「戸定歴史館」に行く
2024年11月、千葉県松戸市にある戸定歴史館に行って来た。
お天気が良く、風が少し冷たかったもののお散歩日和である。松戸駅からの徒歩10分も気持ち良く歩けた。
戸定邸は、元々は水戸藩最後の藩主・徳川昭武が建て、その後半生を過ごした別邸である。
その元々の敷地の2/3はお隣にある千葉大学園芸学部に譲られ、残り2.3haのお庭とお屋敷が整備され、敷地内に歴史館も整備されている。
また、句会や茶会に利用されているという松雲亭という文化施設が松戸市によって昭和53年に建てられたそうだ。
今回は、お庭と「戸定邸」を見学した。
戸定邸では30分ごと(1時間ごとかも)にシルバーボランティアによるガイド付きツアーが行われている。
折角なのでご案内いただくことにした。
メモも取らなかったしあまりきちんと覚えていないので、ランダムに覚えていることを記しておこうと思う。
戸定邸は、一部2階建てで、家族が増えるたびに増築したらしく、かなり複雑な造りである。
庭の向こうに見えている2階建ての2階部分は女中さん達が寝起きしていたお部屋だそうだ。この通り日当たり抜群なのに、主人一家を見下ろすのは不敬になるということで、雨戸は常に閉められていたという。
何だか理不尽である。
戸定邸の庭園は和洋折衷という説明もあった。
このとおり芝生と木々でほぼほぼ構成されており、和も洋もあったものじゃないのでは? と思ってしまった。
木々や飛び石で歩く場所を作ってあるところは「和」と言われれば「和」だけれどと思ったら、家の際まで芝生を敷き詰めるのは「洋」の庭だという。
説明を聞いても「へー」と思うだけというのも申し訳ない話である。
この庭園の一角に東屋があり、そこからは江戸川とその手前と奥に広がる田園風景、そして富士山が見えたという。
今も江戸川は辛うじて見えるものの、その手前と奥には住宅街が広がり、富士山にちょうど被るようにマンションが建っている。
戸定邸のある場所は小高い丘になっており、この眺めがこの場所を選んだ理由の多くを占めているだろうに、勿体ない話だ。
戸定邸は基本的に質実剛健な造りで、華美な装飾はほとんどない。
というか、華美でない装飾もほとんどないと言っていいくらいだ。
それでも素材はいいものが使われているそうで、縁側というのか、この掃き出し窓の上に端から端まで渡されているのは、一本の杉の木から切り出したものだという。
この建物は、一度は移築されており、その移築先で建て替えを計画していたときに「これは相当いい素材を使った建物だから壊してしまうのは勿体ない」という話になり、色々調べて実は徳川昭武の家でした、と判明したらしい。
調べてみようと考え、由来を探そうとした人たちは偉すぎると思う。
そうして、元の場所にそっくり移築され直して今の姿になったようだ。
さらに、そうして移築されて戻った後、当時の持ち主(誰だったか忘れた)が行政にそっくり寄付したことで、当時の建築がそのまま保存され残されることができたのだという。
何人もの「慧眼」を持った方々のお陰で今こうして見学できているという訳だ。
縁側というか廊下の向こうに手水鉢があった。
しかし、遠い。廊下というか、屋内からは届かない遠さである。どうやって使っていたのか謎だ。
外から上がってくるときに使っていたという可能性もあるけれど、普通、この家で暮らしている人は玄関から家に入ってくるだろう。
玄関といえば、この家には玄関が二つあった。
家族及び来客が使う玄関と、使用人が使う玄関とが隣り合って分かれている。
何というか、明治時代以降も「身分」というものは結局残り続けていたのだなと思う。
この家のガラス戸に使われているガラスは明治時代に作られたものだという。
若干、波打っていて、ガラスを通してみると少しばかり歪んで見える。
現在の技術では同じようなガラスは作れないそうだ。
