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2020.07.11

「大地 Social Distancing Version」を見る

「大地」
作・演出 三谷幸喜
出演 大泉洋/山本耕史/竜星涼/栗原英雄
    藤井隆/濱田龍臣/小澤雄太/まりゑ
    相島一之/浅野和之/辻萬長
観劇日 2020年7月11日(土曜日)午後0時開演
劇場 パルコ劇場
上演時間 3時間5分(25分の休憩あり)
料金 12000円

 新型コロナウイルス感染症対策で舞台公演の中止が続いていたため、私にとっては、約4ヵ月ぶりの観劇になる。
 パルコ劇場では、入場時の検温、アルコールスプレーを持ったスタッフが待ち構えていて手指の消毒、フライヤーの手渡し中止、住所氏名等の登録のお願い、一つおきに座るような座席配置、休憩を25分にしてお手洗いの混雑緩和、扉(窓かも)を開いての換気等々、徹底した感染防止対策が実施されているという印象を受けた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 パルコ劇場の公式Webサイト内、「大地」のページはこちら。

 三谷幸喜作演出の「大地」は、上演スケジュールを変更し、「Social Distancing Version」と銘打っての公演となっている。
 当初の演出プランは分からないけれども、こちらでは、舞台を井桁に区切ってそれぞれの「四角」にベッド等々を置いて大部屋の中の個人スペースのように設え、役者さんは基本的に自分のスペースにいる、という形になっている。
 なるほど。
 しかし、そのことによる違和感はほとんど感じなかった。流石である。

 舞台はどこかの一党独裁体制が敷かれている国の、収容所だ。
 いくつかの棟があって、いわゆる「政治犯」が収容されているらしい。
 舞台となる棟では、役者達が集められている。舞台に立つこと、ひいては演じるということ自体が禁じられているらしい。

 彼らはずーっと広がる大地にぽつんと建っている小屋に暮らし、豚を飼い、豚の餌となるとうもろこしを畑で育てている。
 大泉洋演じる、役者をやりつつもほとんど役がつかないため小道具係その他の裏方として働くことの多いチャペックという男がここでも「裏方」として動いていて、栗原英雄演じる棟を管理している軍人ホデクとの折衝を担当したり、学級委員長風にハマっている。

 辻萬長演じる劇団を主宰している大物俳優で「座長」と呼ばれている男バチェクや、相島一之演じる演出もやっていた理想論の塊みたいなツルハという男、浅野和之演じる世界に通じるパントマイマーのプルーハ、竜星涼演じる女形の男ツベルチェク、藤井隆演じる支配者のものまねが上手くできすぎて捕まった大道芸人ピンカスら、個性溢れる男達が日々過ごしている。
 濱田龍臣演じる大学で演劇を学んでいるミミンコが狂言回しを務め、話は、山本耕史演じる売れっ子映画俳優ブロツキーがやってくるところから始まる。

 狭くて濃い人間関係がそこにはある訳で、集まっているのが役者であろうがそうでなかろうが、何ごともない筈がない。
 ピンカスなんて文句を言い通しだし、「働きがいい、悪い」で言い争いになることもある。
 それまでの「役者としての格」みたいなものがこの狭い社会に持ち込まれたり、収容所という狭い社会特有の「使えるか使えないか」という物差しがモノを言う場面もある。
 そこにいくつもの物差しがあり得るところが混乱の元だ。
 そして、そこに「俳優としての価値」みたいなものを持ってきたところが「大地」という芝居のポイントだと思う。

 しかも、ホデクが実は演劇好きで、演劇論を戦わせるのも好きで、ついでに自分も役者や台本執筆や演出をやってみたいと思っていたという人で、他の棟では「支配者の一生」みたいなお勉強をしている時間に、ホデクが脚色・演出・主演を務める舞台「ウインザーの陽気な兵隊さん」などという芝居の練習をすることになったりする。
 もちろん、ホデクは「プロ」である彼らから見たらとんでもなく「できない」人な訳だけれど、その台本や演技に文句を言いつつも、口を出したり出演したり突っ込みを入れたりしている彼らは楽しそうである。

 「性」という奴だ。
 誰かが台詞で言っていたけれど、そこに覚えるべき台詞があれば覚える。加えて、そこに演じられる「場」があるのならどんな「場」であっても演じるのが役者なのだ、多分。

