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2020.08.29

「ボーイズ・イン・ザ・バンド -真夜中のパーティー-」を見る

「ボーイズ・イン・ザ・バンド -真夜中のパーティー-」
原作 マート・クローリー
脚本 演出・上演台本 白井晃
出演 安田顕/馬場徹/川久保拓司
    富田健太郎/浅利陽介/太田基裕
    渡部豪太/大谷亮平/鈴木浩介
観劇日 2020年8月28日(金曜日)午後1時30分開演
劇場 なかのゼロ 大ホール
上演時間 2時間10分
料金 12000円

 私が覚えている限りでも以下のとおり万全の感染創対策を施しての上演だった。

 半券に氏名と連絡先電話番号記入
 半券のもぎりは各自
 入口でサーモカメラによる体温測定
 入口で手指の消毒
 会場各所に消毒液の配置
 フライヤーの配布なし
 観客は一席置きの配置
 スタッフのマスクやフェイスシールド装着
 前列の観客にフェイスシールド配付

 ネタバレありの感想は以下に。

 「ボーイズ・イン・ザ・バンド -真夜中のパーティー-」の公式Webサイトはこちら。

 舞台はもの凄くスタイリッシュな感じのアパートメントで、場所はニューヨークらしい。
 ロフトになっていて2階はベッドルームとバスルームというプライベートなスペース、1階はリビングとキッチンがあるようで、リビングにはバーカウンターまで設置されている。
 窓の外には摩天楼が見える。

 なのに、電話はダイヤル式である。
 プッシュホンではなくダイヤル式である。もの凄くちぐはぐな感じがする。
 ついでに書くと、音楽を鳴らすのはどうやらレコードプレーヤーのようだ。ステレオですらなかったような気がする。
 ダイヤル式電話機の頃から、「スタイリッシュな部屋」のイメージは変わらないんだろうか。
 そして、この芝居の舞台は、30年とか40年とか前のことであるらしい。

 ただ、ダイヤル式の電話とレコードプレーヤー以外に「時代」を感じさせるものはない。
 この舞台で描こうとしていることは、普遍的なことであるし、「世界」はダイヤル式電話の頃からあまり進歩も解決も改善もされていないということなんだと思う。
 全体の流れからしてスマホがなくても舞台の筋にはほぼ影響なかったと思うので、時代を特定しなかったり、今に置き換えることもそれほど苦はなかった筈である。それでも時代を感じさせる小道具を置いたのは、そのことを伝えたかったからなんじゃないかと感じた。

 安田顕演じるマイケルの家で、マイケルの友人である鈴木浩介演じるハロルドのバースデーパーティを開催したある一夜の物語である。
 ワンシチュエーションで、時間の飛びもない。真っ向勝負の会話劇だ。
 最初のうちは、登場人物達(特にしゃべり方)に馴染めていなかったし、もの凄く早口で会話が交わされるし、ホールの反響が良すぎてエコーがかかったように聞こえたこともあって、全く付いて行けなかった。
 不安を紛らわせるように訳の分からないことをしゃべり続けている男がいるな、ふーん、という感じだった。

 マイケルもハロルドも、パーティの集う男達もみなゲイであることは幕開け直後に知らされる。
 楽しく馬鹿騒ぎをして友人の誕生日を祝おうとしていたところ、マイケルがゲイだとは知らない、大谷亮平演じるマイケルの大学時代の友人アランから「今から会いたい」という電話がかかってくる。マイケルが「少しの時間だから、昔の友人が来ている間はゲイだと分からないようにしてくれ」と頼むけれど、そうやって頼んだことから既にぎこちない空気が流れ始めている。
 浅利陽介演じるそういうことに我慢ならないモーリーが、「分かるように」振る舞ったことから、アランが「気分が悪い」と言い出し、吐いてしまう。

 この辺りは、大げさだな、自分がゲイであることを隠すためのアランの芝居か? と思ったりしたけど、最後まで見終わっても「回答」は示されなかった。
 そういう芝居ではないらしい。
 全体的にゲイに拒否反応を示したアランが、川久保拓司演じるハンクにだけは(彼がゲイだと分かっても)気を許していたのは、彼が結婚しているからなのか、真面目そうな外見のためなのか。

