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2025.03.23

「フロイス -その死、書き残さず-」を見る

こまつ座 第153回公演「フロイス -その死、書き残さず-」
作 長田育恵
演出 栗山民也
出演 風間俊介/川床明日香/釆澤靖起
    久保酎吉/増子倭文江/戸次重幸
観劇日 2025年3月22日(土曜日)午後1時開演
劇場 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
料金 9800円
上演時間 2時間50分(15分の休憩あり)

 ロビーでは、パンフレット(the座)の他、関連書籍が販売されていた。ガチャガチャもあったと思う。

 ネタバレありの感想は以下に。

 こまつ座の公式Webサイトはこちら。

 ネタバレありの感想とは書いたものの、正直に言って、どんな「物語」だったのか、私は分かっていないと思う。
 そもそもルイス・フロイスって誰だっけ? 徳川家康が重用していたんだっけ? と大きく間違ったことを考えていたくらいだ。
 なので、いきなり「足利義輝」と言われたときに「室町時代だったの?」と驚いた。フロイスが日本にいたときには、フランシスコ・ザビエルはすでに帰国していた訳で、ザビエルっていつ日本にいたんだろう? と今でも思っている。

 舞台は、フロイスが日本にやってきたところから始まる。
 船旅に相当参っていた設定なのに、どこまでもシュンとしている風間俊介演じるフロイスは、何だか分かりにくい感情の見えにくい人物である。
 そんなフロイスが分かりやすく見せた反応が恐怖と怯えで、言葉が通じていないせいか、日本人に話しかけられるたびに怯え、後ずさりしている姿が偉大っぽくなくて意外だ。
 学究肌の、愛想と愛嬌のない人物だったのかも知れない。

 フロイスは、久保酎吉演じる修道士のフェルナンデスから日本語や日本の風習などを学び、ザビエルが言うところの「日本での布教の完遂」を目指し、フェルナンデスから「ザビエルは、日本ではトップダウンでなくては布教の完遂はできないと言っていた。日本のトップをまず改宗させることがザビエルの方針だ」と強く言われ、フロイス自身は「違うのでは・・・」と思いつつ、京都に行くことになる。
 キリスト教って、世界中に布教して、全人類をキリスト教徒にすることが目標だったのか?

 長崎で出会った、フロイスの護衛を務めることになる元大村藩の武士や、従者に志願してきた長崎で村八分にされていた女や、漁師から派手な商人に成り上がった男と京都に行く。フェルナンデスは長崎に残って布教を続けることを決め、そのフェルナンデスに心酔して改宗した女もいる。
 多分だけれど、この物語はフロイスの物語なのではなく、フロイスの視点で見ることで、当時の日本人社会の歪みや、恐らくは当時から連綿と続いている現代日本の歪みを分かりやすく見せることが目的なのだと思う。
 この舞台が見せたいものは「今の日本人」であって、「物語」ではないように感じる。

 出演者陣の声と滑舌が良くて、もの凄く聞きやすい。
 風間俊介のフロイスと久保酎吉のフェルナンデス、二人の修道士が祈る場面ではもの凄く小声で祈るのだけれど、何と祈っているのかほぼ聞き取れる。
 テレビで見るときと違って風間俊介がほぼ一貫して低音かつ恬淡としゃべっていることに若干の違和感はありつつ、その低音の声の響き方が聖職者っぽいとも思う。
 川床明日香のしゃべり方が独特で、高めの声が通って美しい。その透明感が役に合っていたと思う。

 本当は、フロイスの従者に志願してなったかやという女性がこの物語の中心であるようにも思う。
 「弱者」であり「意思を持たぬ者」「意思を持たされない者」の象徴とされているように思う。ただ、彼女のことを語るのは何だかもの凄く難しい。
 彼女に限らず、洗礼を受けたキリシタンの武士の男についても、火薬の原料である硝石を売買することに何の躊躇いも持たない商人になった男についても、語るのが難しい。
 日本人のある種の側面を強調された人物たちであると思うけれど、やっぱり何だか語りづらい登場人物たちなのだ。だからこそ語ってくれているとも思う。

 そして、その「フロイスが見た」日本人、そして日本は、物語のためなら死ねる人々であり社会である、ことが何というか、この舞台の要というか、中心にあると思う。
 私は物語にのめり込むというか入り込んで舞台を見ていることが多いので、それで、この舞台は分かりにくいというか、遠いところにあるというか、クリアじゃない感じを受けたのではないかと思う。
 あと、何となく「こまつ座っぽさ」みたいなものを、無意識に探していて、それで余計に頭の中がこんがらがっていたのかなと思う。井上ひさしだったら、こまつ座だったら、ここを突いてくるだろうみたいな思い込みがあって、それで余計に複雑に感じたのかも知れないと思う。

 フロイスは、折々に日本での布教について、その難しさについて、アジアでの布教の本拠地っぽいインドの地に送り、さらに後半は布教よりも記録することに専心して行く。
 26聖人が処刑される際に、フロイスが「一緒に死ぬことはできない」と静かに言って譲らないのは、「見て書く」ことが自分の使命だと思っていたからのようだ。
 そうすると、タイトルは何を指し示しているんだろう。

 何だかやっぱり難しい舞台だった。

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