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2020.02.24

「東京ノート」を見る

青年団「東京ノート」
作・演出 平田オリザ
出演 山内健司/松田弘子/秋山建一/小林智
    兵藤公美/能島瑞穂/大竹直/長野海
    堀夏子/鄭亜美/中村真生/井上みなみ
    佐藤滋/前原瑞樹/中藤奨/永山由里恵
    藤谷みき/木村トモアキ/多田直人/南風盛もえ
観劇日 2020年2月23日(日曜日)午後1時開演
劇場 吉祥寺シアター
上演時間 1時間50分
料金 4000円

 整理番号順に入場して自由席というお芝居は久々だった。何だか新鮮である。
 ロビーでは、上演台本等が販売されていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 青年団の公式Webサイト内、「東京ノート」のページはこちら。

 もの凄く失礼なことながら、劇場に入って舞台を最初に見たときの印象は、セットを随分とチープに作っているな、だった。
 何というか、パイプやコルクっぽい板を使ったベンチ、トタンのようなビニルの板(名前が分からない)を使ったセットは多分狙いで、その狙いの一つは「どこででも上演できる」ということかなと思う。
 私が今回見たのはオリジナルバージョンで、オリジナルバージョンの前には7カ国語が飛び交うインターナショナルバージョンが上演されていたのではなかったろうか。

 私の中で「東京ノート」はとにかく事前情報だけたくさん入っていて、でも今まで一度も見たことがなかったという芝居である。
 今まで見たことがなかった理由の一つが、何となく駒場アゴラ劇場の敷居が高かったということがある。全く以て私の勝手な思い込みというかイメージだけれども、何となく駒場アゴラ劇場は小劇場演劇に造詣が深い人しか行っちゃいけない劇場、というイメージだったのだ。
 一体、どういう経緯でこんなイメージを自分が持つようになったのか、全く覚えていない。謎である。

 そんな訳で「東京ノート」も、その他の青年団の芝居も見たことがなくて、平田オリザ作・演出作品も「その河をこえて、五月」しか見たことがなかった。
 それでも「東京ノート」は見なくっちゃという感じがずっとしていて、今回、初めて見られたのが嬉しい。

 「東京ノート」についての私の持っていた(間違っている可能性も割とある)事前情報は、「役者さんたちが同時多発的にあちこちでしゃべる。それは、日常でも同時多発的に会話が生まれているからである」ということ、美術館が舞台であること、戦争のために海外から絵画が避難してきているという時代背景のお芝居であること、そこに「祝祭」はないこと、小津安二郎監督の「東京物語」がモチーフに使われていること、などなどである。

 一言で言うと、ほぼこの通りだったと思う。
 そこは美術館のロビーのような場所で、ベンチが置かれ、ミュージアムショップと資料提供を兼ねたような棚があり、近くにお手洗いや自動販売機があって、展示室への出入りも自由である。多少のおしゃべりは許される。美術館の職員にとっては、応接室も兼ねているようだ。
 つまり、開いた場所である。

 ヨーロッパでは戦争が起きていて、戦火を避けて美術品が(比較的安全であろうと判断されたらしい)アジア各国に避難してきており、日本にも多くの作品が来ているようだ。
 この美術館にも74点(だったような)の美術品が来ており、その中にはフェルメールの作品も含まれている。
 真珠の耳飾りの少女を表紙にした本が何冊か並べられていて、この作品で「フェルメール」はかなり重要な登場人物だ。

 そこへ色々な人がやってきては去って行く。
 一人で両親の面倒を見ている姉が上京してきており、その弟のお嫁さんが彼女に1日付き合い、これから兄弟全員が集まって食事会が開かれるようだ。
 この「弟のお嫁さん」を藤谷みきが演じていて、もの凄く久しぶりに拝見して嬉しかった。
 この芝居の全体を流れるぎくしゃくした感じというか、滑らかでない緊張感は割と彼女から醸し出されていたのではないかと思う。
 彼女は夫から「別に好きな人がいる」と言われており、3歳の息子がいる。

 ほとんど会ったこともなかった父親の遺品である美術品を全部この美術館に寄付しようというお嬢さんと代理人である弁護士と彼女の友人である某有名画家の息子とか、彼らを接待している学芸員とか、卒論のために絵を見に来た大学生とその友人と高校の時の家庭教師だった男性とか、その男性と一緒に来ている友人だか恋人だかよく分からない感じの女性とか、美術館の職員と一緒に反戦活動を行っていた若い男とその婚約者とか、とにかく色々な人がやってきて勝手にあっちとこっちで話しては去って行く。
 たまに、その会話が交錯したりする。

 事件は起こらない。
 というか、個別の舞台上のグループの中で事件は起きているけれど、それはずっと閉じた世界で起きていて、客席に波及してくることはなく、働きかけてくることもない。
 その割に時々グループ間でやりとりが生まれるのは、彼らの距離が物理的に近すぎるからだと思う。
 そういう会話は、他人がそんなに近くにいるところではしないよ、という会話を結構色々な人がしている。
 その条件で初めてこの舞台は成立していると思う。

 ある男性はヨーロッパの平和維持軍に参加すると決心しているようだし、「弟のお嫁さん」は離婚寸前で気持ちも疲れ切っているし、その弟のお姉さんであるところの女性は本人も意識しないまま両親の介護に疲れているし、大学生の彼女はかつて家庭教師だった男性に「実はあの後、子どもが出来た」と伝えていたし(その後すぐ「嘘」と言っていたけれど、どう見てもその「嘘」という発言が嘘のようだったし)、ここに来ている人たちは結構みな深刻な事情を抱えている。

 でも、事件は起きない。
 事件が起きないのは、多分、誰も「困って」はいないからだ。困っていないから解決しようとしない。だから「事件」にはならない。
 そんな気がする。
 そこには、ただ、淡々として、多かれ少なかれギクシャクした会話だけがある。
 歌ったり踊ったり戦ったりスキップしたり、そういう「祝祭」は存在していない。

 ただ、もの凄く語弊がある言い方だとは思うけれど、この舞台に「祝祭」は存在していると思う。
 この舞台にとっての「祝祭」は、ヨーロッパで行われている戦争なんじゃないかという気がする。

 フェルメールの絵は「日常」を描いているように見せて、実は「日常の中にある、見てもいいかなと思える部分だけ」を描いている、と解説される。
 多分、それはフェルメールの絵の解説であるのと同時に、この舞台そのものの枠組みを語っていたのではないかという気がする。
 そうすると「東京ノート」は、舞台上で語られている内容よりも、枠組みを見せることを主眼に置いた舞台なんだろうか。

 だから、この舞台に分かりやすい「終わり」はない。
 オチはないし、結論もない。
 ただ、泣いたら負けのにらめっこをしていた女性二人だけを舞台に残し、照明が落とされる。それが「幕切れ」である。
 その「枠組み」で考えさせる芝居という意味で新しく、そして新しくあり続ける舞台なのかも知れないと思った。

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