2021.11.16

「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」行く

 2021年11月16日、東京都美術館で2021年9月18日から12月22日まで開催されているゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセントに行って来た。
 日時指定の予約制で、当日予約枠も設けているものの「行ったときに空いている直近の枠」を案内されるようで、当日予約の場合は時刻を選べないようだし、売り切れになることもあるようだ。
 実際、私が行ったとき、午後0時30分くらいに到着した時に「15時30分の枠をご案内しています」と張り紙があり、午後2時30分過ぎに出たときには「本日の当日予約は全て終了」というような張り紙が出ていたと思う。

 「ヘレーネって誰?」と思っていたら、フルネームでヘレーネ・クレラー・ミュラー女史は、実業家である夫アントンの支えで(要するにお金で)近代絵画の収集を行い、広く公開しようと美術館を開設した女性だという。
 彼女の個人コレクションを収めたクレラー・ミュラー美術館は、オランダにある。
 オランダのかなり田舎にあるらしい。いつかぜひ行ってみたいと思う。

 ヘレーネ女史は、まだ評価されていなかった頃からゴッホの絵を収集し、「集めようと思って集めた」収集家としては世界最大だそうである。
 集めようと思って集めた訳ではない収集家は、恐らくゴッホの甥のティオとその妻子で、ティオが相続した絵画はそのままオランダのゴッホ美術館に永久貸与されている。
 そのゴッホ美術館からも「特別出品」という感じで4点の油彩画が来日している。
 何にせよ、贅沢な空間であり、コレクションであったことは間違いない。

 美術展の最初は、ヘレーネ女史と、彼女の絵画収集・鑑賞の師であるところおH.P .ブレマーウジの肖像画で始まる。
 もちろん、ゴッホの筆ではない。
 しかし、ゴッホ「後」の肖像画だと思うと随分と画面が暗いような気がする。その頃もやはり「重厚な」肖像画が好まれていたということだろうか。
 そして、ゴッホの作品から1点だけ「療養院の庭の小道」という絵がトップに置かれている。
 なぜこの絵をここに持ってきたんだろう? と思わせる配置である。

 続く部屋には、「ゴッホ」外の画家たちの絵が展示されている。
 ヘレーネ女史の鑑賞眼と選択眼を示すべく、ミレーからルノワール、スーラ、ブラック、モンドリアンと19世紀後半から20世紀初頭にかけての彼女のお眼鏡に叶った絵たちである。
 財力があるってすごいと思うべきか、定評のない絵もあり画家もいただろうに、師の指導と己の好みで絵を買いまくって、そのコレクションが後世から垂涎の的となるってすごいことだよと思う。

 そして、ゴッホの絵がシンプルに描かれた年代順に展示されて行く。
 このシンプルさは非常に好ましい。1880年代前半は主に素描である。「画家たるもの素描ができてなんぼだ」とゴッホは考えていたらしい。
 「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」のように描きこまれた絵もあれば、「コーヒーを飲む老人」など「油彩画と同じようなニュアンスが黒一色で出されている絵もあり、その黒もさまざまな画材を組み合わせたり、茶やグレーで彩色が施されていたり、「黒と光」を描くべく工夫を重ねていたことが分かる。

 しかしそこはゴッホで、光よりも「黒」の印象が強いし勝っているように思う。
 私は「籠に腰掛けて嘆く女」が好きだった。かなり暗い主題の絵だし、画面も相当に暗いけれど、何だか心惹かれる絵だ。そして、顔は全く見えていないので全く私の思い込みに過ぎないけれど、この女性はきっと美形に違いないと思う。
 この素描の部屋がやけに引力が強くて、うっかり、じっくりと見てしまい、ゴッホ展のために持っていたエネルギーの3分の2くらいを持って行かれたような気がした。

 オランダ時代に描いた油彩画は、恐らくは当時の流行りというか定番に則っていて、肖像画を始めとして暗い画面の絵が多い。
 それでも「ゴッホらしい」のか? よくわからない。
 それにしても「テーブルに着く女」という絵などとにかく画面全体がほぼ真っ黒かつ真っ暗で、ほのかな明かりに浮かび上がるようにして、女性がテーブルの前に置かれた椅子に腰掛けている様子が何とか分かる、という感じの絵である。極端すぎる。
 ゴッホが「光」を描くときは、それは、暗闇に呑み込まれそうな光だったのかなぁと思う。

 パリに出た後の絵は、一転して画面が明るくなる。
 ただこの明るさもかなり「白っぽい」明るさで、単純な私が思い描くゴッホの絵の感じとは異なっている。
 明るいというよりも白っぽい。何となくぼんやりとした薄明かりの中、ものの境界がはっきりしない感じの明るさの絵たちだ。
 普通に花瓶に生けた花の絵があるのが不思議だ。そういえば、「ひまわり」はなかったけれど、そもそもヘレーネ女史が「ひまわり」を購入しなかったのか、来日しなかっただけなのか、どちらだろう。

 この次のお部屋ではゴッホ美術館から来た作品4点をまとめると同時に、オランダ時代からアルル時代までを一足飛びに一気に見せる。

 そして、改めてアルル時代の絵が並ぶ。
 「レモンの籠と瓶」という絵では、籠の編み目とレモンの両方に赤で輪郭線が惹かれていて、少し前にポーラ美術館で見た風景画を思い出した。すでにタイトルも忘れているその絵では、木々が赤いラインで描かれていたと思う。
 ミレーの絵を写した、でもゴッホにしか描けないだろう「種まく人」のカラフルバージョンというか、パステルカラーバージョンの絵もあって、最初の頃に展示されていたミレーの絵の暗さとの差を思ってくらくらする。

 でも、私が「ゴッホの絵」とイメージする絵は、おおむね、サン=レミ時代にあったらしい。
 この展覧会の白眉ともいえる「夜のプロヴァンスの田舎道」にすっくと立つ糸杉の木の迫力ももちろんだけれども、「サン=レミの療養院の庭」の暴力的なくらいの緑がひどく印象的だった。
 ゴッホといえば青と黄色というイメージが強かったけれど、そういえば青と黄色を混ぜれば緑だし、と訳の分からないことを思ったくらいだ。

 以上、幕である。

 ミュージアムショップがものすごく充実していて、どれもこれも欲しくなって困った。
 いや、ここは使うものだけを買おうよと己に言い聞かせ、それでも5000円以上使ってしまった。
 ゴッホ恐るべし、である。

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2021.10.30

「ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス」に行く

 2021年10月30日、Bunkamura ザ・ミュージアムで2021年9月18日から11月23日まで開催されているポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランスに行って来た。
 土日祝日のみ時間指定の予約制を採用しており、昨日サイトを見たときにはほとんど空いていたのに、今日のお昼前に見たらお昼前後を除いて全て予約不能となっていて驚いた。お天気もいいし、美術展に行こうか、という気分になった人が多かったのかなぁと思う。
 それでも結構な混雑具合で、これが時間指定でなかったらもっと混雑していたのだなぁと思う。

 全5章で構成されていて、比較的コンパクトな美術展だと思う。
 そこに、私でも半分くらいは名前を知っている28人の画家の作品を揃えている。
 全ての絵画に解説が付けられている美術展は珍しいのではないだろうか。今回、音声ガイドは借りなかったけれど、それでもいいかなという充実ぶりだった。