数少ない「装飾」の一つが、この丸窓である。
他にもあと1〜2カ所、同じような丸窓が作られていて、女性のお部屋に限られていたと思う。
ガイドさんが「この丸窓の曲線が女性的ですね」と説明していた記憶である。
また、窓の下の棚の引き戸は屋久杉で作られ、その上に渡された板はケヤキの一枚板である。
そういう風にガイドさんから説明があり、同じ説明が何カ所かであったから、それは贅沢なことなのだと思う。
「畳一畳弱くらいの大きさのケヤキの一枚板」や「屋久杉で作られた引き戸の扉」の価値が今ひとつ分かっておらず、こういう説明があるくらいだから、相当にお高い珍しい材なのだろうなと思うだけである。
説明のしがいのない見学者で本当に申し訳ない。
この戸定邸で一番装飾性の高いところが湯殿の天井と聞いて驚く。
湯殿といえばお風呂場である。そんな湿度の高そうな湯気で傷みそうな場所に装飾を施してどうするんだと思う。
炉を切っているような四畳半の和室のように杉の天井板が配置され。真ん中の半畳部分は木の皮(だと思う)で網代が組まれている。
建造当時、お風呂といえばかけ湯が通常だったそうで、湯船は後の時代に追加されたのではないかというお話だった。
どちらにしても湯殿「棟」で渡り廊下で行くことになる。行く途中も、コンクリート剥き出しの床である湯殿自体も、もの凄く寒そうだ。
そもそもこの建物自体、5cm超えていそうだけれどこれも隙間と言っていいのか? と迷うくらいの隙間があって、冬はもの凄く寒そうである。
余りにも寒いから、徳川昭武は入浴が嫌いだったらしい。気の毒である。
戸定邸の庭先にはフタバアオイが植えられていた。
徳川家の「葵の御紋」のデザインのモデルになった植物だ。春先には葉の下に隠れるようにピンクの小さな花が咲くらしい。なかなか健気な花である。
そして、そのフタバアオイが欄間の透かし彫りの装飾にも使われている。
顕示欲の表れなのか、家への忠義が深いということなのか、その他様々な思惑があるのか、権力の近くにいた人は大変だなと思う。
欄間の透かし彫りは他の意匠もあり、その一つがコウモリである。
コウモリと聞くと夜の生き物で若干不吉な感じもあるけれど、「蝙蝠」と漢字で書くと「福」のつくりの部分が含まれていることから、幸福を招くとされていたという。
その意匠を使者の人が待機するお部屋に用意したというのは、なかなか心憎い配慮だと思う。
この他、写真を撮り忘れ板らしいけれど、見どころとして建物の中に作られた内蔵がある。
建物の内部に作られるのは珍しいそうだ。
天井板が貼られていて見えないが2階建てになっており、その2階部分には武器がしまわれていたそうだ。
実際に入っていた訳ではなさそうだけれど「関連展示」的に、中には長持ちが置かれていた。黒光りして三つ葉葵が飾られ、参勤交代で運ばれていそうな長持ちである。
そういえば、徳川御三家は参勤交代の対象だっただろうか。きっと歴史の授業で習っただろうに全く思い出せない。
庭園に出て東屋に行ってみたところ、やはり富士山を見ることはできなかった。
これだけ晴天でも見えないのだから、見るとしたら午前中か、夕日に浮かぶシルエットを狙うのがいいかも知れない。
その代わり、木々の間から霞んだ空にスカイツリーの姿を見ることができた。
流石に近い。
庭園を一周し、戸定邸の見学を終えた。
庭園だけなら無料で入ることができ、散歩されている方も見かけた。
毎月0(ゼロ)の付く日には、芝生の庭に降りることもできるという。(降りることができるという案内だったので、戸定邸に見学料250円を支払って入館する必要があるのかも知れない。)
また、今回は行かなかったけれど敷地内には資料館もあり、戸定邸の見学とのセット券も販売されていた。
結構、楽しめた。
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