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2019.07.28

「骨と十字架」を見る

「骨と十字架」
作 野木萌葱 
演出 小川絵梨子
出演 神農直隆/小林隆/伊達暁/佐藤祐基/近藤芳正
観劇日 2019年7月27日(土曜日)午後6時開演
劇場 新国立劇場小劇場
上演時間 1時間55分(15分の休憩あり)
料金 6480 円

 ロビーではパンフレット等が販売されていた。
 ネタバレありの感想は以下に。

 新国立劇場の公式Webサイト内、「骨と十字架」のページはこちら。

 キリスト教的な教養に全く疎い私にとっては、相当に難解な物語であり、やりとりだった。
 かつ、男5人の濃密な「会話劇」だったと思う。
 神農直隆演じるテイヤール神父は実在していて、実際に神父であると同時に進化論を説き、北京原人の発掘にも携わった人物であるそうだ。1955年に亡くなったと聞いて、「まだつい最近じゃん!」と思った。

 テイヤール神父は「進化論」を説き、その学説がヴァチカンの教えに反するとして、「進化論を説かない」という文書に署名するよう、近藤芳正演じる旧異端審問所に所属するラグランジュ司祭に強要される。
 最初は従容として従う様子を見せていたテイヤール神父は、「ヴァチカンの総意ではない」と聞くと「署名できない」といきなり反旗を翻す。
 そして、小林隆演じるイエズス会総長に呼び出されていた、伊達暁演じるリサン神父に誘われ、北京に宣教師として行くことになる。

 ここまで書いたところであれっと思う。
 佐藤祐基演じるリュバックの話が出てこない。彼はテイヤールの弟子で、師が進化論に邁進することに危惧を抱き、カギを掛けていない彼の部屋に入り、カギを掛けていない引き出しを開けて、彼の書いた論文を(恐らくは)ヴァチカンにリークしたという人物である。
 彼が全くの善意でかつ師を思った故にこういう行動を取っているにも関わらず、彼の行動を誰も問題にしないし褒めもしない。
 その扱われっぷりは、いっそ気の毒に思えてくるくらいだ。
 彼の行動は、テイヤールにも問題にされないし、総長からはむしろ哀れみを以て接しられる。惨い。

 この5人が揃う辺りまでで、すでに頭の中は飽和状態である。
 要するに、テイヤールが「アダムとイブ」の話は比喩であり、人類は猿から進化したと語ったことが「神の否定」「神への冒涜」とされたらしい。
 人類の祖先はアダムとイブではないと言うことは聖書の否定になる。
 だからといって、20世紀になってもカトリック教会で進化論が否定されていたとは思わなかった。

 しかし一方で、カトリック教会がそういう状況であったにも関わらず、神父という職にありながら、どうしてテイヤールは「進化論」を研究しようと思ったのか、どちらかというとそちらの方が謎である。
 ラグランジュの言っていることを聞いていると、進化論を研究することが神の否定に直結することは、「進化論を研究したい」と思えるくらい進化論の近くにいた人間には自明の理だったろうと思うからだ。

 そうすると、テイヤールはむしろ進んで「神を否定する」思想を持っていたように感じられる。
 テイヤールの中では、聖書のアダムとイブの物語はあくまでも「比喩」であるとすることで、「否定」はしないという整理がついているようだったけれど、そうなると「科学と信仰」の闘いではなく、「思想と信仰」の闘いであるように思う。
 そして、信仰に反するからと科学が否定されることには「違うだろ」と思うけれど、信仰に反する思想を持つのなら信仰と思想とどちらかを選べと言われても仕方がないんじゃあ・・・、と思ってしまった。

 テイヤールはリサンとともに北京に赴き、発掘作業に従事する。
 しかし、リサンはテイヤールの「思想」の行き着く先に(恐らくは)恐怖と嫌悪を覚え、袂を分かつ。
 テイヤールはリサンと別れた後も発掘作業を続け、ついに北京原人の頭蓋骨を発掘する。
 テイヤールが徹底して「静謐かつ誠実」な人物であると造形されているのでうっかりするけれど、やっぱり彼はかなり過激な人物である。

 一方、毒舌を吐きまくるリサンの方がむしろ、神を恐れているように見える。
 このシニカルな感じが伊達暁となかなか結びつかなくて、伊達暁が出演していることは知っていたのに、リサンを演じているのが伊達暁だと気づくのに随分と時間がかかった。
 多分、リサンがメガネを外したときに初めて気がついたと思う。

 そのリサンは、北京原人を発掘した後のテイヤールにとって「敵」に回り、リュバックは彼の研究業績を「ミッシングリンクを埋めるものだ」と絶賛して進化論が社会的にも教義的にも一定の地位を確保すると疑わず、むしろ総長の職を辞した元総長の方が何故だかテイヤールの信仰を手放しで信じ続ける。
 大概、ラグランジュという司祭は嫌な感じだし、テイヤールを徹底して攻撃する訳だけれど、彼の信じるところに従えばそうするしかなかったよねと最後の頃には何故だか同情する気持ちが湧いた。

 そのラグランジュと語っていたテイヤールは、やはり「人は神を目指して進化を始めた。人類の進化の行き着く先は神である」と主張してはばからない。
 だから、それは北京原人とは関係ないし、科学とも関係ないと思う。
 テイヤールが前を向いて歩き始めたところで照明が落ち、幕である。
 果たしてこれはテイヤールの自殺を暗示しているんだろうか、とそのときは思った。

 この5人の中で誰に好感を覚えるかと聞かれたら、リサンと答える。
 しかし、このお芝居を、例えばラグランジュを静謐かつ誠実な人物として演じ、テイヤールを奇矯かつ強情な人物として演じたら、それだけでこの芝居の持つ雰囲気も意味も一転するのではないかという気がする。

 やはり信仰は難しい。
 何しろ「信じるところ」であり、そこに多分、正義も悪もなく、それぞれの「信じるところ」しかないからだ。
 そして信仰を持たない私などには、その依って立つところが理解できない。
 多分、彼ら5人の間に、少なくともこの芝居の間、「相互理解」はひとかけらも存在していなかったのだと思う。

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