 キーパースンはアランのように見えたけれども、果たして本当にそうなのか、台詞の一つ一つが、謎めいているといえば謎めいているし、「分かる人に(というか特定の誰かに)伝わればいい」と登場人物達がそれぞれ割り切っているのか、どういうこと? と付いていけてないことも多かったけれど、これが何故か舞台だとちゃんと見続けることができる。
 不思議だ。

 マイケルが「告白ゲームをやる」と断固として言い出し、その場にいる全員に「人生で一番愛する人に電話をかけて愛していると言え」と命じる。
 もはや狂気がかっていて、嫌がる者も当然いるし拒否する者もいる。
 一方で、ほとんど自棄のように「自分がやる」とほとんど破壊衝動のごとく電話をかける者も出てきて、不穏な空気は最高潮だ。

 マイケルの目的は、アランに「ゲイである」と認めさせることだったようだ。
 そして、アランが電話をかけ、愛を告白した直後、マイケルはほとんど勝利宣言のようにその受話器を取り上げ相手に話しかける。
 マイケルは、大学時代の共通の友人であるジャスティンが相手だと信じ切っていたけれど、電話の相手はアランの妻だった。マイケルは慌てて取り繕い、「全て見届けた」とばかりに集まった男たちは三々五々帰り始める。

 ここで、人間関係が壊れた感じは受けない。
 マイケルのやったことは悪趣味極まりないけれど、ここに集まった男達はそれぞれ意味があると思っていたり、仕方がないなと思っていたり、これは自分たちの業だと思ったりしているように見える。
 それが証拠に、ハロルドは「また連絡する」と、関係を切らないことをわざわざ宣言してから帰って行く。

 「何てことをしてしまったんだ」と体中を震わせながらマイケルは嘆き続ける。
 その様子は「慟哭」という言葉のままだ。
 そんな風に嘆いたことなんてないにも関わらず、その後悔は身に覚えがあるような気がして、何だかいたたまれない気持ちになった。

 マイケルは、深夜に行われているミサに行くと言って部屋を出て行く。
 部屋には、マイケルの恋人であるドナルドがソファに寝転んで本を読み(でも、そのうち自宅に帰るらしい)、先ほどの告白ゲームで愛を告白し合ったハンクとラリーがマイケルの寝室にいる。
 部屋を出て行くマイケルが、この後、自殺してしまうんじゃないかと思ったけど、そこが語られることはない。「マイケルがミサに行くと言って部屋を出た」ところで舞台は幕である。

 言葉にして語れるような「理解」はできなかったと思う。
 でも、何かが迫ってきていたと思う。
 それが舞台だよ、と思った。

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コメント

 にっきー様、コメントありがとうございます。

 にっきーさんは映画をご覧になっているのですね。
 合衆国の役者さんが演じる「ボーイズインザバンド」は、日本版とは違った示唆があり、魅力があるのだろうなぁと思います。

 語学に難がありすぎて、字幕等があっても外国語の映画や演劇になかなか出かけないので(食わず嫌いとも言いますが)、併せて楽しめ味わえるということは羨ましいです。

 またどうぞ遊びにいらしてくださいませ。

投稿: 姫林檎 | 2020.10.24 17:33

ご挨拶もなしに思わずコメントしていまい、失礼いたしました。舞台を御覧になれたのがほんとうに羨ましいです。昔々多感な頃(ハハ)フリードキンの映画を見て衝撃を受け、その後初めての日本版の舞台を拝見。字幕版の怒涛の会話劇が日本語になるとこうなるんだ...と再びの衝撃でした。今回の舞台は断念しましたが、せめて50年ぶりのNYリバイバル上演の映画版を見てみようかと思っております。

投稿: にっきー | 2020.10.19 23:04

 にっきー様、コメントありがとうございます。

 そして、ご指摘ありがとうございます。
 早速、修正させていただきました。
 どうしてこんな間違いをしたものか、お恥ずかしい限りです・・・。

投稿: 姫林檎 | 2020.10.19 05:15

原作は1968年のマート・クロウリーの戯曲です(舞台は1968年のNYC)。もちろんミュージカルでもアンドリュー・ロイド=ウェバーの作品でもありません。

投稿: にっきー | 2020.10.18 23:15

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