「イーハトーボの劇列車」を見る
こまつ座 第126回公演「イーハトーボの劇列車」
作 井上ひさし
演出 長塚圭史
音楽 宇野誠一郎/阿部海太郎
出演 松田龍平/山西惇/岡部たかし/村岡希美
土屋佑壱/松岡依都美/天野はな/紅甘小日向星一
福田転球/中村まこと/宇梶剛士
観劇日 2019年2月9日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 紀伊國屋ホール
料金 8800円
上演時間 3時間30分
ロビーでは、「木の上の軍隊」のチケットやパンフレット、井上ひさしらの著作本が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
久しぶりの観劇は、こまつ座の「イーハトーボの劇列車」だった。
見始める前も見終わった後も「初めて見た」と思っていたら、自分のブログを見て実は2013年に見ていたことが判った。毎度のことながら、我ながら情けない。
本当に綺麗さっぱり忘れている。
前回見たときの感想を読むと、今回の公演とほとんど内容は変わっていないようだ。(当たり前か。)
しかも、思ったこともほとんど似ているところが、己の進歩のなさを象徴しているようで、こちらも何だか情けない気がする。
しかし、もちろん出演者が異なり、演出が異なっているのだから、違うお芝居である。
「どうっ」と「しゅっ」という「音」が随所に出てきて、何かを象徴していることは間違いない。
今回はそれが、何だかやけに不穏な音のように感じられた。何かが起こる前触れというのか、不穏な何かが近づいてくる足音のようなイメージである。
これらの音を出しているときの役者さんたちが無表情だったことも、その理由の一つだと思う。
「この世のものでない何か」の出す音、どこか別の世界から聞こえてくる音という感じがした。
その「音」は、劇中劇であると最初に断りのあるこのお芝居の「枠」を作っているような気がする。
最初にかなり長くその「音」を奏でていたし、「別の世界の始まりですよ」といった合図だったように思う。
その劇中劇は、宮沢賢治が母親とともに、妹のとしこが入院したためにその看病に上京する汽車の中のシーンから始まる。
松田龍平演じる賢治は、母親思いで、どこまでも好青年である。かつ、世慣れた感じが全くない。
もっとも、賢治に世慣れた感じが出てこないのは、この芝居を通して最後まで一貫している。
この芝居では(チラシによると)9回あった宮沢賢治の「上京」のうち、その転機となった4回を描いているのだそうだ。
かつ、賢治の上京を「車中」と「上京後のどこか」のシーンで交互に描いているのと同時に、この芝居ではその上京の車中で必ず中村まこと演じる「人買い」(という言い方が正しいかどうかは判らないけれども)が乗り合わせており、彼の所業も同時に語られる。
その「人買い」は、賢治が僅かなりとも関わった、「山男」「熊打ち」「羅須地人協会の少年」らを次々と絡め取って行く。
後に「曲技団」と称するこの男が何とも嫌な感じである。
彼を上京する車中の賢治とニアミスさせることで、やはり、賢治の構想の大きさと同時に遠さを、最も近いものを救えなかったことを象徴させているのかしらと思う。
この芝居の賢治は、滔々と法華経について語るものの、としこと同じ病室になった女性とその兄とを怒らせ、としこに「タルタルステーキ」への食欲を失わせ、論破しつつ全くそれがいい方向に繋げられていない。
父親が上京してきて「法華経」について賢治をやっつけようとしているときも、聞いていて賢治が全く論破されたとも思えなかったけれど、賢治は最後には不服そうな顔をして黙ってしまい、「頭を冷やしてくる」と外に出て行ってしまう。
その態度がそもそも子供だろう、父親の言いがかりは言いがかりとして反論し、「家の商売が嫌いなんだろう」と言われて黙り込まずに「そのとおりです」と堂々と言い返そうよ、と思ってしまった。
伊藤刑事と「イーハトーボ」について話したときも同様で、エスペラント語や音楽を学びに父親からお金を出してもらって上京したことや、賢治が自らを「百姓」と称したことについて伊藤刑事から怒りをぶつけられると、やはり黙り込んでしまう。
そして、最後に呟くコトバが「花巻にユートピアを作れって(お父さんが)言ったんじゃないか」なのだから、やはり情けない。
この芝居の中の賢治からは「負けん気」みたいなものが感じられない。
でも、それは多分、宮沢賢治のそういう部分を描こうとしたからだと思う。
劇中で賢治自身が、日蓮聖人だって人間だし、人間なのだから強いところも弱いところもある、弱いときに発した言葉も残っている、でくのぼうである自分は弱い日蓮聖人に共感する、という意味の言葉を語っていたけれど、それは多分、そのまま、井上ひさしが宮沢賢治に対して抱いた思いなんじゃないかという気がした。
その「思い」をこうしてストレートに、でも押しつけがましくなく登場人物に語らせることができるって凄いことだという気がする。
3枚の「思い残し切符」を受け取っていた賢治が、「あなたへ渡す切符はありません」と車掌に言われて「判っています」と答え、肺炎に倒れて死期を悟っていることが示唆される。
その落ち着いた表情は、何も語っていないように見える。諦観ではないようだし、受け入れているというのとは違う気がする。
そして、最初の「これから劇中劇を演じます」という場面の続きに戻り、劇中劇を演じ終えた死者たちは、自分たちの「思い残し切符」をお世話係の女性に渡し、イーハトーボ行きの列車に乗り込む。
そこで「思い残された」思いは、みな、「農民」の思いだ。
宮沢賢治の、詩人としてではなく、羅須地人協会の主宰者としてではなく、「農民としてありたい」という思いを描いたのだと宣言している、のかも知れない。
見終わって、何故か、場面転換を薄暗い照明の中で役者さんたちが椅子や畳を運んで行っていたことが印象に残っている。
そして、何故か「舞台が暗かった」という印象が強い。
不思議な舞台だった。
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