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2017.12.10

「欲望という名の電車」 を見る

「欲望という名の電車」
作 テネシー・ウィリアムズ
翻訳 小田島恒志
演出 フィリップ・ブリーン
美術 マックス・ジョーンズ
出演 大竹しのぶ/北村一輝/鈴木杏/藤岡正明
    少路勇介/粟野史浩/明星真由美/上原奈美
    深見由真/石賀和輝/真那胡敬二/西尾まり
観劇日 2017年12月9日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 シアターコクーン
料金  10500円
上演時間 3時間17分(20分の休憩あり)

 3時間17分という上演時間は、劇場ロビーに張り出してあったのを尊重した。実際はもう少しだけ短かったと思う。
 この妙に刻んだ上演(予定)時間に何か意味があるのかは、よく判らなかった。

 ロビーではパンフレット等が販売されていたけれどチェックしそびれてしまった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 BUNKAMURAの公式Webサイト内「欲望という名の電車」のページはこちら。

 このブログを検索してみたら、私が「欲望という名の電車」を見たのは、今回が3回目だったようだ。
 1回目に見たときのブランチは篠井英介、2回目に見たときのブランチは高畑淳子、今回が大竹しのぶである。
 「ブランチ」という女性がどういう女性だと思われているのか、非常に判りやすい。

 ブランチの設定が何歳なのか、今回初めて不思議に思った。
 「25歳」と言ったりしていたからそれより上なのは確かだけれど、実際のところの設定はいくつなんだろう。実年齢が30歳なのか、50歳なのかで結構この戯曲の雰囲気は変わるような気がする。
 演じた女優さんたちはみな結構な年齢で、だから「25歳」の詐称で客席に笑いが起きたりするのだし、「明るいところでミッチに会わない」ブランチの行動を単純に「シワを見られたくないのね」と解釈するけれど、ブランチの「とても若い頃の結婚」をステラが覚えているようだから、この姉妹の年齢はそれほど離れていない筈だ。
 うーん、いくつなんだろうと、どうでもいいことかと思いつつ、見ている間中、気になっていた。

 舞台上で猥雑な感じの騒ぎが起こった後、大竹しのぶのブランチは、客席から登場した。
 全身白い「しゃなり」という感じの服、白いハンカチと手袋、日傘と場違いなこと甚だしい。
 そして、妹のステラの家にやってきて、ステラの暮らしに驚愕する。自分が思い描いていた「上品な」生活を行うことはできないと一目で理解したからだ。

 ブランチとステラは抱き合って再会を喜ぶ。
 鈴木杏演じるステラはノースリーブのワンピース姿で、襟元も詰まらせた長袖にくるぶしまでのスカートのブランチとは対照的だ。
 再会を喜んだのも束の間、ブランチはステラの今の生活を嘆き、「抜け出さなくては」と決めつけ、生家を失ったことをステラに告げたブランチは「私を責めるのね!」と逆にステラを非難する。
 単調にかつステラの発言に常に被せるように話し続けるブランチは、緊張感とともに笑いも生む。
 何というか、大竹しのぶだよ、流石だよ、という感じだ。

 でも、「欲望という名の電車」だからと言おうか、戯曲の力なのか、役者さん達や演出家の手腕なのか、不思議と「大竹しのぶひとり勝ち」な感じはしない。
 むしろ、ブランチ、ステラ、ステラの夫のスタンリー、その友人のミッチという4人の主要登場人物以外の登場人物たちの持つ存在感が大きい。
 西尾まり演じる、ステラが暮らす家の大家さんなど、こんなに活躍していたかしらというくらいの活躍ぶりだ。

 「欲望という名の電車」は前2回見たときは「よく判らない」と思っていたけれど、今回は意外としっくりと見ることができた。
 何故だろう。
 ブランチの運命を最初から知っているからかも知れないし、こちらの年齢が上がってきたことが理由かも知れない。

