2022.09.04

「国立新美術館開館15周年記念 李禹煥」に行く

 2022年9月2日、久々に会う友人に声をかけてもらい、国立新美術館で2022年8月10日から11月7日まで開催されている「国立新美術館開館15周年記念 李禹煥」に行って来た。
 ルートヴィヒ美術館展からのハシゴである。二つ合わせて1時間半で回った。なかなか贅沢な時間だ。

 こちらの美術展は時間指定制にはなっていないようだった。
 金曜日の18時半に入ったためか会場は空いていて、全く密になることはなかった。この美術展は人が少ないときにゆっくりゆったり見る方が楽しいと思うので、時期と曜日と時間を選んで行くといいと思う。

 李禹煥氏は韓国で生まれ、ソウル大学校美術大学入学後に来日し、日本で「もの派」を牽引したことで広く知られている、そうだ。
 「もの派」という言葉も初めて聞いたし、李禹煥氏の名前も今回初めて知った私にはちんぷんかんぷんの説明である。
 2010年に、香川県の直島に「李禹煥美術館」が開館しているそうだ。

 本展には、油彩画あり、絵ではない「何か」ありで、不思議な空間である。
 何というか、説明が難しい。
 なーんにも知らず分からないまま、置いてあった「李禹煥鑑賞ガイド」も面白そうだともらったもののその場では読まずに進んだ。
 それでも面白いって凄いと思う。

 「大きなキャンバスに蛍光塗料をスプレーでがーっと吹きつけまくったでしょう!」という絵に三方から囲まれるとかなりふわっとした感じになる。
 小砂利を敷き詰めた部屋に入って歩くと、自分の足音が何と大きく響くのだろうとびっくりする。

 大きな岩が厚いガラスの上に置かれていて、しかしガラスにはヒビが入り一部は割れている。大きな岩を大きなガラス板に落としたように見えるけれど、どうやって持ち上げたのよ! と思う。
 思っていたら、公式サイトにメイキング映像が掲載されていた。迫力だ。ぜひこの映像は音入りで見たかった。

 長瀞の岩畳みたいな石が一面に敷き詰められたお部屋に入ると、足下でその石が揺れたり鳴ったりする。これはこの音も「作品」だよなと思う。よく分からないけど、敷き詰められた石よりも、「音」が作品のように感じられる。
 何となく友人と点対称の位置にで外周をゆっくり回ってしまった。可笑しい。そして楽しい。
 この美術展には、ハイヒールで来てはいけないと思う。

 屋外展示もあって、かなり広い面積に小石が敷き詰められていた。どうやって持ってきたんでしょう、どうやって持って帰るんでしょう、新作だそうだけど、この後この展示はどこに行くのでしょう、と思う。
 この屋外展示は、夜見たときと昼みたときと夏見たときと雪の日に見たときと雨の中見たときと、それぞれで印象が異なるのだろうなぁと思う。できれば、雪景色を見てみたかった。

 恐らくは制作年代順に展示されており、進むにつれて、油彩画が戻り、点が延々と押されていたり(消しゴムはんこのようだと思った。多分、違う)、線が延々と引かれていたり、そういうシステマティックな絵が続いたかと思うと、ランダムにしゅっと筆を走らせたかのような絵が出てくる。
 あまりタイトルを見なかったので定かではないけれど、「風より」だったか「風とともに」というタイトルのモノクロでランダムに線をシュッと走らせたような絵が好きだった。「私の部屋の壁紙、これでいいわ」とか不遜なことを考える。

 グラデーションでどうみても湯飲みの形を描いた絵が続き、最後には、キャンバスではなく、この美術展の壁に湯飲み(に見えて仕方がない)が直接描かれていた。
 この作品の制作過程も、メイキング映像で見ることができた。
 この作品も、この美術展終了後にどこへ行くのか気になるところだ。

 会場の外にも作品があり、そちらも小石が敷かれた作品の中に「入る」ことができる。
 国立新美術館の煌々とした明かりをバックに、お隣の建物の明かりが木々の影を作っていたりして、こちらも昼と夜とでは雰囲気が全然違うのだろうなぁと思う。

 静かで面白い美術展だった。
 彼女に誘ってもらわなければ行くことはなかったと思う。
 めちゃくちゃ、得した気分である。ありがとう!