 また、「当時のパリ」をテーマにしたコラムのパネルがあったり、絵が描かれた当時に(恐らく)パリで使われていたお化粧道具等のガラス製品も併せて展示されていたことも「ちょっと違う」ポイントだったと思う。
 小さめの作品がガラスケースに入っていて、上から覗き込む感じになっていたので目立たなかったものの、ガレやラリックの作品もあって、決して「刺身のツマ」ではなかったと思う。

 美術展のスタートはモネの睡蓮で、やはりクロード・モネは「印象派」の中心なんだなと思う。
 クロード・モネという画家を親しく感じられるのは、原田マハの「ジヴェルニーの昼食」という短編集のおかげだ。この短編集にはマティスやピカソも登場し、ちょうどこの美術展の登場人物たちと重なる。興味深い。

 この美術展の解説では、割と「明るい」という説明が多かったと思う。
 多かったけれど、「これが明るいか?」と首を傾げてしまうことも多かった。そういえば、印象派以降の絵画が展示されているからそう感じるのであって、例えばレンブラントの絵がこの美術展の中に含まれていたら、それは異様に暗く見えたに違いない。
 それにしても、あまりにも「明るい」と言われたので、紛れもなく明るい絵に目が行った。
 例えば、モネならば、「睡蓮」よりも「散歩」の方が断然明るい。

 モネの「散歩」が(私にとって)好印象なのは、スコンという感じの抜け感があったからだと思う。
 地平線が遠くにある感じというか、遠くまで見通せる感じというか、そういう広がりがある。さらに色彩が明るければ、それは解放感あふれるという印象になるに決まっている。
 モネは、「サン=ラザール駅の線路」や「花咲く堤、アルジャントゥイユ」といった絵に機関車や工場地帯を絵に描き込んでいて、「散歩」にはそういう煙を黙々と吐き出す感じとは正反対のうららかさがあったことも「好きだわ」と思った理由だと思う。

 モネの絵があったお部屋には、もう一角「ルノワール・コーナー」とでも言いたくなる感じでルノワールの絵も同じくらいの点数が展示されていた。「レースの帽子の少女」の絵など、柔らかで可愛らしくてこの絵を嫌う人とか絶対にいないよ、というくらいの作品だと思う。
 でも、ここで私がもう1枚気になったのは「エヌリー街道の眺め」というピサロの風景画だった。
 この絵でも、エヌリー街道だと思われる道が絵の真ん中上方に描かれていて、その道が木々の間を遠くまで続いて行く感じがやっぱり「抜けてる」感じがして、ちょっと息を吐けるように思えた。

 その後、ポスト印象派として、セザンヌ、ゴーガン(ゴーギャンと書いてもらった方がイメージしやすい。もしかして別人、ということはないと思う。)、ゴッホらの絵が続く。
 ゴッホの「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」は「おぉ!久々に明るい絵になったよ」というくらい明るい絵で、こちらも手前に大きく川面が描かれ、橋の向こうに青く低い空がずっと続いている、抜け感のある景色が絵があkれている。
 近寄りすぎると「ちょっと浮いてない?」と思うくらいの赤い色で描かれた木や橋の上の人物の服などが、少し離れてみるとアクセントとして効いてくる。不思議な感じだった。

 「抜け感」とか言っていると風景画にしか目が行かなそうだけれども、ピカソの「花売り」の絵は、絵に地平線(水平線か?)が引かれているためか、使われている色が原色多めのためか、子供が描きそうな太陽が光っている(しかし、その光は青の線で描かれている)からか、平面っぽいというか書き割りのような背景にも関わらず、「ふーっ」というよりも「ほーっ」という感じの息が出た。

 ところで誰の絵を見ているときに思ったのか忘れてしまったけれど、画家ごとにまとめられている絵が、なぜかその画家が描いた順ではない順番に並んでいて、時々混乱した。
 章構成が時代順になっているので、個々の画家の絵を並べるときも描いた順になっている方が有難い。この美術展は1枚1枚の絵に解説がついていて、そこでは時代背景や画家の変化も記載されているので、余計に時系列になっているといいなと思ったりした。

 印象派が生まれたパリは、「芸術の都」となり、若い画家たちが集まってきて「パリ派」的なものを構成したという。
 とはいっても、統一的な主張とか特徴とかがあるわけではなく、むしろ逆に、この当時のパリに惹きつけられてそれぞれ独自の進化を遂げた画家たち、という位置付けなのかも知れない。
 ここに、ユトリロ、モディリアニ、マリー・ローランサン、シャガールと並んで来て、統一感的なものは思い浮かばない。やはり「同じ時期にパリにいた」という点をめちゃめちゃクローズアップしているのだと思う。
 なにしろ、この美術展のテーマは「女性像」と「フランス各地への旅」と、そして「パリ」である。

 そのパリを描いた絵では、デュフィのそのものずばり「パリ」と題された、パリのランドマークを縦長の画面に4枚描き屏風のように仕立てた絵が面白かった。
 エッフェル塔と、凱旋門と、(多分)オペラ座と、(多分)ノートルダム寺院だけ分かって、あとの場所が分からなかったのがちょっと悔しい。コンコルド広場のオベリスクが描かれていなくて、1937年頃にはあまり注目されていなかったのか、デュフィという画家からあまり好かれていなかったのか、ちょっと残念だった。

 最初に「雰囲気が似てるかも」と思ったシャガールの「オペラ座の人々」の方が、不気味さがあって、その「自分の頭を投げている芸人」が描かれちゃうような不気味さ故か、ぼんやりと霞の中に続く感じで、これまで感じたのとは別の抜け感があって面白かった。
 何というか、地面や空が続いて行くというよりは、霧の中を通って全く違う世界とか夢の中とかに繋がっている感じがあると思う。

 友人と会ったり旅行に行ったり美術展に来たりといったことがなかなかできない時期が2年近く続いていて、それが意外とストレスになっているのか、一度「抜け感」という言葉を思い浮かべてしまったら、ついついその視点からばかり見てしまった。
 そういう風に見るのもありなんじゃないかと思っている。
 でも、この美術展に出品されていた中で1枚購入するなら、ちょっと画面が暗いと思いつつも、ルノワールのアネモネの絵かなぁと思っている。とてもとても買えないけれども、妄想するくらいいいよね、と思う。

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2021.07.04

「イサム・ノグチ 発見の道」へ行く

 2021年7月3日、東京都美術館で2021年4月24日から8月29日まで開催されているイサム・ノグチ 発見の道に行って来た。
 空きがあれば当日でも入れるが、事前予約が推奨されている。私は当日、30分前くらいにネットで予約してから向かった。どちらかというと、向かいながら予約した、というのが近い。

 どんな芸術も「分からない」ながら、彫刻ってホントに分からないと思い、珍しくイヤホンガイドを借りた。
 イヤホンガイドは2種類用意されていて、「何が違うんですか?」と聞いてみたら、片方は解説、片方は解説なしでBGMとして聴くように音楽が入っているらしい。
 もちろん、解説の方を借りる。