 ブランチはそもそも、どうしてミッチと結婚したいなどと思ったのだろう。
 「結婚」が今の生活(それまでの、「見ず知らずの方の親切による」暮らしからも、下品で野蛮と評するスタンリーがいるステラとの同居生活からも)から抜け出す手段となっている。
 そもそも、ブランチの思い描く生活を取り戻すためには、ミッチでは明らかに役不足だろうと思う。
 比較して「スタンリーや、スタンリーの他の仲間達」よりもブランチの目にはまともに映っているだろうけれど、しかし、ブランチの「上品」指向を満足させるだけの稼ぎがあるようにも見えない。
 夢を掛ける相手と場所を間違えてると思う。

 「とにかく今よりはマシに」というこのブランチの「欲望」は、ブランチがすでに壊れてしまっていることの証しなのか、あるいは「自分」という現実をそこだけシビアに理解した結果なのか、よく判らない。
 ここまでブランチを理解できていないとなると、芝居を見ている間に自分の中にあった集中力はどこから来ていたのだろう。
 そここそが、この「欲望という菜の電車」という芝居が持つ力だったのかも知れない。

 ブランチが故郷を出て来た理由をスタンリーが調べ上げ、 ミッチとステラに告げる。
 ステラが用意したブランチのバースデーパーティに、当然、ミッチは来ない。
 ショックを受けたステラが産気づいてスタンリーとともに病院に行った後、ミッチがブランチを訪ねてくる。
 そして、ブランチが自分を「騙し続けていた」ことを責める。それでもブランチは「ミッチが自分を好いている」「ミッチが自分を淑女として扱う」ことを前提に振る舞い続ける。
 白いドレスとティアラは、ウエディングドレスのつもりだったんだろう。

 ブランチは、元々が大きな音を苦手としていたようだけれど、そのうち、車のクラクションやポルカの音楽、銃声などの幻聴に悩まされ始める。
 クラクションは判らないけれど、ポルカと銃声は、最初の夫との「出会い」と「別れ」の象徴だ。
 そして、ミッチが帰った後、ステラを病院において帰ってきたスタンリーと二人になると、この家には、枯れた花束を持った死に神(に見える)達が取り巻き始め、そしてスタンリーはブランチを襲う。
 ここだけは私には相変わらず「その必要はないんじゃない?」としか思えない。スタンリーの復讐なんだろうか。

 「スタンリーがブランチを襲ったことを、ブランチがステラに告げた」という設定は、今回初めて見たような気がする。
 ステラは「ブランチが言ったとおりのことをスタンリーがやったのだとしたら、(ブランチを施設に預けて夫婦二人の生活に戻ったとしても)スタンリーとはやっていけない」と大家の女性に訴える。
 大家の女性は「それでも生きて行かなくちゃいけないんだから考えるな」と諭す。この諭しは、現実的なアドバイスだとは思うけれど、ステラの心を救うことはない。

 ブランチを施設に預けるという決断をしたことを、ステラは後悔している。
 施設からの迎えが来て、一緒には行かないと暴れまくるブランチを見れば尚更だ。
 しかし、施設から迎えに来た男性がブランチを淑女として扱ったことで機嫌よく歩き始めるブランチを見るのもまた辛い。
 ステラは赤ん坊を抱き、ブランチを見送る。
 そのステラの方を抱くスタンリーだけれど、ステラは全くスタンリーを見ようともしない。

 ブランチは、青いスーツを着て、施設から来た白いスーツ姿の男性と腕を組み、客席から退場する。
 その後、呆然と見送っている舞台上のステラに当たっているスポットが徐々に暗くなり、幕である。

 流石だよ、と思う。
 もはや何が流石なのかよく判らないけれど、でも、見終わって最初に浮かんだ感想がこれだった。
 ストーリーも知っているし、ブランチの運命も知っている。それなのにこれだけ集中させる。
 凄いパワーを持った舞台だった。

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