 楽しいことばかり起こる訳もなく、小澤雄太演じる政府から派遣されてきている「偉い人」ドランスキーがツベルチェクを差し出すように言ってきて、それを差配したのはチャペックだったし、そのチャペックは「ここでなら自分は”求められている”人間だから出て行くことはしない」と言い切ったりする。
 ブロツキーは格好いいことを言いつつも、行動力はゼロだし、そもそも「行動しよう」とすら思っていなかったようにも見える。

 そんな彼らが、ミミンコと同じ収容所に収容されているまりゑ演じるズデンガをこっそりドランスキーの部屋で逢い引きさせてやろうと企み、ドランスキーを収容所の彼らの部屋に引き留めようと様々に騙すシーンは可笑しいにもほどがある。
 いえ、絶対に無理ですね、普通の人は騙されませんね、と冷静に思いつつ、大の大人が本気かつ全力で演じることを楽しんでいるシーンは楽しい。というか、馬鹿馬鹿しい。そして愛おしい。
 ミミンコとズデンガの間でも、実は瑞々しい俳優論が戦わせられるのだけれど、そこはもう「可愛い」でいいことにしたい。

 しかし、楽しい時間の代償はすぐに求められ、彼らの企みがドランスキーにあっさりとバレ、ドランスキーは姑息かつ性格が悪いことに「この中の一人だけを谷間に送ることで許してやる。誰を送るのかは自分たちで決めろ。」と言う。
 ここでは「谷間に行く」ということは「死にに行く」ということと同義だと考えられている。
 その中で「自分が行く」と言う者あり、止める者あり、くじ引きで決めようと言う者あり、くじ引きの準備をする者ありで、なかなか決まらない。当たり前だ。

 時間のない中、誰かが「ホデクに決めてもらおう」と言い出し、そのホデクは「俳優として価値がない」ことを理由にチャペックを指名する。
 収容所という場での自分の価値と働きを信じていたチャペックにとっては青天の霹靂だ。
 かつ、今までは誰かが必ず言っていた「おまえは行かなくていい」という言葉が誰の口からも出ない。
 自分たちの「悪事」をドランスキーに告げ口することで湿布を手にしたプルーハに対し、チャペック以外の人間が責めることさえしなかったにも関わらずだ。
 そして、チャペックは大笑いしながら「役者として価値がないために死にに行くことになるとは」というような言葉を絞り出し、「絶対に生き抜いてやる」と言って出て行く。

 何てストレートなんだ。

 チャペックを差し出したことには敢えて触れず、再びホデク指導の下で公演の稽古を始めようとしたとき、座長が「我々は大切なものを失ってしまった。それは”観客”だ。」と言い、いつもチャペックが座っていた箱がスポットに浮かび上がる。
 ミミンコが語るには、その後、座長は演じようとしなくなってしまったという。
 座長が演じようとしなければ他の面々も追随し、ここでは二度と誰かが何かを演じることはなかったという。

 数年後、政治体制が変わり、彼らは解放される。
 ミミンコは小さな劇団で役者を続けている。
 ブロツキーは映画俳優を続けている。しかし、それまで演じていたような「ヒーロー」を演じることはない。
 他の面々が舞台に戻ることはない。
 チャペックは消息不明だ。

 ラストシーンは、チャペックが夢見、そして実現しなかった「未来」だ。
 ここに集まった面々が劇団をつくり、大八車を引いて地方を回っているようだ。
 みな、楽しそうに歩いている。そして、喧嘩している。

 うわっ、ひねりがない。
 幕が下りた瞬間にはそう思った。チャペックがもう一癖も二癖もあるとか、裏の顔があるとか、何かあると思い込んでいたので尚更である。我ながら勝手だ。
 でも、多分、この芝居はストレートだからいいのだと思う。

 役者でない私には分からない機微や思いや葛藤や争いやその他色々なことが、たくさんある。
 舞台の上で繰り広げられていた世界にもあるし、その舞台を作り上げている場所にもある。
 それでも彼らは、少なくとも「ドランスキーを騙す芝居」を上演したことを悔いてはいない。

 4ヵ月振りに見た最初の芝居が「大地」で良かった。

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