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2021.03.17

「ほんとうのハウンド警部」を見る

シス・カンパニー「ほんとうのハウンド警部」
作 トム・ストッパード
翻訳 徐賀世子
演出 小川絵梨子
出演 生田斗真/吉原光夫/趣里/池谷のぶえ
   鈴木浩介/峯村リエ/山崎一
観劇日 2021年3月17日(水曜日) 午後2時開演
劇場 シアターコクーン
料金 12000円
上演時間 1時間15分

 靴裏の消毒、手指の消毒、検温は観劇の際、ほぼセットで実施されているように思う。
 この公演では、座席は一つ置きでの配置だった。
 物販についてはチェックしそびれてしまった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 シス・カンパニーの公式Webサイト内、「ほんとうのハウンド警部」のページはこちら。

 開演前は、舞台セットの奥に鏡らしきものがセットされ、客席を映し出していた。
 既視感と同時に特別感がある仕掛けだと思う。
 紗のように見える幕が上がり、舞台奥に客席が設えられ、舞台手前には舞台セットがあり、舞台奥の客席から舞台手前にある舞台を見ている、という設定のようだ。
 ややこしい。

 客席にいるのは生田斗真演じる劇評家のムーンと、吉原光夫演じる他社の劇評家バートブートである。
 彼らは「劇評」を書くために芝居を観に来ているようだ。
 しかし、彼らの頭の中は、芝居のことではなく、その周辺の雑念で占められている。ムーンは、先輩劇評家とセットのように彼のスペアのように扱われることに激しく不満を抱いているし、バートブートは劇評で褒める代わりに次々と女優と関係を持っている、らしく、今も「狙っている」女優が舞台に出演しているらしい。

 彼らが劇評を書こうという舞台は「誰が殺したのか」を推理させるミステリーらしい。
 自虐ネタに近いのか、しかし、なかなか練られていない感じの舞台という設定のようだ。
 セットの中にピクリとも動かない明らかに様子のおかしい男が倒れているのに、登場人物たちは彼を完全に無視している。
 最初に登場した池谷のぶえ演じる家政婦役の女優が何の脈絡もなく「ここは〜」と説明台詞を語り出し、バートブートは「説明する必要があったんだろ」的な呟きを残す。

 俳優達の演技は一々劇画的である。「ステレオタイプ」という役を演じているようだ。
 鈴木浩介演じるサイモンは、趣郷演じるフェリシティと峯村リエ演じるこの屋敷の女主人シンシアの二股をかけており(というか、話の様子からして次々女性と関係している女たらしのように見える)、その挙動不審さと調子の良さは分かりやすすぎるし、「捨てられた」と理解した後のフェリシティの言動も分かりやすく嫉妬深い。
 この俳優陣がやるからこそ成立している芝居だよ、と思う。

 劇評家二人は、会話とモノローグとをほぼ同じ口調と同じ声の大きさで語っていて、その辺りの境界がどんどんなくなって行くように見える。
 同時に、彼らが見ている舞台がかなり進行し、山崎一演じる「ハウンド警部」が登場したところでやっと、舞台上に倒れていた人間にスポットが当たり、彼が「死んでいた」ことが確定する。
 もちろん、登場人物たちはまるで初めて死体を見たかのように驚いている。

 その「死んでいた」役の役者が、ムーンの先輩劇評家だったらしく、そのことに気づいたバートブートが舞台に飛び出し、いつの間にか舞台の世界に取り込まれて登場人物の一人として、少し前に演じられたシーンを繰り返し始める。
 そして、その筋書きどおり、舞台上で殺されて死んでしまう。
 ムーンは、「戻って来い」と声に出してか出さずにか訴え続けるけれど、バートブートには全く伝わっていないようだ。

 そのバートブートが死んでしまったことでムーンは思わず舞台に飛び出す。
 そして、いつの間にか「ハウンド警部」として周りから扱われ、本人もその気になって「舞台上で起こった二つの殺人事件」の犯人を推理し始め、どんどん興に乗ってきたらしい。ムーンとしては、先輩劇評家が死んでしまったことで自分が独り立ちできると思い調子に乗っているのだ。
 山崎一演じるそれまでは性狷介な老人のようだったマグナスが、突然、理路整然と反論し始める。

 もう誰が犯人でもいいよと思い始めたところで、マグナスが変装を解いて「実は自分はハウンド警部の変装である」と告白し、さらにシンシアの失踪した筈の夫であると告白し、どう見ても「抵抗していない犯人」であるムーンを殺し、この屋敷の「主人」として返り咲く。
 その様子を見たムーンは、マグナスでありハウンド警部でありかつシンシアの夫であるこの男が、自分の失脚を待ち望んでいた後輩劇評家であることに気づいて「おまえだったのか」だったか「上手くやったな」だったか、そんな感じの呟きを残して息絶える瞬間に暗転し、舞台は幕である。

 不条理劇といえば不条理劇だし、入れ子構造になった複雑な芝居といえばそうだし、現実と舞台上の世界がどんどん混じり合って行くのを舞台の客席から見るというシュールな体験ができるといえばそうである。
 多分、舞台とかステレオタイプとか戯曲の拙さとか劇評といったものへの風刺あるいは抗議の意思表明のようなものも含んだ戯曲なのだと思う。それを芸達者な役者陣が笑いに包み、仕上げをご覧じろ、と差し出されている感じがする。

 見ている私の調子が悪かったのかも知れないけれど、客席でその仕掛けに上手く乗れない自分がいた。
 どうしてなのかは、正直、よく分からない。
 でも、この仕掛けが舞台だからこそ成立する仕掛けなのも分かる。
 舞台って本当に無限だ、と思った。

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