 展示は3フロアに別れていて、そのうちの「第1章 彫刻の宇宙」と「第2章 かろみの世界」では写真撮影がOKだった。ちょっと嬉しい。
 そして「第3章 石の庭」で構成されている。
 順路はなく、好きなように見て行けばよい。彫刻は壁際に並べられているのではなく、「点在している」という感じだ。なかなか好ましい。

20210703_161154-2 入ってすぐは、とにかく「あかり」が圧巻である。
 いや、「圧巻」という言葉からイメージされる重厚さというか重さはない。
 むしろ、素材は紙だし、明かりが灯ったり消えたりして、いずれも柔らかな変化だし、下に敷かれた白い小石(白砂というには粒が大きいと思う)があって、ちょっとお祭りっぽい感じも、和室っぽい感じも、バルーンフェスティバルっぽい感じもある。

 入口から見ると、その手前に「黒い太陽」が置かれていて、色といい素材といい、対照的だ。
 いきなり、びっくりだ。
 広い空間に主に金属で作られた彫刻が点在しているのもいい。

20210703_162248-220210703_161703-2 私が主にそういう作品に惹かれたからか、音声ガイドが多く取り上げていたからか、曲線で柔らかな印象が強い。
 そして、タイトルが面白い。
 「不思議な鳥」とか「ヴォイド」とか、名付けられている。

 イサム・ノグチ氏のインタビュー映像が流されていた。
 晩年の録画だったようで、失礼ながら「こういうお爺さんだったのか!」と思った。
 そして、流ちょうに日本語でインタビューに応えていて、この作品タイトルたちも日本語で付けられたのかしら、それとも英語でつけて和訳されたのかしらと思う。
 何というか、タイトルと一体として作品、という感じがする。

 一方、展示としては、作品のすぐ近くには名前や製作年等の情報は表示されていない。
 作品に近い壁に、フォルム付きで作品名や製作年や素材などの情報が表示されている。
 こういう展示方法は初めてだ。
 名前と一体だけれど、まずはそういう先入観なしで見て貰いたいということかも知れない。

20210703_162417-2 結構好きな感じだったのがこちらのティーカップだ。
 ティーカップも作っていたんだ! と思う。
 もっとも、会場では、私は「片口」だと思って見ていた。口ではなく持ち手だったらしい。
 そういう「誤解」もありだよねーと勝手に思う。
 割と音声ガイドが「イサム・ノグチと日本との関わり」とか「アイデンティティ」等に焦点を当てていたので、それで発想が日本的な方に引っ張られたのかも知れない。

20210703_163434-220210703_163545-2

 第2章の「かろみの世界」で真っ先に目に入るのは、この赤い遊具である。
 ここだけ、色がある。(実際は違うけれども、そういう感じがする。)
 遊具らしい。
 今の公園に置けるかどうかは微妙かも知れないけれど、遊具である。
 何だかもう、そう聞いてしまうと、よじ登ってみたくて仕方がなかった。よじ登るのは無理にしても、ちょっと触ってみたい。
 つるつるして冷たい感じなのか、触ってみればざらっとして体温くらいなのか、気になる。鋼鉄製らしいから冷たいような気がする。

20210703_164516-2 作品群の中で唯一実際に触れることができたのは、このソファとオットマンだ。
 座ることができる。
 だから誰かは必ず座っていて、人がいなくなるのを大分待って写真を撮った。我ながら執念深い。
 もちろん、実際に座ってもみた。
 座面が低くて、リラックスするためのソファという感じがする。許されるものなら寝転がってみたかった。

 しかしこのフロアのメインは、「溶融亜鉛メッキ鋼板」を素材として作られた彫刻の数々である。
 そして「雨の山」とか「マグリットの石」とか「原子の積み藁」とか「座禅」とか、哲学っぽい作品名が付けられている。
 表面に浮かぶ模様は偶然に生まれるものらしい。
 そして、ちょっと折り紙っぽい感じがする。
 抽象的な作品名の作品が多い中「リス」の彫刻がなかなか可愛かった。このソファから見えるところに置かれていて、作品としてなかなかの特等席にいたのも良かった。

 第3章の「石の庭」は撮影禁止である。理由はよく分からない。
 タイトルのとおり、石を素材として作られた作品が置かれている。
 割ったまま、石として在ったときのままっぽい、ざらざらデコボコしたところと、パッと割って磨き上げた真っ平らな面とが組み合わされている作品が多かった、と思う。

 この石の庭の作品だけでなく、イサム・ノグチの作品って、本当に触って見たいという欲求を生むよなぁと思う。
 触ったらもちろんいけない訳だけれど、触って見たい。触りたい。手触りを確認したい。
 無題の作品が多かったのは、アトリエに残された発表していない作品だったからかなぁと思う。
 会場では、香川県のイサム・ノグチ庭園美術館を紹介する映像が流されていて、益々行ってみたくなった。

20210703_172322-2 閉館時間ぎりぎりまでいたので、ミュージアムショップに行く直前のところで、誰もいない「第1章」のお部屋を見ることができた。
 静かだけど温かい感じがする。
 こういうところを独り占めするって贅沢だろうなぁと思う。今、中に入りたい。

 ミュージアムショップでは、イサム・ノグチがデザインしたというコーヒーテーブルや、明かりの数々が販売されていた。
 かなり欲しくなったけれど、どちらも置く場所がない。
 コーヒーテーブルは受注生産だそうだ。
 私の一生の野望の一つに「イサム・ノグチのコーヒーテーブルと明かりが似合う部屋で暮らす」が加わった。

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2021.03.04

「佐藤可士和展」に行く

 2021年3月4日、国立新美術館で2021年2月3日から5月10日まで開催されている佐藤可士和展に行って来た。

 展示物自体が大きいこともあってかなりゆとりを持った展示がされており、かつ時間指定のチケットが販売されているため、かなりゆっくりのんびり見ることができた。
 動画撮影はNGだけれど、写真はほぼすべての展示室で撮ることができた。

 また、音声ガイドが変わっていた。
 QRコードが用意され、そこで読み込むと各自のスマホ等で音声ガイドを聞くことができる仕組みが用意されていた。こういう形の音声ガイドは、少なくとも私は初めてだ。
 イヤホンを持っている人はそれを使っていたし、「人との空間を保って聞いてください」という案内があり、人同士の距離を保つための工夫という面もあるのかなと思った。

 音声ガイドの半分くらいは佐藤可士和氏本人が語っていて、存命の人の美術展等にあまり行ったことがないからかも知れないけれど、これも初めての体験だった。
 贅沢だし、興味深い。

202103043 佐藤可士和といえばロゴである、というイメージが強い。
 美術展では「ブランディング」という言葉がよく使われていて、ロゴデザインに限らず企業イメージ全体をプロデュースする、というような意味で使われていたように思う。
 そもそも、国立新美術館のロゴ(恐らく、その他の様々なことを含めて)からして、佐藤可士和氏の作品である。

 展示の最初は、「6 ICONS」で、寡聞にして私は知らなかったのだけれど、佐藤可士和氏の原点というべき作品であるらしい。
 6つのアイコンは、全て「自分」を表現しているらしい、と受け取ったけれど正しかったろうか。
 大学の頃だったか卒業したての頃だったか、Macを使っていたそうで、当時のMacは起動しているときに読み込んだ機能拡張等のアイコンを画面下に並べて行っていて、これがコマーシャルだと理解した、という風にご本人がイヤホンガイドで語っていた、と思う。

