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2019.04.21

「奇跡の人」を見る

「奇跡の人」
作 ウィリアム・ギブソン
翻訳 常田景子
演出 森新太郎
出演 高畑充希/鈴木梨央/江口のりこ
    須賀健太/久保田磨希/青山勝
    増子倭文江/原康義/益岡徹 他
観劇日 2019年4月20日(土曜日)午後5時30分開演
劇場 東京芸術劇場プレイハウス
料金 9000円
上演時間 3時間20分(10分、10分の休憩あり)
 
 ロビーではパンフレットやTシャツなどのグッズが販売されていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 ホリプロオンラインチケットの公式Webサイト内、「奇跡の人」のページはこちら。

 これだけ有名な「奇跡の人」なのに、これまで見たことがなかった、と思う。
 多分、一番最初に「奇跡の人」を見てみたいと思ったのは、大竹しのぶがアニー・サリヴァン、荻野目慶子がヘレン・ケラーを演じていたときだったと思う。
 それが、今回、初めて見ることができた。

 それにしても、何故だか展開を知っていたり、「次はこのシーンがあるはず」と思ったり(そして実際にあると思ったシーンが目の前で展開されたり)して、途中、何度も首をひねった。
 どうしてだろうと散々考えた末、「ガラスの仮面」に描かれた「奇跡の人」がほぼこの舞台そのものだからだと気がついた。
 恐るべし、「ガラスの仮面」である。

 その「ガラスの仮面」のイメージだと、サリヴァン先生はどこまでも生真面目で厳格だけれど、この舞台のサリヴァン先生はだいぶお茶目である。
 サリヴァン先生がお茶目というよりも、高畑充希がコメディエンヌだというべきなのかも知れない。
 それが少し意外だった。
 気が強く、しかし弟の亡霊(というよりも、彼女自身の後悔の念)に苛まれる若干20才の女性を演じるには、やはりそこにほっとする時間が必要な気がする。

 対するヘレン・ケラーを演じる鈴木梨央は、初舞台だそうだけれど、やはり上手い。
 彼女が初舞台なんだなと感じたのは、唯一、カーテンコールでお辞儀のタイミング等々に戸惑っている様子を見せたときくらいである。
 ヘレン・ケラーは目が見えず、耳が聞こえず、この舞台となっている時点では話をすることができない。
 台詞がほぼ一切ないまま、しかもほとんど出ずっぱりで、3時間演じ続けるというのは尋常なことではないと改めて感じた。

 ケラー家におけるアニーの味方は、最初、母親であるケイトだけである。
 江口のりこがどこまでも端正にこのケイトを演じているのが印象に残る。そして、この舞台ではドレス姿だったためか、身長が高いんだなと思った。
 しかし、このケイトも「母親の情」を発揮し、アニーが厳しくヘレンに対しようとするのを結果として邪魔することになる。

 ヘレンの父親である「キャプテン」も、ヘレンの腹違いの兄であるジェームズも、アニーに対して批判的であり、全く信用しようとしない。
 これまで甘やかされ放題だったヘレンが、自分に厳しく対するアニーに当初からなつく筈もなく、ヘレンを教え始めた頃のアニーは正しく四面楚歌である。
 そんなときの「私、他にやることがないの」「それに私、他に行くところもないの」というアニーの台詞は、それまでの明るさや強気さが影を潜めている分、印象深い。

 食卓についてきちんと自分のお皿から食事をすることを教えようとするサリヴァン先生と、それに徹底抗戦するヘレンとのシーンは凄まじい。
 イスを振り回し、ヘレン自身を振り回し、スプーンを何本も用意し、サリヴァン先生は妥協しない。
 ヘレンだって、もちろん、そう易々とサリヴァン先生の言うことを聞きはしない。
 ほとんど「格闘」である。

 ヘレンに「いい」「悪い」を伝えようとして、サリヴァン先生は、大きく頷く様子をヘレンの手に感じさせ、大きく首を横に振る様子をヘレンの手に感じさせる。
 ということは、サリヴァン先生が来る前から、ヘレンは「いい」「悪い」という概念を知っていたし、頷くというしぐさが「いい」を表すということを知っていたことになる。
 それって何だか凄いことだと思う。

 しかし、「奇跡」を起こしたのは、少なくとも原題からすると、ヘレン・ケラーではなく、アニー・サリヴァンである。
 ヘレンを「しつけ」ようと試み、お行儀良くさせ、物には名前があるということを伝える。
 舞台はここで終わるけれど、その後もサリヴァン先生はヘレンが教育を受け、社会的な活動をして行くことをサポートし続ける。

 つい「アニー・サリヴァンとヘレン・ケラー」に目が行くけれど、実際のところこのケラー家は、ヘレンがいなくても問題山積みである。
 少なくとも、父親とジェームズの間に意思の疎通があるようには見えない。
 後妻であるケイトとジェームズの間にも、ほとんど会話らしいものが存在しない。
 ヘレンの妹のミルドレットも何故か舞台の後半にはほとんど登場しなくなる。
 その家族の問題も、ヘレンが少しずつ変わっていく中で変化していく、という風に描かれているけれど、何だか付け足しっぽいなぁとも感じてしまった。

 舞台には、場面がアニーの部屋やダイニング、敷地内にあるらしいガーデンハウス等々と変わっても、常にポンプが存在している。
 もちろん、ヘレンが「物には名前がある」と気づくきっかけとなった水を流すポンプである。
 つまり、観客である我々は、常に「奇跡」を意識しながら舞台を見ていることになる。

 舞台がかなり進んだところで、母親のケイトがサリヴァン先生に、「ヘレンは生後6ヵ月で言葉をしゃべった」「水のことをウォーと言った」というエピソードを話す。
 この部分は私の頭から抜け落ちていて、なるほど、これがサリヴァン先生が集中して水が水であることを教えようとした理由であり、ヘレンが「物には名前がある」ことを理解するきっかけとなるのが水であることの伏線なんだなと思った。
 こういう判りやすさは好きである。

 ヘレンが水が水であると理解し、次々と物の名前をサリヴァン先生に尋ねる。
 そして、その興奮状態が収まり、サリヴァン先生に「あなたは?」と尋ね「Teacher」と回答をもらい、彼女の頬にキスをする。
 そのときの幸せそうなサリヴァン先生の表情と、泣き崩れる母親のケイトの対比が、やっぱりこの後のケラー家の波乱を予感させる。

 でも、このシーンでは、客席から涙して鼻をすすり上げる音が聞こえていた。
 私の中では「泣く」までは行かなかったので、少し意外だった。

 カーテンコール3回で最後はスタンディングオーベイションになっていた。
 やはり「奇跡の人」である。
 そう思った。

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