕である。
そのラストシーンがとにかく格好良かった。そして、小日向文世が背中だけで「若さ」を表現し切っていることに驚いた。驚愕したと言ってもいいくらいだ。
女に裏切られた男が、女となって、真に愛することのできる伴侶を見つけ、そして生を超えたところで「書きたい」と望んでいた大きな木を歌う詩を完成させる物語、と言ってしまうと多分違うのだろうなぁと思う。
では、どんな物語でどんな舞台だったかと聞かれると、このように言ってしまうような気もする。
ストンと落ちることはなかったけれど、その落ちない感じが魅力の物語なんだろうと思った。
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