「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」に行く
2022年11月5日、改装されてリニューアルオープンした国立西洋美術館で2022年10月8日から2023年1月22日まで開催されている「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」に行って来た。
ベルクグリューンというのは画商兼コレクターの方のお名前で、画商を生業としつつ、商売の中で特に気に入った逸品を集めて自らのコレクションを作り上げていったという人だ。
買ったり売ったりを繰り返し、最終的にはパブロ・ピカソ、パウル・クレー、アンリ・マティス、アルベルト・ジャコメッテ、そして彼らが尊敬していたというポール・セザンヌの作品を主とするコレクションになっているという。
元々こうした個人コレクションだったもののうち、主要作品をドイツ政府が買い上げ、現在は「国立美術館群の一つ」という扱いになっているらしい。
その「ベルクグリューン美術館」の改修を機に実現したというこの美術展は、97作品が来ており、そのうち76作品は日本初公開だそうだ。
初公開でない21作品はいつどういう形で日本に来ていたのか気になる。
そして、その場では全く気がつかなかったけれども、11作品は日本国内からの出品だったそうだ。
この美術展は写真撮影が揺るされていて、恐らくは写真撮影が禁止されていた作品たちが日本国内からの作品だったのだと思う。ジョルジュ・ブラックの作品はほぼ撮影禁止になっていた記憶だ。
日時指定制のチケットで、夕方に入ったこともあり、それほど混雑していなかったのが嬉しい。
少し待てば、あるいは待たなくとも、一番前で絵画を見ることができる。贅沢な時間である。
そして、そもそもこの美術展が異様に贅沢な内容だったと思う。何というか、バーターっぽい出品作品がない。全てが主役という作品たちばかりで、うっかり飛ばしたりしたらもの凄く後悔しそうな絵画・彫刻たちだった。ベルリン在住の方は常にこの作品群に会いに行ける訳で、贅沢な街である。
「序 ベルクグリューンと芸術家たち」では、ピカソの作品とマティスの作品が1点ずつ展示されていた。
すぐ「I. セザンヌ― 近代芸術家たちの師」に入る。「師」であるセザンヌから始めたかったから、「序」としてこの美術展の主役であるピカソとマティスを配置することが必要だったんだなぁと思う。
セザンヌはあまり好きではないけれど「庭師ヴァリエの肖像」という絵が、「きらきらひかる」に出てくる”むらさき色のおじさん”みたいでちょっといい感じだった。
ベルクグリューン氏は、コレクションを20世紀の画家の作品に特価するために、それまでコレクションしていた印象派やポスト印象派の絵を潔く売り払ったけれども、セザンヌの作品だけは何点か手元に残していたそうだ。
自分がコレクションしようとしている画家達が「師」と仰いでいたというだけでなく、自身も好きだったんだろうなぁと思う。
そういう完璧じゃない感じも潔くなくて良い。
「II. ピカソとブラック― 新しい造形言語の創造」では、多分この美術展を企画したキュレーター渾身のラインアップということになると思う。ベルクグリューン氏が収集の対象としていなかったジョルジュ・ブラックの作品を他から借りてきて、対比する形で展示していた。
パブロ・ピカソの作品も若い内(1900年代から1920年代くらいまで)の作品が集められていて、まだ人はそのままというか、キュビズムに足を踏み入れずに描かれている。静物は少しずつデフォルメされて行っている。
中で「ギターと新聞」という素っ気ないタイトルの絵が好きだった。地味な画面で寒色しか使われていないところがいい。落ち着く。
「III. 両大戦間のピカソ― 古典主義とその破壊」は、多分、その名のとおりの時代であり絵たちだったんだろうと思う。
「座って足を拭く裸婦」という絵があって、何というかあまりにも普通な感じで不思議だった。この絵が古典主義的な裸婦像ということなんだろうか。
ここにもあったアルルカンの絵が、もう1枚とはアルルカンの描き方が全く違うのに、でも画面のメインになっている色は両方とも赤だった。どちらかというと、こちらの「ギターを持つアルルカン」の方が怖くなくて好きである。
「IV. 両大戦間のピカソ― 女性のイメージ」よりも前章も方が女性の印象が強いのは、こちらではだいぶ人もデフォルメされて描かれていたからだと思う。
目が大きくなり、顔が分割されて再合成されたようになり、カクカクしたラインが増えて行く。
そうなる直前、という感じの「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」のドラ・マールがなかなかの美人で良かった。ピカソはその時々の恋人の絵を描いていたらしい。それは描かれているときは誇らしい限りだろうけれど、分かれた後にその絵がどうなるかが気になる。女性たちは「私を描いた絵は全部返せ」とか言わなかったんだろうか。
そして、美術展はいったん「V. クレーの宇宙」となる。
ピカソとクレーって似ているんだろうか。単純にそれぞれ別々の理由でベルクグリューン氏の好みに合っていたということなんだろうか。これは、マティスについてもジャコメッティについてもそう思う。
この4人に何らかの共通点があるんだろうか。それは他の人の作品に目もくれないような理由なんだろうか。
クレーは「四角」というイメージがある。四角を組み合わせて描かれている絵が多い、と思う。
幾何学っぽいし理屈っぽい。
何というか、使う素材や色の数や構成に全部理屈があって、「(何でも答えてやるから)どうぞ何でも聞いてください」と言われている気がする。多分、気のせいだ。
そんな中で、「子どもの遊び」という絵が現れたときには、思わず笑顔になってしまった。
しかし、欲しい絵はまた別で「薬草を調合する魔女達」という線とぼかしで描かれた絵か、「夢の都市」というあんまり幸せそうでもない夢の都市の絵が欲しいなぁと思う。「ジンジャー・ブレッドの絵」でもよい。
どの絵もこの美術展にあった絵の中では小さいサイズだけれど、例えば家に持って帰ったりしたらびっくりするくらい大きいのだろうと思う。
「VI. マティス― 安息と活力」でも、マティスは油彩画だろうが切り絵だろうが、何というかぐいぐいと迫ってくる感じがある。絵がというよりもマティス本人が迫ってきている気がする。そして彼が何を言おうとしているかは全く分からないところが間抜けだけれども、とにかく「主張」がある絵のように思う。
そうやって責められたり攻められたりしているように感じるので、「オパリンの花瓶」のように墨一色でささっと描いたように見える絵があるとほっとする。
切り絵の作品の方がすでにマティスっぽいというイメージだけれども、雑誌の表紙なども飾っているそうで、同時代的に人気であり認められていたのだなぁと思う。
ゴッホやフェルメールなど「生前の生活は苦しかった」という画家の方が普通な感じがしてしまい、生前から評価されていた画家たちはもの凄く幸運だし幸せだよなぁと思う。そういうものでもないのだろうか。
最後に「VII. 空間の中の人物像 ― 第二次大戦後のピカソ、マティス、ジャコメッティ」ということで、クレーを除く3人が集い、美術展は終了である。
ジャコメッティは、「広場 II」というブロンズ像がとにかく格好良かった。この人たちは広場に集って何をしているんだろう? と思わせる。
メキシコのラ・ベンタ遺跡公園にある、「会議する人々」を何となく思い出した。しかし、こちらは明確に会議をしていたけれど、「広場 Ⅱ」の方の人たちはただ通り過ぎているだけのようにも見えた。
もう本当に贅沢な美術展だった。
仕事の後で行って、その仕事が上手く行かずかなりモヤモヤしていたのだけれど、見ているうちにココロが落ち着いてきて、帰る頃には仕事のことなど忘れていた。有り難いことである。
行って良かったと思う。
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