 私は全く「創造」的なことには使っていないけれど、でも一応のMac userとして、発想の最初がMacだったというのが何だか嬉しい気がした。
 そうそう、あのアイコンたちって可愛かったよね、いつから並ばなくなっちゃったのかしら、と思ったりもした。

 展示も、LOFTもクリスマスカラーのショッピングバッグから、SMAPのCD販売戦略(でいいのか?)から、本の装丁から、TUTAYAのロゴから、ユニクロのニューヨーク&ロンドン(だったか?)進出から、今治タオルの起死回生策から、ふじようちえんの改築から、とにかく様々な「ブランディング」の成果が並んでいる。
 CDジャケットや麒麟麦酒の缶が並んでいたり、くら寿司の店内の様子がどんと大きく写真パネルで示されたり、つかだの鶏の絵の看板(多分、実物)が立て掛けられていたり、セブンイレブンのプライベートブランド商品のパッケージが壁一面に貼ってあったり、見ている側の人の動きと今検索されている言葉を融合させたインスタレーションがあったり、とにかく幅広い。

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 そういった「いつも目にする」物を見ているためなのか、写真パネルが多かったからなのか、本人が語るイヤホンガイドを聞いているからなのか、美術展を見ているとき、「何だかテレビを見ているみたいだな」と感じた。
 自分の目で今見ているし、そこにあることも分かっているのだけれど、こちらに能動的に見る余地が少ないからなのか、テレビを見ているように次々に差し出されるものを見せられている、という印象になったのかも知れない。
 よく分からない。

 でも、今思い返しても、やっぱりテレビを見ているようだったな、と思う。

 LINES/FLOWというお部屋が一番「美術展」ぽかったように思う。
 直線というのは自然界には存在していない、だからこそ直線に美を感じる、というコンセプトだったと思う。
 確かに人の手が加わっていない真っ直ぐなものってないかも、と思う。そんなことは考えたこともなかった。

 ここで、赤と青と銀色の3色を使うことに何かの意味があるんだろうなと思う。
 そういえば、佐藤可士和氏の作品にはこの3色を使っているものが多いように思う。
 そもそも、会場となっている国立新美術館のロゴだって赤である。楽天もユニクロも赤と白というイメージだ。

 ユニクロの場合は、世界に進出するに当たって「日本発」を強調したいというオーナーの意思があったという説明があったから、国旗のカラーリングということもあったのかなぁとは思う。
 赤と白という組み合わせは「日本ぽい」んだろうか。そしてそれは、日本人にとってというだけでなく、外国から見てもそういうイメージなんだろうか。

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 FLOWの方は、重力と動力だけで画材というか染料というかをキャンバスに落とすというか散らすというか、そうして「触れることなく」描いた作品である。
 こちらには直線はない。
 そして、白地に青で描かれている。
 この「青」は、ジャパンブルーを狙った藍ではなく、有田焼の釉薬の青の色をそのまま写し取ったのかしらと思う。

 自然界の造形を人工物に写し取る・移し替えるというと、ガウディの建築が思い浮かぶ。デザインと「重力」という言葉が繋がるところも何となくガウディっぽい。
 遠いところにありそうな感じを匂わせつつ、ふとしたところで繋がっている(ように感じられる)ところが楽しい。

 音声ガイドを丁寧に聞いたこともあって、1時間半近くの時間を過ごした。
 ゆっくり鑑賞できて良かった。

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2020.09.22

「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」に行く

 2020年9月16日、東京都美術館で2020年7月23日から今日(9月22日)まで開催されているThe UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクションに行って来た。

 元々の開催機関が9月13日までだったところを10日間延長し、かつ、20分刻みの日時指定チケットが採用されていた。
 9月初旬にチケットを購入したときには、各日各回30〜40枚くらいのチケットがまだ残っていたところ、実際に行ってみるとチケット完売の張り紙が出ていた。
 いいタイミングでチケットを購入したのかも知れないと思う。

 太田記念美術館、日本浮世絵博物館、平木浮世絵財団の浮世絵コレクションが集められた展覧会は初めてだそうだ。このうち、私が行ったことがあるのは太田記念美術館だけだ。
 8月25日を境に、前期と後期で展示作品を総入れ替えしたそうで、前期も行きたかったと思うけれど後の祭りである。
 出品総数約450点ということだから、半分を見られたとして225点、これはかなりの出展数だ。私は美術展に行くと1時間くらいで見終わることが多いけれど、今回は気がついたら1時間半経っていた。

 200点以上を1枚1枚見ることなんて想像できない。
 「菱川師宣」「鈴木春信」「喜多川歌麿」「東洲斎写楽」「葛飾北斎」「渓斎英泉」「歌川広重」といった、私でも名前を知っている浮世絵師達の絵を中心に、他はちらりと見るくらいで回ったのに、1時間半である。

 日時指定チケットではあるものの、「だから空いている」ということもなかった。
 最前列で絵を見ようとすると、辛抱強く列になって見て行くほかない、というくらいの入場者数だ。
 これだと、イヤホンガイドがある絵の前では渋滞が起きるし、近づいたり離れたり角度を変えたりして見ることが難しいので、どうしても最前列で近づいて見たいという絵の他は、一重から二重の人垣の後ろから絵を見ていた。

 もうとにかく色々な絵がありすぎて、見て歩きながら「ところで浮世絵って何だっけ?」と思っていた。
 実のところ、今でもよく分からない。本展のホームページを見ると「浮世絵は、江戸時代の庶民たちに愛好された、日本を代表する芸術の一ジャンルです。」と書いてあるのみで、それで、「どういう絵が浮世絵なの?」という疑問への答えはない。
 それくらい、色々なタイプの絵があったということである。

 この展覧会は5部構成になっていて、3フロアで展開されていた。
 「第1章 初期浮世絵」では、役者絵もあったし、吉原を描いた絵もあったし、美人絵もあった。最初の最初は墨一色で描いていたようで、そのうち赤が乗り始める。
 江戸庶民の「自分では体験できない憧れ」を絵にして飾れるようにしたことが始まり、ということだろうか。
 ここで菱川師宣と出会える。
 色々な絵がありすぎて、最初の方に見た絵などは地味すぎて、「それで、結局のところ浮世絵って何?」という疑問が浮かんだ。

 第2章 錦絵の誕生では、私のイメージしている「浮世絵」に近づいて、何だかほっとした。
 個人的に贅を尽くしたものを求める人が増えたということで、多色刷りが始まり、画面が華やかになっていったようだ。
 風景を描いた絵の中に遠近法を極端に用いたものがあって(ここだったと思う。作者も絵のタイトルも覚えていない)、こういう西洋画の手法を取り入れたのは葛飾北斎が最初だと思っていたよ、と驚いた。モノを知らないと、あちこちに驚きの種が溢れている。
また、ここに来て背景が描いてあったり塗ってあったりするのを見て、草創期の浮世絵の素っ気なさは背景がなかったり一部だけだったりしたせいか! と思った。

