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2020.10.23

「生きる」を見る

ミュージカル「生きる」
作曲&編曲 ジェイソン・ハウランド
脚本&歌詞 高橋知伽江
演出 宮本亞門
出演 鹿賀丈史/村井良大/新納慎也/山西惇
    May’n/唯月ふうか 他
観劇日 2020年10月23日(金曜日)午後1時30分開演
劇場 日生劇場
上演時間 2時間25分(25分館の休憩あり)
料金  13500円

 劇場や演目によって少しずつ異なりつつ、感染症対策が施された上で上演されている。

 ネタバレありの感想は以下に。

 ミュージカル「生きる」の公式Webサイトはこちら。

 原作といえばいいのか、元は黒澤明監督の映画「生きる」で、ミュージカル化した舞台だそうだ。
 観劇の直前に公式サイトを見て、そういえばそうだった、と思い出した。
 もっとも、情報として知っていただけで、映画は未見である。
 昭和27年のとある市役所を舞台とした話だということも、やはり観劇直前に公式サイトを見て思い出した、というか、知った。

 男手一つで息子を育て、市役所の市民課課長として無遅刻無欠勤無気力に過ごしていた渡辺勘治という定年直前の男が主人公である。
 彼とひょんなことで出会った、新納慎也演じる小説家が狂言回しを務める。
 鹿賀丈史演じる渡辺は、ホントに無気力かつ品行方正に暮らしている。
 彼が課長を務める市民課の職員一同も無気力かつ適当に日々を過ごしているようだ。ステレオタイプ過ぎないか、もしかして「お役所仕事」という言葉はこの映画から生まれたんじゃないかとか思うくらいの典型さ加減だ。

 昭和27年が舞台だからか、女性の登場人物がとても少ない。
 実際は、息子の嫁、市民課職員でおもちゃ工場に転職する女性職員、下水だまりを公園にしてもらいたいと陳情に訪れる女将さん達、キャバレー(だと思う)の踊り子達と女性はたくさん舞台に登場しているのに、何故か「女性が少ない」と感じる。
 どうしてだろうと考えてみて、歌のシーンの多くが男性が歌っていたからじゃないかという気がした。
 実際、物語を動かす立場にいる登場人物たちは、元市民課職員の若い女性「とよ」以外はみな男性だ。

 昭和27年、市役所という場所も男社会そのものだったんですね、と思う。
 ともかく、その渡辺課長が、胃が痛むので病院にかかったところ、医者ははっきり言わないものの自分は胃癌で余命幾ばくもないと信じ込む。事実としてもその通りという設定だけれど、事実確認もせずに待合ですれ違っただけの男の言うことを信じるってダメすぎでしょ、と思う。
 そして、5万円(当時のお金でいえばかなりの大金の筈だ)で遊びまくろうとするなんて、うかつにもほどがあると思う。

 そういう感じで、設定やストーリーとしてはかなり引っかかるところが多かった。むしろ、引っかかり続けたという方が実際に近い。
 渡辺課長は、居酒屋で知り合った小説家に連れ回されて遊びまくろうとして果たせず、工場に転職した元部下の若い女性と映画だ食事だと浮かれて町中の噂になり、しかしその若い女性から最後通牒を突きつけられたときに自分にもできることがあるじゃないか、作ればいいじゃないか、自分の命はまだ終わった訳じゃない、と公園作りを果たそうと動き始める。

 この渡辺課長の動きを阻止すべく、ヤクザっぽいおじさん達と癒着している市役所助役とか、ことなかれ主義で市民の要望を次々たらい回しにする課長たちが暗躍する。
 これまた、ステレオタイプだと思う。
 さらに、遊び回っている父親を見て「若い女にうつつを抜かして」とか「若い女に騙されて」と思い込んだ息子は、病を打ち明けようとした父親の話を全く聞こうとせず、逆に珍しく話を聞こうとして邪険にされると「俺の何が悪いんだ」と歌い出す。
 いや、アンタ、かなりダメダメだから、と思う。

 渡辺課長の「公園」計画はなかなか進行しない。
 課内でも味方は一番の若手一人しかおらず、市議会議員選挙に打って出ようという助役も、関係する総務課や下水課の課長達も助役におもねって非協力的だ。
 公園を作るために市役所で働き続けたい、息子に病を打ち明けたら入院させられてしまうから公園ができあがったら話す、と語る渡辺課長にほだされて、件の小説家は助役とヤクザが癒着している場面を写真に撮り、助役を脅迫する。
 曰く、「1週間以内に、年内に公園を作ると公言しなければ、この写真を新聞社に売り飛ばす。」

 助役はこの脅迫に屈し、公園計画を発表する。
 陳情に訪れていた女性達も、とよも、「やればできる」的に喜んでいたけれど、ここを正攻法で通さずにどうするんだ、と思う。
 確かに、渡辺課長が公園造成に動き始めた当初から、私は、我ながら悪辣なことながら、助役を脅して強制的に言うことを聞かせればいいじゃないか思っていた。
 しかし、渡辺課長が知らないところでの動きとはいえ、そんな姑息なというか裏のというか汚いというか、そういう手段で渡辺課長の「最後の仕事」を成功させるってどうなの、と思う。
 この物語は、本当に「感動的な」「人間が生きるということを描いた」話なの? これでいいの? と思ってしまった。

 その後も渡辺課長は公園を実際に作るべく奮闘し(しかし、その奮闘の様子は舞台では全く描かれない)、公園の落成記念式典の前日、公園で亡くなってしまう。
 渡辺課長の葬儀の日、助役たちはエラそうにやってきて、公園は自分たちが作ったものだといい、父親の病気のことも公園造成にかけた熱意もその理由も知らない息子は、父親を腐し続ける。
 そこに小説家がやってきて、父子の断絶に憤り、息子に父親の話をしようとするけれど、息子は全く聞こうとしない。

 二人は殴り合い罵り合いながらやってきた公園で、亡くなる直前の渡辺課長の姿を目にする。
 そこで、幕である。
 だから、息子が父親を理解するという場面を、「亡くなった父親の姿を見る」という現実にはあり得ない状況で解決してしまっていいのかと思う。
 何というか、「人間の力」ではないじゃないか、人間はむしろ無力ってことになるじゃないか、と思う。

 何だかひたすら文句ばかり書いているけれど、見ながら涙をぽろぽろ流していたのも本当のことだ。
 こんなに文句ばっかり頭の中に浮かべていたのに同時に泣けていたのは、歌の力だと思う。声量やハーモニーというよりも、感情を乗せた歌声とその歌に乗せられた心情に泣けて困った。

 最後はスタンディングオーベイションだった。

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