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2024.08.18

朝日のような夕日をつれて2024」を見る

KOKAMI@network Vol.20「朝日のような夕日をつれて2024」
作・演出 鴻上尚史
出演者 玉置玲央/一色洋平/稲葉友/安西慎太郎/小松準弥
観劇日 2024年8月17日(月曜日)午後2時開演
劇場 紀伊國屋ホール
上演時間 2時間5分
料金 9800円

 ロビーでは、パンフレットの他、第三舞台の公演も含めた過去公演のDVDや、本作の上演台本、Tシャツ等が販売され、常に盛況だった。
 ネタバレありの感想は以下に。

 サードステージの公式Webサイト内、「朝日のような夕日をつれて2024」のページはこちら。

 10年ぶりの「朝日のような夕日をつれて」である。
 大高洋夫と小須田康人が出演しない「朝日のような夕日をつれて」は、多分、小須田康人が裏方を務めていたという初演と、私は見ていないけれど、木野花が演出した女優版と、その2公演だけではなかろうか。
 いずれにしても刷新だし激変である。これは見なくちゃというものだ。

 客席に入ったときにどうだったか覚えていないのだけれど、開演前に幕が下りていることに気がついて少し驚いた。
 「朝日」に限らず、幕を使うお芝居は最近というか、ここしばらくあまりなかったような気がする。もっとも、確実に幕を使っているのはこまつ座くらいか。単純に幕を使わない芝居を見ることが多いというだけかも知れない。
 とにかく「あら、幕がある」と思った。

 「モダン・ホラー」だったか、別の第三舞台の公演でテーマ曲のように使われていた音楽が流れ、暗転する。
 本当に真っ暗な中、ウィスパーで「朝日のような夕日をつれて」と始まる。
 最前列の中央辺りの席だったので、舞台の前方中央に位置していた玉置玲央は本当に手が届きそうな場所にいて、ウィスパーの声も直接届いてくる感じがあって、もう至福の始まりだった。贅沢そのものである。

 そして、最前列の中央部という座席は、出演者の表情がもの凄くよく見えるし、何なら汗がしたたる様子も飛び散る様子もよく見える。スーツの背中の色が汗でどんどん濃くなっていく様子だって丸わかりだ。
 今回気がついたけれども、「朝日のような夕日をつれて」という芝居は、舞台の中央で集まっていることも多いけれど、舞台の端と端、しかも客席に近いところに留まってやりとりしているシーンもまた多い。
 そうするとしゃべっている人を見ていると、それを聞いている人を見ることができない。ときどき迷ったり不審なくらいきょろきょろとしたりしてしまった。

 「朝日のような夕日をつれて2024」は、出演者全員が30代、10年前の公演で少年を演じた玉置玲央以外は全員が初出演だそうだ。
 若い。
 全く同じ台詞もあったり、ドッジボールとフラフープ、ダーツなど同じ「遊び」をしている場面もある一方で、冒頭やラストの群唱「ゲーム」の部分など全く変わっているところもある。
 どちらも楽しいし嬉しい。
 出演者が若返ったので、ずっと何かを投げ続けるシーンが復活するかしらと思っていたら、それはなかった。ちょっと残念である。

 出演者が若返った分というか、むしろ自分が年を取った分、芝居に出てくるアップデートされたものの元ネタが半分くらい分からないものだったような気がする。
 我ながら情けない。10年前はもっと「あぁ!」と思ったし即座に笑えていたものが、「ん? 何?」と思うことがかなり増えていたと思う。
 出演の役者さんたちをあまり存じ上げなかったことも理由の一つだと思う。彼らを「いじった」台詞を私は分かっていなかった筈だ。
 「小劇場病」は「2.5次元病」になっていたところも、実はほとんど分からなかった。

 それを言うならそもそも、自慢ではないが、私は「VR」というものが分かっていない。
 立花トーイが売り出してきたおもちゃで、私が「分かって」いたものはネットワークゲームくらいまでではなかろうか。しかも実際に遊んだことがある「おもちゃ」はビデオゲーム止まりである。
 それでも、「ルービックキューブ」で始まったおもちゃが「ビデオゲーム」になったときに、時代も大きく曲がったし、「朝日のような夕日をつれて」という舞台も大きな転換をしていただろうことは分かる。
 私に分かることは、多分、その時代の先端ではないのだろうと思う。

 そして、分からなくても面白いし分かるのだ。
 そこが不思議である。
 5人とも、声が通るし、聞きやすい声としゃべり方である。もの凄く速度で彼らはしゃべり続け動き続け、実は聞き逃したり見逃したりしているところもたくさんある筈だけれど、全体として自分が一緒に付いて行けている感じを持ちつつ見ることができる。そこは嬉しい。

 今回、「少年」役の比重を少し上げてきているんじゃないかという感じがした。
 少なくとも、存在感が増している。5人全員で台詞をしゃべっているときに、場所が近かったせいもあるかも知れないけれど、少年役の一色洋平の声が目立っているように感じることがあって、その影響もあったかも知れない。
 少年役は難しい。もの凄いバランス感覚を要求されているような気がする。

 うろおぼえの記憶だけれど、「朝日のような夕日をつれて」はこれまでカーテンコールをしたことはなかったんじゃなかろうか。
 最後に、ひとりずつスポットが当たって最敬礼し、最後に5人にスポットが当たって全員で最敬礼して幕、だった気がする。
 今回の公演では、カーテンコールがあって「やるんだ」とちょっと驚いた。
 実は「10年ぶりの公演」ということを一番感じたのは、このカーテンコールがあった瞬間だったような気がする。
 出ざるを得ない、これはやろう、という判断は、時代の空気を感じてのことなんだろうと思った。

 サイトのインタビュー動画で小須田康人が「夕日のような朝日をつれてでもいい」「時代は絶望じゃない、希望だ、みたいな」といった感じのことを語っていた。
 「朝日のような夕日」を「絶望」と言い換えるのか、とちょっと驚いた。
 そこにあるのは、祝祭であり明るい絶望である。そんな風にも思った。
 でも、「朝日のような夕日をつれて」の世界に、ストレスは与えるけど絶対に傷つけない「AI」に囲まれたゲームの世界を否定する部長がいて良かったと思った。

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