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2022.08.21

「頭痛肩こり樋口一葉」を見る

こまつ座「頭痛肩こり樋口一葉」
作 井上ひさし
演出 栗山民也
出演 貫地谷しほり 増子倭文江 熊谷真実
    香寿たつき 瀬戸さおり 若村麻由美
観劇日 2022年8月20日(土曜日) 午後6時開演
劇場 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
料金 10000円
上演時間 2時間45分(15分の休憩あり

 ロビーではパンフレットやリピーターチケットの販売があった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 こまつ座の公式Webサイトはこちら。

 今、調べてみたら、2013年の公演を私はみているらしい。(そのときの感想ははこちら。
 もっと前にも見ている筈だけど、今のところ思い出せない。2013年の時点でも思い出せていなかったのだから当たり前である。
 そして、9年ぶりに見た今回、やっぱり色々と忘れていた。というか、ほとんど覚えていなかった。
 覚えていたのは、舞台が毎年のお盆(7月16日)のある数時間を重ねる構成になっていること、「花蛍」という名の幽霊が出てくることくらいだ。

 樋口一葉は、死の直前の7月16日だけは「一葉女史」だけれども、それ以外のときは常に「樋口夏子」である。
 シーンの始まりには原稿用紙の模様の幕が下ろされ、そこに、日付と場所が投影される。
 日付は、一つのシーなの除いて全て7月16日、場所も、2シーンを除いて「樋口夏子 借家」である。「借家」の文字には朱で点が打たれている。
 最初のシーンだけは、夏子の兄の家、最後のシーンでは夏子の妹である邦子の借家が舞台だ。

 夏子には男兄弟がいたようなのに、どうして、年若い(10代後半である)夏子が「戸主」として、母から様々なプレッシャーをかけられ生活を支えるよう要求されているのかがよく分からない。
 明治時代に、「直参旗本の家柄」を誇るような年配の女性が、女性が戸主となることをそう簡単に肯んじたとは思えない。
 そこには、舞台で語られなかった何らかの理由があるのだろうと思う。

 貫地谷しほり演じる夏子は、「疲れ」が前面に出ている感じの夏子だ。
 この舞台は歌うシーンも多いし、女6人の芝居で全員が(お盆の街を歌いながら提灯を持って練り歩いている子供たちをのぞき)自分の役だけを演じる。女同士の縁や繋がりが年を追って深まって行き、もちろんそれに応じてどんどんやりとりに遠慮がなくなって行く。
 いや、もとから遠慮はなかったのか?
 そう書いてから思ったけれど、「遠慮なく」思っていることを言っているのは、樋口姉妹以外の登場人物たちだ。

 「戸主」を背負わされている夏子も、その妹である邦子も、実は思っていることはほとんど言っていない。
 お互いの間では打ち明け話もするけれども、それを姉妹という枠の外に出すことはほとんどしていない。
 夏子はその鬱屈を内に溜め、邦子は恐らく「鬱屈だ」ということすら自覚していない。邦子は一度だけ、母に怒ることができたけれど、それも自分のことではなく母の姉に対する仕打ちが原因である。
 夏子の方が「死」に近く「死」を思い、幽霊である花蛍と交流できてしまう理由は多分これだと思う。

 夏子は、「筆で身を立てる」ことを目指しつつ、しかし思うとおりに行かない現実に他の生計の道も探りつつ、自分だって死を求める感情を日記に書いているのに、吉原の女たちを保護する場所を作れないものかと思案する。
 明治の女としては、自分を追い込む方向にしか進んでいないところが痛ましい。
 貫地谷しほり演じる夏子のイメージは「痛ましい」だと思う。
 そして、疲れている。彼女はずっと疲れていて、とても10代後半や20代前半の若者には見えない。

 夏子を追い詰め、圧迫していたものは何なのか。
 花蛍は、身請けしようとしてくれた思い人がそのお金を落とし、拾ったであろう老婆が返してくれなかったことから男が死に、自分も後を追って死んでいる。
 彼女は、「恨みをぶつけるべき相手」を訪ね、しかし彼女たちにはそれぞれ「つれなくした」ことの理由を持っている。その理由を追って行くと、次々と女たちを巡ることになり、最後には明治天皇(か、あるいは明治天皇を悩ませた世界情勢)にたどり着く。

 最後の最後に「男」や「社会」が出てくるけれど、花蛍が辿った「世間の因果の網」は女だけで構成されている。
 何だか、夏子を含め、明治の女を追い詰めたのは、同じ明治の女達だったのではないかという気がしてくる。
 それを「時代だ」と言ってしまってはおしまいだ。では何なのか。

 様々な明治の女の業を背負ったり背負わされたりした夏子を取り巻く女達が死んでは真っ白な装束に身を包んで7月16日に夏子のもとへやってくる。
 夏子はどんどん彼女たちに近づき、ついには死んでしまう。
 夏子の死後、母と邦子だけのお盆を描き、ラストは、邦子以外の全員が白装束となり、借金取りから身を隠すために転居する邦子を見送る。

 それって、借金を踏み倒そうとしているのでは・・・。そして、その借金は決して「騙されて背負ってしまった」ような借金ではなく、一家が生活のために「分かって」借りていたお金なのでは・・・。
 借金取りから実を隠すための転居を「新たな出発」みたいにきれいに描いていることに違和感を感じつつ、ひときわ明るい照明の中、その光を反射させる白い衣装を着てボロボロの提灯を持って見送る女たちはとてもきれいに見えたし、後ろ姿を見せ仏壇を背負って歩く邦子は光の中へ進んで行くように見える。

 きれいだ。

 もう本当に様々すぎる要素がこれでもかと取り込まれ、色々と考えるべき舞台だし感じるだろう舞台だし、前回公演を見たときは随分と色々と書いているのだけれど、何だか今はそれはいいやという気がしている。
 今の時代をもし夏子が生きていたら、どう生きていたのだろう。彼女の小説達は生まれたのだろうか。それとも彼女は社会活動家になっていたのだろうか。恋する相手と幸せな結婚をしていたのだろうか。
 そうではないような気がした。

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