 鈴木春信も描いていた瀬川菊之丞という役者の絵がこの後も結構展示してあって、相当の人気役者だったのね、ここで描かれている瀬川菊之丞は一人じゃなくて「*代目」という感じで複数いるんだろうなぁ、そういえばJINにも同名の歌舞伎役者さんが描かれていたな等々と思う。
 北斎の師匠であった勝川春章もこの時代の人だ。
 写楽の役者絵は、徹頭徹尾異端で写楽だけのものかと思っていたら、全身ではなく役者の顔をどアップで捉えた絵も描いていて、こちらもちょっと驚いた。
 やはり積み重ねというものはあるんだよなと思う。

 第3章 美人画・役者絵の展開では、画面がより一層華やかになる。敢えて言い換えると、派手好みだ。
 ここはもう喜多川歌麿の美人画と、東洲斎写楽の役者絵である。
 美人画は、江戸時代の美人はこういう女性たちだったのね、という感じだ。というか、目鼻立ち以上に、お着物だったり髪だったり仕草や表情だったりの雰囲気美人がもてはやされていたのでは? という印象だ。あと、表情もポイントだったような気がする。

 写楽の役者絵は、背景を黒く塗り、かつその背景がきらきらと光っているところで勝負あったという感じだ。
 これが刷り立てで、もっと黒くてもっとキラキラが目立っていたら、さぞや派手、さぞや非日常だったんだろうなぁと思う。「欠点も特徴として大胆に描いた」的な説明が多い写楽の役者絵だけれど、別に欠点を赤裸々にしているようには見えない。当時の一般的な美男美女では亡いかも知れないし、多くの絵が盛っている中では目立ったのかも知れないけれど、役者じゃん、芸を際立たせようとする絵じゃん、と思う。

 第4章 多様化する表現は、私の中では地味目のコーナーだった。
 最初に北斎の絵が3枚あって、その後が続かなかったので「物足りない!」と心の中で叫んでしまったくらいだ。
 団扇用の絵が面白くて、この絵は実際に使ったのかしら、実際につかうのだとすると版画という手法は同じ絵をたくさん作るのに向いているよな、道具にまで浮世絵が広がってきたということは、誰にでも手に取れるものになったということかしら、と思ったりした。

 第5章 自然描写と物語の世界で、葛飾北斎の富嶽三十六景と歌川広重の東海道五十三次が出てくると、とりあえず満足だよ、という気分になる。
 気のせいか、北斎の絵の青や赤がくすんでいるように見えて、そこだけちょっと残念だった。五十三次の絵の方が保存状態が良い感じに見えた。
 藍一色で描いた絵もあって、墨一色で始まった浮世絵が、散々豪華絢爛を極めた後で藍一色に戻るって何だか気が利いている感じだわと思う。もっとも、「藍一色」の方は、敢えて表現として選んでいるのだから、一緒にしてはいけないのかも知れない。

 とにかく盛りだくさんすぎて、「色々なものを見た!」という印象が強すぎて、もやもやしている感想を書くのが難しい。
 そういう「浮世絵展」だった。
 浮世絵って何? の答えは、「浮世絵って何でもありなのね!」でいいような気がした。

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2020.06.24

「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」に行く

 2020年6月24日、国立西洋美術館で2020年6月18日から10月18日まで開催されているロンドン・ナショナル・ギャラリー展に行って来た。

 元々は2020年3月3日から6月14日まで国立西洋美術館で開催される予定で、新型コロナウイルス感染症対策のため、会期が延長になっていた。このまま国立西洋美術館では開催されなくなってしまうのではないかと心配していたので、開催されて嬉しい。

 6月18日からの会期では、事前に日時指定のチケットを購入する必要がある。
 当日券の販売はない。
 この先どうなるか分からないのだから、行けるときに行っておいた方が良い。
 週末のチケットは売り切れ必至だろうと、平日のチケットを購入した。実際に行ってみると「本日のチケットは完売」の掲示がされていた。

 日時指定ではあっても完全入れ替え制ではない。
 それでも、普段の週末に行くのとは雲泥の差で、じっくりゆっくり見ることができた。
 入口でのアルコール消毒を促され、マスクは必携(だと思う)、館内のベンチは一人置きに座るよう表示され(二人掛けのベンチは一人用になる)、ミュージアムショップは入口で入店者数を調整していた。

 ロンドン・ナショナル・ギャラリーがまとまった数の絵画を貸し出すことは今回が初めてだそうだ。
 今回来日した61点は全て「日本初公開」である。

 全体は、以下の構成になっている。

Ⅰ イタリア・ルネサンス絵画の収集
 この部屋の印象は「マグダラのマリアが目立っている」に尽きた。
 絵としては、「聖絵ミディ薄を伴う受胎告知」がくっきり鮮やかだし、大きいし、細かく描きこまれていて、目立つ。マリアにだけ届いている光が、ほとんど「円盤から発射されたビーム」に見えるところも面白かった。

Ⅱ オランダ絵画の黄金時代
 私が「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」に行きたいと思ったのは、フェルメールの「ヴァージナルノ前に座る若い女性」が初来日するからだ。
 その絵が、ここにある。
 何だか色々と描き込まれたごちゃっとした絵だな、という印象だ。その中で、若い女が来ている白い服の袖だけがやけに目立っている。
 フェルメールが一人の人間のつま先から(ドレスで見えない)頭まで描くのは珍しいのではなかろうか。

 もう一点の見どころが、レンブラントの自画像だと思う。
 何というか、初めて見る筈なのに「見慣れた自画像だ」という印象になるのが可笑しい。多分、レンブラントが何点も自画像を描いていて、かつ、どの絵も描かれた本人の年齢が違っていたとしても、「俺はひとかどの人物なんだ」というコンセプトが同じだからだと思う。
 今回来日しているのは「34歳の自画像」である。

Ⅲ ヴァン・ダイクとイギリス肖像画
 ヴァン・ダイクという画家は確かオランダ人だったと思うけれど、イギリスに長く滞在して肖像画家として活躍したそうだ。
 彼が「イギリス肖像画界」に与えた影響はかなり大きい、らしい。
 この人が描いた「レディ・エリザベス・シンベビーと アンドーヴァー子爵夫人ドロシー」は「妹が先に嫁に行くことになった姉妹」の絵で、そう説明されると何だか色々と想像できそうでありつつ、描かれた二人の女性は別にどろどろしたものを感じさせない風で良かったと思う。

Ⅳ グランド・ツアー
 18世紀のイギリスのお金持ちかつ身分が高い人々の間では、イタリアなどに若者を武者修行(というよりは、もうちょっとお金持ちな「可愛い子には旅をさせろ」的な雰囲気)に出すことが流行っていたそうだ。
 そうして外国に出た余裕のある若者たちは、お土産として現地の絵を購入したり、現地の文物と自分の絵を描かせたりして、イギリスに持ち帰ったらしい。
 ヨーロッパ大陸から離れたイギリスだから、外国への憧れ的なものも強かったのかしらと思う。
 多分、「吾こそは」という気概はその何倍も強かったに違いない。

