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2021.06.05

「アカシアの雨が降る時」を見る

「アカシアの雨が降る時」
作・演出 鴻上尚史
出演 久野綾希子/前田隆太朗/松村武
観劇日 2021年6月4日(水曜日) 午後7時開演
劇場 六本木トリコロールシアター
料金 6800円
上演時間 2時間5分

 終演後にリピーターチケットの販売が行われていたのみで、その他の物販はなかったように思う。

 ネタバレありの感想は以下に。

 サードステージの公式Webサイト内「アカシアの雨が降る時」のページはこちら。

 六本木トリコロールシアターに行ったのは初めてだったかも知れない。
 芋洗坂を下っていって、思っていたよりも遠くて「道が違ったかも」とちょっとどきどきしてしまった。
 1階は喫茶店かな? という感じの造りで2階に劇場がある。俳優座劇場とちょっと似た感じかも知れない。

 客席数200くらいの劇場で、最前列は使わず、客席は一つ置きになるように調整されていた。
 私の席は前から2番目のほぼど真ん中で、ちょっと見上げる感じになる。こんなに舞台が近い席に座るのは久しぶりだ。2日前に劇場に行っているとはいえ、体感としては「久々の観劇」で、ちょっと緊張する。

 「アカシアの雨が降る時」というタイトルは、「アカシアの雨がやむとき」から採られていることは間違いない。劇中でも「アカシアの雨がやむとき」が流され歌われている。
 高野悦子の「二十歳の原点」が劇中で朗読され、映像でその文章が映し出される。
 久野綾希子演じる「香寿美」ちゃんは、アルツハイマー型認知症で自分を20歳だと思っており、20歳という記憶の中で生きている。彼女が20歳だったのは今から49年前の1972年で、彼女は「村雨橋」での戦車阻止行動に参加しようとしている。

 松村武演じる、彼女の息子の「桜庭」はいわゆる「モーレツ社員」である。「24時間戦えますか」より少し前の頃なんだなぁと思う。桜庭は、どうやら離婚した妻や息子、彼自身の母親ともずっと疎遠にして来ており、「会社命」という感じで営業に走り回っている人物のようだ。
 1972年、そういうおじさん達が多そうな時代である。

 前田隆太朗演じる、桜庭の息子である「陸」は20歳の大学生で、おばあちゃんである「香寿美」ちゃんとずっと交流を保ってきたらしい。今時の若者である。そして、「自分がおばあちゃんと暮らす」と言い出す。
 そして、その陸を、香寿美ちゃんは自分の恋人である「ケンジロウ」さんだと思っている。フクザツだ。

 この(というかさらに)複雑な人間関係を3人で説明して演じるのは難しいようで、映像で、桜庭の別れた妻や、米国で暮らしているサクラバの妹、桜庭の取引先の社長らが登場する。
 役柄としてはだいぶ痛い感じの女性だったけれども、この別れた妻を長野里美が演じていたのがちょっと嬉しい。

 一言で乱暴にまとめると、この3人を含む家族はかなり色々と問題を抱えていて、意思疎通がほぼ図れていない。可愛らしいお祖母ちゃんである「香寿美」ちゃんも例外ではなく、問題を抱えているし恐らく与えてもきている。
 けれども、20歳になった「香寿美」ちゃんは純粋で可愛らしい。
 1972年に流行っていただろうギャグを連発するお茶目さもあり、ベトナムに戦車を送ってはいけないと考え行動しようという力もある。「二十歳の原点」を読み、恋人であるケンジロウに何度も「ケンジロウさん、こういうの嫌いよね」と繰り返す健気さもある。

 私の印象ではここ10年以上鴻上尚史が舞台上で拘ってきている、安保闘争だったり、その時代だったり、といったテーマに今回も真っ向勝負で挑んでいる。
 同時に、認知症の問題も取り入れている。
 それらを包括しているのは、多分「家族」の問題だ。
 家族による圧迫だったり圧力だったり、「家族によって歪められる人生」ではなく、自分の意思で選ぶ人生を取り戻せ! というようなメッセージが繰り返されているように思う。

 桜庭は香寿美ちゃんの母親としての愛情が重いと何度も吐露していたけれど、観客である私はこのストレートさが重かった。重いというか、辛い。
 その重さだったり辛さだったりを緩和してくれているのが、繰り返される古いギャグや、久野綾希子の可愛らしい笑顔と彼女の歌声だと思う。前田隆太朗とのデュエットも綺麗なハーモニーを聴かせてくれた。

 しかし、「古いギャグ」を私はほぼ分かったけれど、本当に今の20歳は「何のこっちゃ」という感じなんだろうか。ジェネレーションギャップというものは確実にあるなぁ、でも「分からない」と首をひねる陸を笑えるのは私と同世代以上なんじゃないかなぁとも思う。
 難しい。

 難しいといえば、このお芝居はどうやって終わるんだろうと見ながらずっと思っていた。
 桜庭はリストラされそうになっているし、陸は母親の「憧れていた」と繰り返される台詞に負けて彼女が望んだ大学に入学したものの何をすればいいか分からなくなっている。香寿美ちゃんの認知症は進行を遅らせることはできても治療することはできない。
 どちらを向いてもカタルシスが得られるような終わり方をしたら相当に嘘っぽい。

 だから、何となく和解の気配が見えてきた矢先に香寿美ちゃんが倒れ、入院した病院で脳梗塞の診断を受けて意識を取り戻すことはないと言われたとき、それはないでしょう! と思ったのも本当だ。
 何というか、その終わり方はずるい。
 そして、ベッドに横たわる香寿美ちゃんの横で、桜庭は子会社への係長としての出向を命じられて退職を決め、陸は大学を休学して自分のやりたいことを探すと宣言する。そして、二人で声を揃えて「二十歳の原点」の最後の日に書かれた詩を、香寿美ちゃんに聴かせるべく朗読する。
 幕である。

 家族の問題も、「会社人間」であることの問題も、「いかにして生きるべきか」という若者の思いも、そう簡単には解決しない。
 20歳の香寿美ちゃんは可愛らしかったし、いい人だったけれど、多分、家族を愛情で縛る人でもあったのだと思う。そういう彼女の問題は舞台上で顕在化することもなく強制終了されてしまう。
 でも、というお芝居だったなぁと思った。
 「でも、」の続きは、追々、考えようと思う。

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