「ウェンディ&ピーターパン」を見る
DISCOVER WORLD THEATRE vol.11「ウェンディ&ピーターパン」
作 エラ・ヒクソン(J.M.バリー原作より翻案)
翻訳 目黒条
演出 ジョナサン・マンビィ
美術・衣裳 コリン・リッチモンド
出演 黒木華/中島裕翔/平埜生成/前原滉
富田望生/山崎紘菜/新名基浩/田中穂先
中西南央/下川恭平/本折最強さとし
井上尚/坂本慶介/保土田寛/宮河愛一郎
原田みのる/乾直樹/近藤彩香/浜田純平
渡辺はるか/玉置孝匡/石田ひかり/堤真一
観劇日 2021年8月19日(木曜日) 午後1時開演
劇場 オーチャードホール
料金 12500円
上演時間 3時間(20分の休憩あり)
オーチャードホールでの公演だったのでミュージカルだろうと思ったら違っていた。大いなる勘違いである。
ネタバレありの感想は以下に。
ミュージカルじゃなかったんだ! ということは、流石に開幕直後に気がついた。
それならどうしてオーチャードだったんだろう? という疑問への答えはないながら、この奥行き感のあるセットと宙づりの多用はコクーンシアターでは難しかったのかしらと思う。
ミュージカルじゃないのにオーケストラピットがあって生で音響の音楽が入ってたら凄すぎるけれど、流石にそこまで贅沢なことはしていなかったと思う。
しかし、額縁風に作った舞台セットや、その中で切り替えられるダーリング家の2階やピーターパンの隠れ家、森の中っぽい場所や、フック船長が乗る海賊船など、凝ったセットに映像が組み合わされて、幻想的な舞台が作り出されていた。
フライングのシーンも多く、そうだよね、ピーターパンだもんね、空を飛べなかったら話にならないよね、と思う。
また、ピーターパンを演じた中島裕翔のフライングが非常に美しくて見応えがあった。
ピーターパンの物語は読んだことがない。
ディズニーアニメの「ピーターパン」も見たことがない。
榊原郁恵が初演でピーターパンを演じた、ホリプロのピーターパンは見たことがあるような気がうっすらとある。しかし「見たことがあるような気がうっすらとある」くらいなので、どんなストーリーだったのかは全く覚えていない。
そんな訳で、この「ウェンディ&ピーターパン」が、元々のピーターパンと何が同じで何が違うのか、最後まで全く分からなかった。
見終わっても「それで、この舞台は元々のピーターパンとどういう関係にあるんだろう?」ということはよく分からないままだ。
Wikipediaを見たところ、そもそも原作小説の「ピーターパン」も色々あるようだし、ディズニー版は当然のことながらディズニーっぽいアレンジがだいぶ加えられているようだ。
ブロードウエイミュージカルと日本で上演されたホリプロのピーターパンもだいぶ違っているらしい。
そもそも「元々のピーターパン」なんてものはないくらいの勢いだ。
この「ウェンディ&ピーターパン」は、ダーリング家の4兄弟のうち、末っ子のトムが亡くなるところから始まる。
現実世界では「死」であることが、ピーターパンがいる世界では「ピーターパンがトムをどこかに連れ去った」ということになるらしい。
そうして1年後、ダーリング夫人はまだトムが亡くなったことの哀しみを引きずっているし、ダーリング氏はお酒と遊びで気を紛らわさせている様子だ。
そして、再びやってきたピーターパンに連れられ、ウェンディとマイケル・ジョンの姉弟はネバーランドにトムを探しに行く。
ネバーランドに到着し、ウェンディはトムを探すことだけを考えているけれど、ジョンもマイケルも、ネバーランドで暮らしていた「ロスト ボーイズ」も、遊ぶことしか考えていないようなピーターパンも、実は一番大人なんじゃないかと思うティンカーベルも、誰一人としてウェンディに協力しようとしない。
それどころか、ウェンディに「母親になってくれ」と言い出す。
それなのに、どうにもウェンディが可哀想にも気の毒にも見えない。
こういう気の強い、「協力を求める」というのではなく協力を引きずり出そうとして果たせない少しばかりイヤな感じの女の子を演じさせたら黒木華は天下一品であると思う。