Ⅴ スペイン絵画の発見
 遠い割に「お互い、海運と海軍で世界征服を目指している」ところで共感と敵愾心を持った国同士、という位置づけらしい。
 スペイン独立戦争にイギリスが参戦したことを契機に絵画面の交流も始まり、将であったウエリントン将軍をゴヤが描いた「ウエリントン公爵」という絵が小さくて地味な割に大きく扱われている。
 「裸のマハ」「着衣のマハ」を想像しているとうっちゃられる感じだ。
 ベラスケスにせよ、エル・グレコにせよ、私が持っているイメージよりずっと地味目の絵が来日していた。

Ⅵ 風景画とピクチャレスク
 一番よく分からなかった部屋である。
 理想的な風景って何なんだ、と思う。

Ⅶ イギリスにおけるフランス近代美術受容
 要するに(もの凄く乱暴に書くと)印象派である。イギリスで印象派の絵の収集が始まったのは20世紀に入ってからだそうで、人気がなかったんだなぁと思う。かつ、後発でこれだけの絵を集めたということは、20世紀初頭のイギリスは本当にお金持ちだったんだなとも思う。

 モネの「睡蓮の池」の絵が、「こんなに明るい睡蓮の絵は初めてかも」というくらい明るい印象で好ましい。
 ゴッホの「ひまわり」は、アルルでゴッホが描いた7枚のひまわりのうちサインを入れた2枚のうちの1枚だそうだ。ゴーギャンの寝室に飾られたというし、「会心の一枚」ということだと思う。モネの「睡蓮」とは別の明るさがある。ただ、こちらは、暗さを内包した明るさ、という感じがした。

 という感じで、1時間弱、堪能した。
 見られないかもと思っていた絵画展をじっくりゆっくり見ることができて嬉しかった。

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2020.01.05

「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」に行く

 2020年1月、江戸東京博物館で2019年11月19日から2020年1月19日までまで開催されている大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演に行って来た。

 1月4日の午前10時半過ぎに到着したところ「混雑しています」の看板が出ており、チケット売り場も20人弱くらいの行列になっていた。
 あと2週間弱だし、駆け込みで年末年始のお休みに来た人が多かったのだと思う。浮世絵って何だかお正月っぽい感じもある。

 タイトルのとおり、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳の5人の浮世絵が展示されていた。
 3人で1時間後に出口で待ち合わせしましょうと確認して見始める。

 しかし、結構な行列で常に二重三重の列が絵の前を進んでいる感じである。
 これは最初から見ていたら見終わらないだろうと思い、また入口付近は大抵混雑しているので歌麿を飛ばし、写楽のコーナーから見始めた。

 写楽が最初に出した28枚の役者絵からの浮世絵が中心だった、と思う。
 役者の特徴を強調しすぎるくらい強調し、顔は大きく手は小さく、背景は黒雲母刷という派手なシリーズである。
 その筈だけれど、こちらが見慣れてしまったのか「ぎょっ」とするような感じは受けなかった。
 むしろ、「こんなに小さかったっけ?」「意外と地味?」という印象である。

 やはり悪役を描いた絵が楽しい。
 何というか「写楽らしい」感じがする。

 同じ浮世絵で別の美術館に所蔵されているものが2枚並べて展示されているものもある。
 刷りの違いなのか、保存の違いなのか、色の残り方や背景の割れ方が全く違う。赤味の残り方で役者の顔の印象も全く違っていて驚く。
 中でも、4 代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛は、2点で着物の色が違っていて、こういうのもあったんだと驚いた。片方は赤い着物、もう片方は青い着物だから、本当に違う。
 私はどちらかというと青い着物の方が他の赤味(目元)が目立って格好いいんじゃないかと思った。

 続いて葛飾北斎のコーナーである。
 富嶽三十六景、諸国瀧廻り、諸国名橋奇覧、千絵の海から出展されていて、テーマは「水」のようだ。
 こうしてみると、富嶽三十六景って水とともに富士山の絵を描いていることが多いのだなぁと思う。
 以前に波の様子を高速カメラで撮ったところ、波しぶきの先端が北斎の描く波とほぼ同じ形をしていた、というテレビ番組を見たことを思い出した。
 葛飾北斎の真骨頂は、その観察力にあるのかも知れない。
 きっと、凄く目のいい人だったんだろうなぁと思ったりする。

 そういえば、今、パスポートを作るとスタンプを押すページに富嶽三十六景が描かれているのではなかったろうか。
 サイトを見ると、「神奈川沖浪裏」の説明として「世界で最も有名な絵」と書いてあり、だからこそのパスポートへの採用なんだろうなと思ったりした。

 景色の浮世絵が多い中、数枚、植物を描いた絵も展示されていて、その中の芥子の花の絵には、この神奈川沖浪裏との構図の類似が指摘されていた。要するに、北斎はこういう構図が単に好きだったんじゃないかしらとも思う。
 北斎の浮世絵は西洋画に大きな影響を与えたと言われ、一方で遠近法は恐らく北斎が西洋画から学んだもので、交流って大事、と思う。
 前にドラマで北斎がラピスラズリを絵の具に使うというようなシーンがあったけど、版画にも使っていたのかしらなどとも思った。

 もうこの二者を見ただけで30分以上が過ぎていたので、歌川広重の浮世絵は「葛飾北斎と同じ場所を描いた」という絵を中心に見た。
 気のせいか、広重の浮世絵の方が色がくっきりと残っているものが多いように感じた。
 元々、くっきりはっきりした絵を描く人なのかも知れない。

 ついでに言うと、構図の選び方としては北斎よりもむしろ広重の方が好きかも、と思った。
 極端な遠近の使い方というか、もの凄く近くにあるものとかなり遠くにあるものとを組み合わせている絵が結構ある。その極端さはかなり好みだ。
 深川万年橋の亀をどアップで描き欄干の間から隅田川を望む絵なんて本当に好みである。

 1時間では全然時間が足りなくて、結局、歌麿と国芳はほとんど見られず仕舞いだった、勿体ない。
 もっとゆっくり見に行けたら良かったなぁと思っている。
 しかし、お正月に浮世絵を見るというのもなかなかいい感じの新年の始まりだったわと思っている。

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2019.11.27

「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」に行く

 2019年11月、横浜美術館で2019年9月21日から2020年1月13日までまで開催されているオランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たちに行って来た。

 横浜美術館に行ったのは初めてである。
 KAATで芝居を見た翌日、せっかく横浜まで来て宿泊もしたのだからと、10時の開館に合わせて出かけた。開館10分前に到着したら、「チケットを持っている人」と「チケットを持っていない人」を併せて30人くらいが並んでいたと思う。
 チケットは予め購入しておいた方が良さそうである。

 「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」は、サブタイトルのとおり、画家ごとに作品が展示され、「13人」以外の画家の作品は全く展示されていない。
 ちなみに、13人の画家は以下のとおりである。

 アルフレッド・シスレー 1点
 クロード・モネ 1点
 オーギュスト・ルノワール 8点
 ポール・セザンヌ 5点 
 アンリ・ルソー 4点
 アンリ・マティス 7点
 パブロ・ピカソ 6点
 アメディオ・モディリアニ 3点
 キース・ヴァン・ドンゲン 1点
 アンドレ・ドラン 13点
 マリー・ローランサン 5点
 モーリス・ユトリロ 6点
 シャイム・スーティン 8点

