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2024.05.05

「デカローグ」1〜4 プログラムB(デカローグ2&4)

「デカローグ」1〜4 プログラムB(デカローグ2&4)
作 クシシュトフ・キェシロフスキ/クシシュトフ・ピェシェヴィチ
演出 上村聡史
「デカローグ」1
出演 前田亜季/益岡 徹/亀田佳明
    坂本慶介/近藤隼/松田佳央理
「デカローグ」4
出演 近藤芳正/夏子/亀田佳明
    益岡徹/松田佳央理/坂本慶介/近藤隼
観劇日 2024年5月4日(土曜日)午後1時開演
劇場 新国立劇場小劇場
上演時間 2時間5分(デカローグ2と4の間に20分間の休憩あり)
料金 8800円

 ロビーではパンフレットや、本公演の記念マグネット等が販売されていた。
 ネタバレありの感想は以下に。

 新国立劇場の公式Webサイト内、「デカローグ」1〜4のページはこちら。

 プログラムAの舞台セットをベースに、プログラムBの方が部屋が広くなっていた、と思う。
 プログラムAでは幅二間、プログラムBではプログラムAのお部屋のセットプラス一間、という感じである。
 片方しか見なかったり、日を置いて見ていたらそこまで感じなかったかも知れないけれど、両方を続けてみると、同じ団地でもプログラムBに登場する人々の方が裕福なのかなという印象を受ける。

 プログラムBでも、デカローグ2とデカローグ4の間に休憩が20分ある。
 客席の外に出てしまったので確認した訳ではないけれど、若干のセットの転換もあったと思う。セットといっても、観葉植物を片付けるとか、病院にあるキャスター付きのベッドを移動させる等で、それほど大がかりな転換ではない。

 昨日は謎に思った「1作品目のカーテンコールに登場する人が少ない」理由は、どうやら、両作品に登場する役者さんは2作品目のカーテンコールにのみ登場、両方に登場してももう一方の舞台の主要登場人物であった場合は1作品目のカーテンコールにも登場、というルールがあるらしいことに気がついた。
 ちょっとスッキリする。

 「デカローグ2 ある選択に関する物語」の主な登場人物は、益岡徹演じる医者と、前田亜季演じるヴァイオリニストである。
 どうしてこうデカローグに登場する女性たちはエキセントリックな感じがするんだろうという大雑把過ぎる感想が浮かぶ。
 ヴァイオリニストの夫は現在入院しており、階下に住む医者が主治医である。その主治医の自宅にやってきた彼女は「夫のことを教えてほしい」と訴えるが、医者は「患者家族への説明は毎週水曜の*時からだからその時間に病院に来い」と返す。

 非常に常識的な対応と思うのに、女性の方は「2日も待てない」「(数年前に彼女は医者の飼い猫を車で轢いてしまったらしく)ペットではなくあなたを轢けば良かった」と吐き捨てる。
 それは色々とダメでしょう、と思う。
 言っている内容もダメだし、仮に思っているとしても身内の主治医に対してそんなことを言うなんてモノを考えなさすぎだと思う。作戦としてあり得ない。

 そう思っていたら、彼女がつるつると「妊娠している。子供の父親は夫ではない。ここで堕胎したら年齢的に妊娠することは難しい。だから夫の寿命をしる必要がある」と言い出す。
 正直さや率直さは一般的には美徳だけれど、これは駄目な方の正直さの発露だろうと思う。
 正直さではなく作戦なのだとしたら、それはそれでなかなかの強かさだ。

 「あるクリスマス・イヴに関する物語」にの元恋人にも通じる話の通じなさだと思う。
 この世界の女性はこんな感じの人ばっかりなのか、ちょっとそれは酷すぎない? と思う。
 「デカローグ」は「十戒」という意味で、キリスト教の十戒をモチーフにした10編だというけれど、そもそもキリスト教がそういう考えなのか、クシシュトフ・キェシロフスキの傾向なのか、どちらなんだろう。
 どちらにしてもちょっと腹立たしい。