ウェンディは子供だ、と思う。ウェンディの設定がいくつなのか知らないけれど、トムは6歳と言われていたような気がするから、10歳前後かもう少し大きいか、小学生のうちなんだと思う。
小学生で勝ち気で面倒見のいい女の子だったらこういう感じになるよな、と思う。
正直なところ、「全体としてよく分からない」と思っていて、どっちを向けばいいのか分からない感じだった。
ピーターパンというキャラもよく分からず、大人にはなりたくないけど人を殺すのは平気で、しかし「キス」が何なのかは知らないってバランスの悪い「大人になりたくない子供」だなとか、コイツは何を考えていて何をしたいんだろうとか、思ったりしていた。
腕っぷしは強そうだし、先頭に立って遊んでいるけれど、リーダーシップを発揮している感じはない。でも、ロストボーイズは慕っている感じがある。
「ピーターパンとウェンディ」ではなく「ウェンディとピーターパン」だから、ウェンディの心情の方がより多く描写されていた。
それで、余計にピーターパンという存在がよく分からなかった、のかも知れない。
この舞台の上では、ピーターパンは「大人になりたくない」とは言っていなかったような気がするし、ネバーランドについての説明もなかったような気がする。
この舞台のミソはむしろそこで、一般的な割に曖昧な「ピーターパン」のイメージをどこまで使いどこまでひっくり返すかというせめぎ合いが醍醐味だったのかもと思う。
そういえば、そもそもどうして「ロストボーイズ」で男の子だけなんだろうと思う。
そこにウェンディだけは入れたものの、「お母さん代わり」という役割を負わせられてしまう。ネバーランドにいる女性はあとタイガーリリーとティンカーベルくらいしかいない。
タイガーリリーは「女の子」ではないアイコンを背負わされている感じがあるし、ティンカーベルの嫉妬深さはいかにもステレオタイプな女性ではあるけれど、そもそも妖精であって人間ではない。
そのタイガーリリーの描き方も何だか雑で、釈然としない。
ティンカーベルにしろ、この舞台の上では、女の子という称号はウェンディだけのもので、他の少しでも「女子」に関わる存在は、ただの引き立て役として使われているような感じがして、少しばかりむかっ腹が立った。
我ながら、舞台を見て何をムキになっているんだと思わなくもない。
物語の最初と最後に置かれた、ダーリング夫妻のやりとりも、実は少し謎だった。
「理想の夫婦」から始まり、トムを失った哀しみに寄り添おうとしない上に「自分と子供の面倒を見るのはおまえの義務だ」と言い切るような夫に愛想を尽かしたように家を出るダーリング夫人を見せて置いて、実は彼女は仕立てものの内職をしようと面接に出かけただけで、舌先三寸のダーリング氏の謝罪をあっさりと受け入れて、何だか元の「いい夫婦」に戻っている。
これは必要なのか、ネバーランドでの出来事とシンクロさせるくらいのことをしても良かったんじゃないか、等々と思う。
ダーリング氏とフック船長、トムの主治医とフック船長の天敵であるところの(多分)ワニを同じ役者が演じることにどんな意味があったんだろうとも思う。
そもそも、フック船長はどうしてピーターパンと敵対し、ロストボーイズを狙っているのか、よく分からない。そこは「ネバーランドはそういう場所なんだ」と思っているのが正しいんだろうか。
そんなことを一々気にする必要もないような気がしつつ、私自身がピーターパンを知らないことが気になっていたので、色々と変なところに思考が飛んでいた。
多分、私が重要なポイントというかテーマを完全に欠落させていて、だからしっくりくる感じを得られなかったのだと思う。
「ピーターパンとウェンディ」を読んでみよう、甥っ子達にも読ませてみよう、と思った。
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コメント
どなたか分からないのですが・・・。
誤字のご指摘をいただきありがとうございました。
早速、修正させていただきました。
投稿: 姫林檎 | 2021.08.22 19:44
銭湯→先頭?
訳者→役者?
投稿: | 2021.08.22 19:06