 ドンゲン、ドラン、スーティンの3人は、私は今回初めて名前を意識した。
 この13人の選出の基準は何だろうと思う。

 一つは、オランジュリー美術館のコレクションの基礎となるコレクションを築いた、ポール・ギョームとの関係(彼が好んでいたか、彼の肖像を描いていたか)というところにあるような気がする。
 画家に注目しているように見せて、実はこの美術展の中心は、画商であったポール・ギョームにあるように感じた。

 そもそも、オランジュリー美術館のコレクションの名前が、ポール・ギョームの夫人ドメニカの夫二人の名前であるとも言える。
 こう書くとややこしい。
 ポール・ギョームとドメニカの夫婦は美術品をコレクションし、邸宅美術館を開館したいという希望を持っており、ポール・ギョームの死後もドメニカは美術品のコレクションを続け(ついでに、気に入らないものは売り払い)、再婚もした、ということになると思う。
 この邸宅美術館の発想は、アンティーク家具も好んでいたというドメニカ夫人の希望が強かったんじゃないかしらと思った。

 ちらしなどにはルノワールの「ピアノを弾く少女たち」が使われていたけれど、今回出展された絵はいわゆる「習作」である。
 ルノワールは国家の依頼を受けて描くことになり、今回出展された絵を含め6枚の習作を描いたらしい。
 確かに、人物はいかにもルノワールな少女たちだけれど、背景などを見るとそもそも絵の具が乗っていない箇所もある。雰囲気を見るために、真っ白だと寂しいので人物の周りだけ色を付けてみました、という感じに見える。

 ルノワールの作品では、ピアノの少女たちよりも、私は「バラをさしたブロンドの女」の方が可愛いと思った。
 タイトルが「女」だから、ピアノの前にいる少女達よりも年上なのかも知れない。
 絵全体がバラ色で描かれていて、暖かい雰囲気の、可愛らしい少女(に見える)の絵だ。何というか、この絵が飾ってあったらその部屋はとても幸せそうな部屋だと思う。

 ルノワールは、1点しかなくて寂しかったクロード・モネとともに、印象派の画家としては珍しく「生前に成功した」画家なんだなと思った。
 ルノワールは国家の依頼で絵を描いているし、モネだって、オランジュリー美術館にある睡蓮の絵はフランス国家が買い上げて展示しているものだ(ったと思う)。

 アンリ・ルソーの絵を見た感想は「みんな、おじさんだよ!」に尽きた。
 「人形を持つ子ども」というタイトルの絵もあったし、集合写真みたいな「婚礼」という絵もあって老若男女が揃っていたけれど、顔だけみると、全員が同じ「おじさん」の顔に見えてくる。
 それも、あまり好ましいとは言えない雰囲気のおじさんである。
 どうしてまたこんな顔に揃えちゃったんだろう、と思った。

 パブロ・ピカソの絵はドメニカがあまり好んでいなかったらしく、結構売り払われてしまったらしい。
 勿体ないことである。
 それでも売り払われなかった絵たちは購入したポール・ギョームの先見性を証明しているといった説明板があって、そういうものかしらと思ったりもした。
 そういう説明があると、逆に、この企画展を企画した人は、ドメニカがあんまり好きじゃないのかしらとも思えてくる。好き嫌いというよりは「評価するかしないか」ということなのかも知れない。

 ポール・ギョームの肖像も色々な画家が描いていて、モディリアニが描いた肖像は20代の頃のギョームだと説明があったにも関わらず、どう見ても50歳になるくらいのおじさんに見えて、可笑しかった。
 多分、若い頃から老けていて、そのうち実年齢が外見を追い越していくタイプの人だったんだろうなぁと思う。

 ポール・ギョームの肖像といえば、アンドレ・ドランの描いた「アルルカンとピエロ」という絵の説明板に「ピエロのモデルはポール・ギョームと書いてあったけれど、私には描かれた二人のうちどちらがピエロなのか、どちらがポール・ギョームなのか、判別ができなかった。
 ピエロとアルルカンの違いは何なのか。
 写真も肖像画も何枚も見て来ているのに、「どっちがポール・ギョームをモデルにしているか」という意味でも区別ができなかった。
 この辺りが、私の顔覚えの悪さに繋がるんだわと一人で納得した。

 ポール・ギョームはドランを気に入っていたらしく、自宅の壁の一部をドランの絵で埋めていたらしい。
 そのうちの何枚か(私が確認できたのは3枚)を、自宅の壁と同じ配置で展示し、その向かい側にポール・ギョームの自宅の一室の写真を展示しているのが面白い試みだと思った。
 この美術展では、ポール・ギョームの自宅内部を復元したドールハウス(ドールなし)も展示されていて、それもなかなか楽しい。
 こういう美術館(とりあえず思い浮かぶのは、イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館である)に行ってみたいなぁと思う。

 マリー・ローランサンの絵は、私にとってはイラストに近い。
 シャネルの肖像画がブルーを基調にしていて、ちょっと寂しげな色使いで、でもなかなか可愛らしかった。
 しかし、ドランの描いたドメニカの絵が「岩下志麻さんだ!」と思ったくらい強気な女性に描かれているのに比べて、マリー・ローランサンの描くドメニカはピンクを基調にさらに可愛らしく描かれていたから、マリー・ローランサンは何でも可愛く描いちゃう人だったのかも知れないと勝手なことを考えた。

 ユトリロの作品の中に、ノートルダム大聖堂を描いた絵があって、今は本物はないんだよなぁとしみじみと見入ってしまった。
 そういえば、ノートルダム大聖堂の再建は今どういう状況になっていただろうか。
 美術展に寄付を受付する場所があれば、結構、集まったのじゃないかしらとこれまた勝手なことを考えたりした。
 できれば、元の姿に戻す形で再建されるといいなぁと思う。ただ、骨格部分は木造だったとニュースで見たような記憶もあり、耐震や耐火のことを考えると「完全に元に」戻すのは難しだろうなとも思う。

 1時間以上かけてゆっくり堪能した。
 久々に美術展に出かけて、やっぱり、たまには美術展にも行こうと思った。

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2019.02.23

「フェルメール展」に行く

フェルメール展 2019年2月、大阪市立美術館で2019年2月16日から5月12日までまで開催されているフェルメール展に行って来た。

 東京展の前半に行っており、1月9日から展示された「取り持ち女」と大阪展にのみやってくる「恋文」を見るのが目的である。
 何しろ、私の「一生の野望」のうちの一つが「フェルメール作品をすべて見る」なのだ。
 日本国内で未見のフェルエール作品を見られる機会を逃すわけには行かない。

 大阪展では日時指定チケットは採用されておらず、それならば早いうちの方が混雑しないだろうという思惑もあり、また、4月以降は職場が変わることがほぼ確定しているため予定が立てづらかったこともあり、年度内に行って来た。

 平日の10時半頃に到着したところ、美術館に向かう人の列が出来ており、入場ではほとんど並ばなかったものの、最初の部屋から結構な人だかりができていた。
 「日時指定チケットを採用しないということはそれほど混雑しないという主催側の判断なのだろう」と思っていたら、それはどうやら違っていたらしい。
 体力が尽きる前にと、今回もフェルメール作品が展示されている部屋に直行した。

