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2021.07.10

「フェイクスピア」を見る

NODA・MAP第24回公演「フェイクスピア」
作・演出 野田秀樹
出演 高橋一生/川平慈英/伊原剛志/前田敦子
    村岡希美/白石加代子/野田秀樹/橋爪功 ほか
観劇日 2021年7月9日(金曜日) 午後7時開演
劇場 東京芸術劇場中劇場
料金 12000円
上演時間 2時間5分

 ロビーではパンフレットと戯曲が掲載されている月刊新潮7月号が販売されていた。
 入口での手指消毒と検温、個人情報の登録、分散退場(規制退場という言い方よりもいいと思う)等の新アタコロナウイルス感染症対策が実施されていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 NODA MAPの公式Webサイト内「フェイクスピア」のページはこちら。

 物語の始まりは、白石加代子である。

 多分、彼女が「白石加代子です」と名乗るところから始まったと思う。

 「白石加代子が女優になる前に恐山でイタコ見習いをしていた」「その話を聞いた野田さんが、自分が50年間イタコ見習いをしていたらという発想からこの舞台が生まれた」と語る。
 多分、この舞台の一番の”フェイク”はここかしらと思う。

 むしろ、”フェイク”はここにしかなかったのかも知れない。

 いや、幕開けはもしかしたら森の中で大木が倒れたシーンだったかも知れない。

 劇中で「烏」も演じる10人以上の役者たちが、大木となり、倒れる様子を表す。
 
そして、倒れる音を誰も聞いていないということは、倒れる音はなかったんじゃないかと「神」としての高橋一生が語る。

 同時に、聞かれることのない「ことのは」にも存在意義はないんじゃないかと語る。

 イタコ見習いの彼女が、翌日の試験に合格すべく、何故か18時56分28秒という「半端な時間」にダブルブッキングしてしまった口寄せを希望する客を相手に何度も憑依を試みる。

 橋爪功演じる年配の男性「たの」は彼女の高校時代の同級生らしい。若者(でいいのか)の「もの」はティッシュケースくらいの金属製の疲れた箱を手に持ち、二人とも「何をしたいのか」がよく分かっていない様子だ。

 そして、その分かっていない感じのまま、二人はシェイクスピアの四大悲劇の登場人物たちを次々と「憑依」させては倒れることを繰り返す。

 「人間が神から盗んだことのは」を永遠と36年間探し続けている伊原剛志と川平慈英演じる「神の使い」や、何故か1回だけ前田敦子が演じてその後は白石加代子が演じていた「イタコ見習いの女に憑依した伝説のイタコの女」や、村岡希美演じる「イタコ見習いの女の先輩イタコ」が現れ、烏が現れ、恐山で「たの」と高橋一生演じる「もの」と二人の記憶が、死者の夢に触れて目覚める度に少しずつ戻ってくるのと同時に、見ている我々にも舞台の上で何が起ころうとしているのか、そのヒントが渡されて行く。
 例えば、「もの」ももう死んでいたのか! とか、そういうことだ。

 ・・・と少しずつ見えてきたことを書き続けることはできると思うけれど、この「フェイクスピア」については、それはいいかなという気がする。
 野田秀樹がシェイクスピアを演じていたのも、まぁいいか、と思う。
 フェイクスピアはシェイクスピアの息子という設定で、実はシェイクスピアが自分の息子のフリをしていたのだ、などということも、まぁいいかと思う。

 見ているときは、「いつもどおり情報量が多いのにいつもよりテンポがゆっくりに感じられるなぁ」と思っていた。
 あと、ここ何作かのNODA MAPの芝居は、日本の近代史上の大きなテーマを背負って疾走している印象があって、今回のお芝居は違うのかしら、とも思っていた。
 「イメージの奔流」と「ことば遊び」を突き詰めるところに戻ってみたのかなぁ、などと勝手なことも考えていた。

 それから、劇中で「声」について語られていることがあって、勝手に「声がいい役者さんって素晴らしい」と思っている私には、その「声」への注目度が何だか嬉しかった。
 芝居で言葉を伝えているのは主に役者さんの「声」である。ことばが大事だったら声が大事でない筈もない。

 「ことば」「ことのは」「さいごのひとは」、「四大悲劇」「読んだ(い)悲劇」「呼んだ(い)悲劇」、「星の王子様」「飛行機」「フラップ」、繰り返される「頭を上げろ」「頭を下げろ」と叫ぶ声。
 後から思い返せばヒントの大盤振る舞いだったのに、私の頭は全く働いていなかった。
 おい、考えることを止めるな、頭を使うことを拒否するな、何でも教えて貰えると思うな自分、という感じだ。
 私が「分かりやすいものが好き」なのは、考えようという意思や力がないからなんじゃないか、と突然思う。

 私は一番最後、舞台上できっぱりはっきりと誤解しようもなく語られるまで、舞台上で何度も繰り返されていた「8月12日18時56分28秒」や「永遠と36年前」という「時」が表すことに気がついていなかった。
 客席の中で最も遅く気がついたくらいだと思う。というか。気がついたのではなく、教えてもらって「そうだったのか!」と思った、というのが正しい。自力でたどり着いた訳ではない。

 自殺しようとしていた息子「たの」の前に、自分の最後の言葉が録音されている「箱」を渡そうと努める父親は、最後にやっと、試験には失敗してしまったイタコ見習いの女の手を借りて、息子にずっと持っていた「箱」と、その中に入っている「ことば」を手渡すことができる。
 そして、幕である。

 見終わったときにまず「もう1回見たい!」と思った。
 隠されていることに気がついていて見るのと、全く気がつかずに見るのとでは、全く違う見え方になるような気がする。
 分かっていて見たかったと思う訳だけれど、早い目に気がついた方には「最後まで気がつかなかった」という見方はもう絶対にできない訳で、そういう意味では(負け惜しみでもありつつ)得をしているかしらと思う。
 舞台を見ることに損得はなく、「その場にいる」ことが最大の得で最大の贅沢だと思いつつ、それでもそんな風に思う。

 しかし、「全く知らない」人もいる筈だ。
 そういう若者たちが最初に見たとき、どういうお芝居だと感じたんだろうと思う。

 終盤の疾走しているようなたたみかけてくるような「箱の中の声」を見せるシーンが圧巻だった。
 見て良かった。

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