 ここで腹立たしいのは、彼女たちが「自分は正しい」と確信して堂々と(図々しく)主張し、かつその態度に(言っていることの中味にではない気がする)男の方があっさりと陥落することだ。
 今回も、最初のうちは「患者について回復の見込みなど分からないとしか言えない」と言っていた医者が、顕微鏡で何かを発見したことも後押しになったとはいえ、「もうすぐ死ぬ」と断言するようになる。
 おかしい。

 それを聞いた彼女は堕胎を中止し、そして、医者自身が「よくある」と言っていたように、彼女の夫は奇跡的な回復を遂げる。
 ちなみに彼女は、堕胎を決めたその日に、子供の父親である恋人に別れを告げている。
 要するに「自業自得」の生き見本のような状況になっている。
 その彼女がオーケストラの一員としてヴァイオリンを構えたところで幕だ。
 そんな綺麗にお化粧してドレスアップしてヴァイオリンを弾いている場合でもあるまいに、と言いたい。

 デカローグ全10編に出演する亀田佳明は、このデカローグ2では、医者の後輩なのか弟子なのか教え子っぽい役を演じていた。
 しかし、しゃべらない。
 デカローグ1と3では、通りすがりっぽい背景っぽい感じの役回りだったので無言でも違和感はないけれど、この役で無言だとかなり違和感がある。そこ無理に無言を通す必要があった? と聞きたい。
 そして、デカローグ3では駅員を演じていたので、亀田佳明が演じる登場人物は「同じ人物ではない」と確認できた。

 「デカローグ4」のある父と娘に関する物語では、近藤芳正演じる父親と夏子演じる娘が主な登場人物である。
 ここには、鍵を忘れて家から示されてしまった娘を見て、同じ団地に住むデカローグ2の医者が「お父さんが帰ってくるまでうちにいればいい」と親切にするシーンが挟まれる。
 しかし、プログラムBの2作品とプログラムAの2作品の間に特段の繋がりはなかったと思う。
 また、デカローグ2側から見ると、4との繋がりを示すシーンはなかったように思う。解せない。もやっとする。

 それはともかくとして、デカローグ4では、母親はすでに亡くなっており、父親は娘は実の娘ではないのではないかと疑っている。妻が残した手紙を娘に渡せないまま、わざとらしく娘がその手紙を見つけるように仕組む。
 その手紙を見つけた娘は、中を読まないまま、「自分は父の実の娘ではない」と母親が告白したかのような偽手紙を作る。
 そして、という話だ。
 これまでの4作の中で一番技巧的である。
 そして、分かりにくい。

 後半は、延々と娘が父親を誘惑し続け、父親の方は意外とその誘惑に耐える。
 見ているときから「意外とがんばるな」と思っていたので、私の中ではいずれ陥落すると思っていたのだけれど、さてどうなったのかということは示されていなかった、と思う。
 意外と父親ががんばり続けたし、娘の方もがんばり続けたし、娘が「偽手紙でした。私が作りました。」と告白した後、二人は何故か母親の手紙を読む方向ではなく、その手紙をこの世から消し去る方を選んだので、結局この父と娘の間に血のつながりがあるかどうかは不明なままである。
 だから、これからの父と娘がどうなるかも、よく分からない。
 少なくとも、私は「結局どうするわけ!」と幕が下りた後に思った。

 多分、丁寧に凝らされた技巧を追って行けば分かったのだと思うけれど、どうにも見ているときの私に丁寧さが欠けていたためか、思い込みが強すぎたせいか、「腑に落ちる」という感じがなかった。
 このお嬢さんもエキセントリックだなぁと勝手に思っていたからかも知れない。

 何だか登場する男性陣が割と常識的な感じで描かれ、女性陣がエキセントリックな感じに描かれているのが腑に落ちない。
 やっぱり「許し」を描いているという印象を受けるけれど、より許しを必要としていさそうな方の役割が女性に振られ続けているのがちょっとイヤである。

 デカローグ5以降のチケットはまだ確保していなくて、見ようかどうしようか迷っている。

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