 まず最初の部屋には、「マルタとマリアの家のキリスト」と「取り持ち女」が展示されていた。
 この2枚、大きさがほぼ同じである。
 「取り持ち女」も初期の作品だということなので、フェルメールは画業を始めた頃は大きな絵を描いていたということなんだろうか。

 「取り持ち女」は日本に初めてやってきたフェルメール作品である。
 絵のタイトルは画家本人が付けた訳ではないようだし、訳による違いもあるとは思うけれど、この絵は昔は「遣り手婆」というタイトルで紹介されていなかっただろうか。
 どちらにしても普段使わない言葉だけれど、今どき「遣り手婆」はないだろうと誰かが思ったに違いない。

 それにしても、最初の印象は「大きな絵だな」ということに尽きる。
 そして、大きな絵の場合、見る側も何となく拡散して見ることになるので、ちょっとゆったりしているのが嬉しい。
 近寄ってみると、随分と絵の表面が傷んでいるように見える。ひび割れも見える。
 絵の下半分を覆っている布の質感が何とも言えない。

 しかし、全体を眺められる位置から見ると、何というかバランスが悪いようにも感じられる。
 下半分はひたすら「布」である。
 絵には4人の人物が描かれているのに、彼らの下半身は全く見えていないし描かれていない。
 そして、絵の上半分に人の上半身が4人分にょきっと並び、しかも何故か向かって左側にぎゅっと詰まっていて、画面右側に隙間がある。
 何だか気持ち悪い。

 この画面右の隙間のお陰で、赤い服の男と黄色い服の女が絵の中央に寄り、赤い服の男が指に挟んでいる金貨に目が行くようになっている、ような気もする。
 そして、全身黒ずくめの「取り持ち女」とフェルメール自身ではないかとも言われている左端の男も黒い服で、画面の奥に引っ込んでいるようにも見える。
 その割に、左端の男は4人の中で唯一歯を見せていて、そういう意味では目立っている。
 不思議な感じの絵だ。

 その次の部屋に、手紙を書く女、手紙を書く夫人と召使い、リュートを調弦する女と、私のお目当ての「恋文」が展示されていた。
 この部屋には、フェルメール作品以外の作品も展示されている。

 「恋文」は随分と饒舌な絵だ。
 でも、それは「結果として饒舌」なのではなく、狙って色々と画家が語らせているように見える。絵を見る人の想像力に委ねたというのではなく、「ほーら、色々と思わせぶりでしょう」と言っている画家の姿が後ろに透けているような構図だと思う。

 画面の左側は半開きのドア(だと思った)に隠され、画面右側がどうなっているのか何遍見てもよく判らなかったけれど、多分、壁の前に椅子が置かれているのではないかと思う。
 奥の部屋をそのドアと壁の間から覗いている。
 奥の部屋は明るく、召使いの女性が女主人に手紙を渡している。
 タイトルからして、その手紙は女主人宛の恋文という解釈が一般的なんだと思う。

 そうかな? と思う。じゃあ何だと思うんだと言われても困るけれど、そうかなぁ、と思ったのは本当である。
 ついでに言うと、私には召使いの女性の表情は、悪辣に見える。手紙を受け取る女主人の顔を意地悪く観察しているように見える。女主人の困惑なのか迷惑そうな感じなのか、むしろこの女主人の表情は小さな驚きだけを表していると思っていて、その心の動きを意地悪く眺めているような気がする。

 あと、この絵を見て思ったのは、この黄色い洋服の全身像を見られたのは初めてかも、ということだった。
 「真珠の首飾りの女」でも上半身は見られる。というか、ワンピースに上着を羽織っている感じなんだろうか。スカート部分と上着の部分の布が同じ布のような気がした。
 でも、家に帰ってから絵はがきをよくよく見たら、上着とスカートの色や布の感じはやっぱり違うようだ。そうすると、この絵の中の女性のコーディネートということなのか。
 女主人の黄色と、召使いの女性の青と、この絵は二人でこの二色を分け合っている。
 
 また、この絵は、小物が多い。
 女主人に渡されている手紙はもちろん、女主人が持っている楽器、手前の床に放置されている黒っぽい踵のあるサンダル(でも高そうには見えない)、モップなのかほうきなのかとにかく掃除道具、椅子、椅子の上に置かれた楽譜、奥の壁に掛けられた比較的「何が描かれているか」が見えやすい2枚の絵などなどだ。
 そのモノの多さが「饒舌」という感じをさらに生むのだろうと思う。

 ほぼこの2枚の絵だけで45分。
 近寄ったり遠くから眺めたり、たっぷり堪能した。

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2019.01.15

「石川直樹 この星の光の地図を写す」に行く

写真展入口 2018年1月、新国立劇場でお芝居を観た後、2019年1月12日から3月24日まで、東京オペラシティギャラリーで開催されている「石川直樹 この星の光の地図を写す」という写真展に行って来た。

 写真展内は、個人の方が写っている写真以外は写真撮影OKだった。
 しかし、写真のパネルは照明などなどが映り込んでしまい、撮影するのはかなり難しい。
 何枚かチャレンジしたものの、これという写真は撮ることができなかった。

 石川直樹氏については全く予備知識はなく、たまたま手に取った情報誌に写真展の内容が掲載されていて、ちょうど新国立劇場でお芝居を観る予定があったので、これは行けということねと思い行くことを決めた。

 北極点から南極点まで歩いたり、様々な地域を「冒険」している石川氏が撮った写真がテーマごとに展示されていた。
 K2に登ったときの動画をテントの中で見ることができたり、羅臼岳に登ったときの動画が「オリジナル」として流されていたり、写真だけでなく「動く」展示もある。

 国境で「分けられている」陸地に対し、ポリネシアの海では島々が海を介してゆるやかに繋がっているという発見といえばいいのか、考え方により、その「つながり」を映した写真の連作もあった。
 極地を中心に円を描くような「つながり」を追った中に、クィーンシャーロット島のトーテムポールの写真が1枚だけあったのが嬉しい。

 写真は鮮やかかつくっきりとした写真が多かった。
 昔、フィルムカメラで撮った写真をプリントするとき「光沢」と「絹目」から選べたと思う。あの「光沢」を存分に活かしているという感じ。ブレていても、霧がかかっていても、そこにぼんやりした写真はなかったように思う。
 実際、デジタルカメラは使わないそうだ。
 極地や高地での撮影が多いということも理由のうちなのかなと思う。

 やはり、人を撮った写真がいい。
 カメラをまっすぐに見つめている子供の写真はやはり印象的だ。

 展示の最後にご本人の部屋っぽく作ったコーナーがあった。
 旅の装備品や、これまで読んだ本(なのだと思う)、各地で購入したりもらったりした思い出の品などなどが展示され、本人の直筆コメント(だと思う)が書かれている。
 人の本棚を見るのは楽しい。
 思わず長居をしてしまう。

 真っ白な部屋、紺色の壁に照明を落とした部屋など、変化のあるバックに、様々な地域の写真を見ることができ、まだ見たことのない世界のあちこちを堪能した。

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