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2022.02.19

「サヨウナラバ」を見る

わ芝居 ~その弐「サヨウナラバ」
作・演出・出演 わかぎゑふ
出演 野田晋市/うえだひろし/松井千尋/吉實祥汰
    澤田紗菜(以上リリパットアーミーII)/美津乃あわ
    森崎正弘(MousePiece-ree)/谷畑聡(劇団AUN)
    是常祐美(シバイシマイ)/武市佳久(花組芝居)
    茂山逸平/茂山千之丞/茂山千五郎
観劇日 2022年2月18日(金曜日) 午後2時開演
劇場 ザ・スズナリ
料金 5000円
上演時間 2時間(10分の換気休憩あり) 

 同じ芝居を、こちらの演劇バージョンと、狂言師の方々が演じる狂言バージョンと、2バージョンで上演するという企画で、私は演劇バージョンのみ観劇した。

 上演前にわかぎゑふが「日々、状況が変わるので」と前説に登場し、換気休憩があります、12人の俳優で上演する予定だった芝居でそのうち5人が代役だ、狂言師の方にも出演していただいているので「はんなり」した人が登場したら狂言師と思ってください、といった説明をしていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 玉造小劇店の公式Webサイト内、「サヨウナラバ」のページはこちら。

 舞台セットは、市松模様の床のみ、という潔さである。
 「和の交流」としての「わ芝居」で、今回は狂言とのコラボ、同じ台本を狂言バージョンと芝居バージョンで上演するという形式だから、セットも狂言寄りというか、狂言っぽくしたのだと思う。
 この「何もない」セット、舞台が始まってしまうと全く違和感がない。
 今更ながら、F列から見て床面の市松をしっかり見ていたのだから、舞台は八百屋になっていた、のかも知れない。

 せっかく前説で説明してもらっていたのに、私が上演中に「この方が狂言師ですね」と分かったのは、日替わりの丁稚として登場されていた茂山千五郎だけだった。
 リリパやラックシステムのお芝居は結構見ていると思うのに、我ながら情けない話ではある。
 いや、役者さんたちが毎回見事に化け、演じ分け過ぎているからだと主張したい。

 この後、破格の出世をすることになる大阪の商家の手代二人のシーンから始まる。
 今考えると、この二人がこの芝居の主人公なんだろうなぁと思う。主役というよりは主人公という感じだ。
 そして、昭和初期の大阪の商家が舞台で、本家(本店?)の店主が急逝し、番頭も急逝し、店主の弟たちには分家させてしまっていて、本家には亡くなった店主の病弱な娘しか残っていない、さてどうするか。そんな相談を、本家の人間抜きで、親族のご意見番らしいおじさんと、分家のおじさん二人、分家(兄)の妻といった辺りで喧々囂々とやっている。

 最初に登場した手代の一人を、病弱なお嬢さんと結婚させ、病弱なお嬢さんは早晩亡くなるだろうから、そうなったら本家は分家に吸収させようという、えげつない相談がまとまり、誰一人として「えげつない」と思っていないものだから、そのまとまった相談を弁護士に文書にまでさせて、手代の男に呑み込ませる。
 うん。えげつない。

 こういう商売とか本家とか本店とか分家とか兄弟とか、そういう「えげつなさ」は今回のお芝居ではあくまでも「二番手」という感じだ。
 この芝居で描かれるえげつなさの筆頭は、血筋なのではないかと思う。
 財産よりも血筋。「血筋」とか「血縁」とか「遺伝子」とか、そういうことが異様に重要視されている。

 分家の奥さんの弟が弁護士で、この弁護士の男の登場がやけにえげつなさ満載だったものだから、もしかしてこの弁護士がダークヒーローというか、悪意の塊でこのお店と一族とお芝居を引っ掻き回して奈落の底に突き落とすんじゃないかくらいに思えて勝手にドキドキしていたところ、全くそういうキャラではなかったので、半分くらい進んだところで息をついた。
 本当に、そういう風に話が進んだらどうしよう、逃げ出そうか、と思ったくらいだ。

