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2021.03.09

「画狂人北斎 令和三年版」を見る

「画狂人北斎 令和三年版」
脚本 池谷雅夫
演出 宮本亜門
出演 升毅/黒谷友香/陳内将
    津村知与支/水谷あつし/平野良
観劇日 2021年3月9日(火曜日) 午後2時開演
劇場 新国立劇場小劇場
料金 9500円
上演時間 1時間45分

 ロビーの物販はチェックしそびれてしまった。

 上演中、通路を挟んで左前方の席にいた女性が何度もスマホの電源を入れて見入っており、それが非常に気になった。失礼だし、御法度だと思う。

 ネタバレありの感想は以下に。

 「画狂人北斎」の公式Webサイトはこちら。

 見始める前は「初めて見る」と思っていたけれど、最初のシーンで「あれ、このお芝居は観たことがある」と思い直した。
 実際、2019年に見ている(そのときの感想はこちら)。
 2年前のことをほぼ完全に忘れている己の記憶力に愕然とした。酷すぎる。

 「令和三年版」とわざわざ銘打っている所以は、現代と北斎の時代を行ったり来たりするこのお芝居で、現代の方の登場人物のマスクに象徴されるのだろうと思う。
 若干、その更新は必要だったのか、と思う。

 「講演会のためにどこかの美術館を訪れた」という設定の登場時こそマスクをしていたけれど、その後、先輩と後輩であるところの二人が会うシーンでマスクが登場することはなかった。
 「マスクを取ったら白い目で見られますよ」と言う後輩に「ここは公園だし他に人はいない」と先輩が返すシーンをぜひ入れたかったのかしらと思い、無理して入れることはなかったんじゃないかとも思う。
 折角訴えるならもう少しスマートな方がいいなぁというのが贅沢な希望である。

 東日本大震災で姉を亡くした絵描きの卵である後輩と、日本画家として英才教育を受けたものの身につかず北斎研究者になった先輩とのやりとりが現代版の枠組みである。
 なかなか無神経な感じに自説や励ましを押しつける先輩と、10年前の衝撃からまだ立ち直れない後輩とのやりとりはかなり歯がゆい。
 先輩の造形がかなりデフォルメされている分(でも、こういう人は恐らくたくさんいるだろうと思う)、後輩を応援したくなる。

 北斎の時代は、かなり晩年の北斎と娘のお栄の家が主な舞台である。
 ひたすら描き続けようとする北斎、何にでも好奇心を働かせる北斎、でたらめな孫・時太郎をどうしても突き放せない北斎、風刺ものの戯作で組んでいた種彦とお栄が抱き合っているところを見て寂しそうに「それでいい」と呟く北斎、その種彦がご禁制に引っかかってしょっ引かれたと聞いて小布施に逃げ出した北斎、高井鴻山の家に身を寄せて解剖を見る北斎、ずっと感じていた「目」を鳳凰の目として再び描き始めた北斎が描かれる。

 升毅の北斎が本当に70代とか80代の老人に化けていて、配役を見ていなかったら多分気づかなかったと思う。
 絵に執着しつつ、そのためにはご禁制の品に手を出したりシーボルトに会ったりしつつ、この北斎はちょっと敬虔な北斎だと思う。意外と神仏への帰依が深い人というイメージに見えた。
 実際の北斎はどんな人だったんだろうなぁと思う。

 お栄は伝法で強気な女性に描かれていると思う。かつ、腕のいい絵師というところは動かないようだ。
 「お嬢ではやっていられなかったろう、あの父親とずっと一緒にいたんだし。」というところだろうか。
 でも、実際の彼女がどんな女性だったのか知る人はいる筈もなく、どんな人物としてもいい筈で(いや、作品から読み取れることがたくさんあるのだとは思うけれども)、一度作られたあるイメージからなかなか(創作の中で)抜け出せないものなんだなぁと思う。

 本人達は、自分の描いた絵が残ることは想定していたかも知れないけれど、自分という人間が創作の中でこう何度も取り上げられるとは思っていなかっただろうなぁと考えたりした。
 北斎という強烈な人物がいるのだからそこに集中して描いても良かったんじゃないかと思う一方で、この芝居は東日本大震災を描きたいというところから始まったのかも知れないとも思う。
 贅沢を言うと、どうしても現代の先輩後輩のやりとりが説明的になっているように感じられ、「画狂人 北斎」の芝居としては物足りなさを感じてしまった。

 でも、やっぱり舞台はいい。
 そう思った。

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