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2021.11.20

「鴎外の怪談」を見る

二兎社公演45「鴎外の怪談」
作・演出 永井愛
出演 松尾貴史/瀬戸さおり/味方良介/渕野右登
    木下愛華/池田成志/木野花
観劇日 2021年11月18日(木曜日) 午後1時開演
劇場 東京芸術劇場シアターウエスト
料金 6000円
上演時間 2時間40分(10分の休憩あり)

 ロビーではパンフレット等が販売されていた。
 もちろん手指の消毒や検温などの感染対策を行いつつ、しかし、少しずつ劇場にも日常が戻り始めているように思う。
 ネタバレありの感想は以下に。

 二兎社の公式Webサイト内「鴎外の怪談」のページはこちら。

 7年前に上演された芝居の再演である。(そのときの感想はこちら。)
 当時、金田明夫が演じた森鴎外を、今回は松尾貴史が演じている。モノマネなどの分かりやすい笑いは封印し、間やトボケた感じの言動で笑わせつつも、ちょっと気の弱い、母にも妻にも弱い、なのにガンガン出世している森林太郎である。人格者たらんとしているところは薄めで、元々の人の良さが滲み出ている、という感じの造形だ。妻に「ぱっぱ」と呼ばれているのが似合っている。

 他の面々は、何というかいつも通りである。瀬戸さおり演じる気が強くて何だかんだ言いつつも夫にぞっこんで小説家でもある妻、木野花演じる息子も可愛いし息子の前妻の息子も可愛いし息子の嫁とはソリが合わない「お家大事」の母。この二人だけで、鴎外の家庭生活は波瀾万丈である。
 「もっともあやういバランス」が必要だったのは、家庭内でも同じだったに違いない。

 しかし、「もっともあやういバランス」の「もっとも」は家庭内ではなく、対外的な森鴎外の部分にある。
 ちょうど、大逆事件の裁判が始まろうとしている頃のお話で、淵野右登演じる編集者であり弁護士でもある平出は被告たちのうち二人の弁護を担当することになっており、その弁護方針を鴎外に相談し、一緒に対策を練っている。
 一方で、その「大逆事件」を作り上げる側の山縣有朋肝煎りの「会」に、池田成志演じる友人の耳鼻科医である賀古とともに鴎外は参加している。
 二律背反もいいところだし、まさに「あやういバランス」だ。

 この賀古という耳鼻科医がなかなか嫌な奴全開で、ついつい妻目線で見てしまうからか、鴎外を軍医総監としてその地位を盤石のものとしようとそれ以外のあらゆるものを切り捨て、同じ志である鴎外の母に力一杯肩入れし、鴎外が望まない方向に鴎外を叱咤激励し葉っぱをかける。
 それが、「男」だとか「立身出世」だとか「お家大事」だとか、今から見ると「ふんっ」と言いたくなるようなものばかり守ろうとしているから、腹立たしいのだと思う。
 もっと単純に、木下愛華演じる森家の新人女中のスエや、鴎外の妻シゲを見下しているところが嫌だ。

 その辺りの賀古医師の考え方は気に入らないけれど、落ち着いて考えればこの人もそんなに悪い人な訳ではなかったような気がする。
 むしろ、彼を言い訳に自分の行動を「仕方なかったんだ」と己に言い張っているようなところがある森鴎外の方が、自覚していない分、嫌な奴なのかも知れないし、そういう賀古医師と同じ方向を向いた立身出世願望と、常識人であると思い込んでいる鴎外自身が考える「あるべき姿」との乖離がそもそも、鴎外が「あやういバランス」を生きなくてはいけなくなった原因のような感じもある。
 今回の上演の方が、この「鴎外の自業自得じゃん!」感が増えていたように思う。なぜだろう。

 前回講演で賀古医師を演じたのは若松武史、今回演じたのは池田成志である。
 なんと言うか「分かる分かる」と言いたくなるキャスティングである。灰汁と癖の強さがなければ、賀古医師がどうしてこんなにも鴎外の行動を左右できるのかという点の納得を引き出せないし、最後の方に呟く「俺は便利なだけの男だから」という述懐に込められた成分を表現できないのだなと思う。
 こいつだって、自分の欲望を同じ年頃の友人に完全におっかぶせているダメな奴だと思うけれども、この述懐があることで「己を知って、その醜悪さも分かった上で、覚悟してやっている」という感じが強くなる。

 一方で、鴎外の方は、大逆事件の判決後、スエに被告の一人だった大石医師に世話になったと明かされ彼の助命を願われたり、味方良介演じる永井荷風に、その頃に書いた鴎外の小説は多くは権力者山縣有朋に向けた「この裁判に対する世論の趨勢」の訴えであり今の方向への批判であったのだろうと言い募られた上で「あなたが山縣有朋に願えば彼らの助命が叶うのではないか」と訴えられ、軍服に着替えるところまでは行く。
 これまでできなかった「自分の意見を述べる」ことをしようとする。

 妻のシゲは「初めて鴎外を理解できた」と賛成してくれるが、賀古医師には土下座して「明日まで待ってくれ」と頼まれる。今の盛り上がった気持ちさえ過ぎ去れば鴎外はそんな無謀なことはできないと読み切った「願い」である。やっぱり嫌な奴だ。
 さらに、賀古医師が鴎外の母に、鴎外のその決心を伝えたことで、母は白装束に薙刀で鴎外に詰め寄り、さらに懐剣を己の喉に当てて「母の屍を超えて行け」と鬼の形相で叫ぶ。怖い。
 結局「行けなかった」鴎外がここで「エリス、やっぱりこうなったよ」的なことを呟く。そこで他人のせいにしているからダメなんだよ! と言ってやりたくなる。

 しかしながら、それこそが「人間 森林太郎」なのかも知れない。
 そういうところが、森林太郎の魅力であり、彼が書く小説に裏というか深みを持たせているのかも知れない。
 獄中の幸徳秋水や大石医師から、弁護に力を尽くした平出に対して届けられた手紙に書かれた感謝の気持ちは、平出はもちろんのこと、彼の弁護を支えた森鴎外という人そのものに対する感謝にもなっていたのかも知れない。
 うーん。

 男子出産後の森家は平和である。
 姑と嫁は嫌味なくらい仲良くなっており、もはや、姑嫁連合軍は森鴎外を蹂躙する勢いである。
 この二人にタッグを組まれたら、林太郎になすすべがある筈もない。
 そのきっかけが男子出生にあるというところに忸怩たるものを感じるのは穿った見方なのか。「嫌な奴」と思った賀古医師の男尊女卑丸出しの態度を、結局のところその時代の女性も受け入れているということなのか。
 そこがテーマではないと思いつつもやはり気になる。

 人は思う通りには生きられない。
 思う通りに生きられない中で、何を選び、どこで妥協し、どうやって自分を許すのか。
 そういう舞台だったんだなと思った。

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