 でも、しつこく書くと、やっぱり「血」としてはえげつない。
 「おもてなし」に通じる怖さがある。
 分家の息子は、実は、本家の病弱なお嬢さんが産んだ男の子である。恐らく父親は本店の番頭である。
 本家の娘は、本家の病弱なお嬢さんが産んだ女の子である。
 つまり、分家の息子と本家の娘は、異父兄弟である。

 どうしてそうなったかは置いておいて、分家の奥様の認識ではそうなっている。
 しかし、一族の結束のためと、本人たちがやけに乗り気なことから、この二人の結婚話が持ち上がる。
 分家の奥様にとっては、進退極まれりというところだ。なにしろ、分家の長男の正体を知っているのは、自分と弟の二人だけである。

 身体極まった奥様が親族一同に事実を告げようとしたその会合で、本家のお嬢さん(というかその時点では奥様である)が、告白を始める。曰く、本家の娘は、自分が産んだ娘ではない。これがまたややこしいのだけれど、本家の主人となっている元手代と同期だった手代で今は分家の主人となっている男の妻となっている女性と、本家の主人との間に生まれた女の子だという。
 主治医まで連れてきて証言させているから、説得力があり過ぎだ。

 芝居を見ているときは全くややこしくなかったのに、文字にするとどうしてこうもややこしいのか。
 戯曲が練りに練られた緻密な構成を持っているからなんだろうなぁと、また改めてしみじみする。見ているときは、もちろんそんなことは全く考える余地はなくて、ただただ、物語の展開に引っ張られて走るだけである。
 やっぱりすごい。面白い芝居ってすごい。しかも複雑すぎる状況を「説明」せずに伝えてもらっている。もう神業である。

 話を戻すと、本家の娘と分家の息子の間には、血縁関係は全くない。
 弁護士の(だったけれども今は小説家になっている)弟に言わせれば「一滴の血も混じっていない」二人である。
 そうと分かれば分家の奥様が反対する理由はないし、彼女が反対しなければ他の誰も「反対しよう」と思いつくことすらないはずである。
 そうして、話はめでたしめでたし、となる。

 だからなぜ!
 告白しようと思い詰めていた分家の奥様は、まるで何事もなかったかのように口をつぐんでしまう。あまつさえ、本家の奥様からの感謝の言葉を鷹揚に受け入れている。自分の夫が誤解に基づいて歓喜を爆発させているのを見ても、若干の戸惑いはありつつも、特に良心は痛んでいないように見える。
 肝が据わっているというべきなのか。

 このお芝居には、手代から分家を任された男の劣等感とか(なにしろ同期は本家のご主人様である)、分家の主人の本家への拘りとか、「テーマ」は色々と仕込まれていると思う。
 実は本家の主人となった元手代の男だけが内面を語られないという主人公にあるまじき扱いをされているのも気になるところではある。

 ラストシーンは、家族を疎開させた元手代二人が蔵に逃げ込んで大阪空襲を生き延び、近所の男の言葉に触発されて、蔵にしまってあった酒を高値で売って儲けようじゃないか! と動き始めるというシーンである。
 それなのに、私の頭に浮かんだ感想は「女は怖い」だったし、バンと印象深いのは、分家の奥様が息子の出生の秘密を弁護士の弟に語っていたシーンだったりする。

 そこが怖過ぎたからか、弁護士(だった)弟がやけにいい人だったことにはものすごく安堵した。表裏のあり過ぎる悪意に満ちた人物かと思っていたら、ちょっと格好つけていただけの根は善人のいい子だったんじゃん! みたいな感じである。

 ハッピーエンドかどうか、考えれば考えるほど分からなくなる。
 知っている情報量で、幸せかどうかがきまり、知っていることが多ければ幸せというものでもなく、知らないことにより幸せな気持ちでいられるならそれは幸せってことなんじゃぁ、でもそれは偽りの幸せだよね、等々と私の中で大激論が巻き起こっていて、まだ結論は出ていない。
 とにかく面白かった。

 狂言バージョンでは、こんなに生々しいお話を、どう狂言として成立させていたのか。
 もっとも、狂言をほとんど見たことがない私に狂言として成立しているかどうかの見立てなどできるわけがない。
 しかし、気になる。「狂言バージョンは分からないよ、きっと」とチケットを取らなかったのだけれど、これは見るべきだった! と思っている。

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