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2022.09.03

「ルートヴィヒ美術館展 20世紀美術の軌跡―市民が創った珠玉のコレクション」に行く

 2022年9月2日、久々に会う友人に声をかけてもらい、国立新美術館で2022年6月29日から9月26日まで開催されている「ルートヴィヒ美術館展 20世紀美術の軌跡―市民が創った珠玉のコレクション」に行って来た。
 ルートヴィヒ美術館は、ドイツのケルン市が運営する美術館で、「市民のコレクターたちによる寄贈を軸に」形成されたコレクションを持っているという。
 ・・・と説明してくれた彼女も「私もよく分かっていないんですけど」と笑っていた。
 コレクションの多くは20世紀の作品のようだ。

 日付指定制だったけれど、招待券をいただいたので、事前予約は必要なかったようだ。その辺りの仕組みはよく分からなかったものの、金曜日の18時半に入ったためか会場は空いていて、全く密になることはなかった。
 金曜夜の美術館もいいものだわと思った。
 最初は並んで見始めたものの、話しながら見るのも憚られ、そのうち夫々のペースで勝手に見るようになった。この辺りの呼吸が有り難い。

 「序章 ルートヴィヒ美術館とその支援者たち」では、アンディ・ウォーホルの描いた、この美術館の館名にもなっている「ペーター・ルートヴィヒの肖像」がカラフルで大きくてなかなか優しそうな顔のおじさまで目を引いた。
 ルートヴィヒ夫妻はどちらも美術史を学んでいて、妻の家の事業に成功し、早くから美術品収集を始めていたという。
 この美術館だけでなく、世界各地の美術館にコレクションを寄贈しているらしい。お金持ちって凄い。

 「第1章 ドイツ・モダニズム 新たな芸術表現を求めて」というタイトルで、油絵から写真から彫刻まで、時間と変化を追えるようになっている。
 眠り猫のような猫の像(意思に見えたけれど木製だったらしい)がなかなか可愛らしい。
 もの凄く地味な「陶酔の道化師」というタイトルのクレーの油彩画があって、このセピアな地味な感じの絵だったら、我が家に持ち帰って飾れるんじゃないかしらと勝手なことを考えた。

 第1章でもう一つ気に入ったのが、「菓子職人」というタイトルのモノクロ写真で、かなりでっぷりとしたコック服のおじさんがオーブン(だったような気がする)の前に立ち、カメラをにらみつけている写真である。
 ぜひこの絵はがきが欲しかったのだけれど、意外と「絵はがき」の種類が少なくて、残念ながら入手できなかった。
 会場から出てみたら、大きく引き延ばされて宣伝というか目印に使われていて、やっぱりいい写真だよなー、としみじみ眺めた。

 「第2章 ロシア・アヴァンギャルド−芸術における革命的確信」では、今の時期にロシアというのは何となく微妙な感じがする、という気持ちと、アヴァンギャルドって言葉は聞いたことあるけど意味知らないよ、という二つの感想がまず浮かんだ。
 今調べたら、アヴァンギャルドは「前衛」という意味らしい。「前衛」も、耳にはするけど意味がよく分からない言葉の一つだ。
 アレクサンドル・ロトチェンコという人の写真が多く飾られていて、絵を描くより写真を撮る方が少なくとも時間はかからないし、たくさん作品を生み出せるよなぁと当たり前のことを思ったりした。

 「第3章 ピカソとその周辺ー色と形の解放」の最初の1枚がシャガールで、それが版画ではなく油彩画だったのがびっくりだった。
 「妹の肖像」というタイトルのその絵は、地味で暗くてデフォルメはほぼなくて、シャガールと聞いて頭に浮かぶあの絵の感じとは全く似ても似つかない。
 章タイトルのとおりピカソ絵も何点かあって、これまた地味にモノクロの「グラスとカップ」という絵が気になった。持ち手がついた形はカップとして、グラスはどこかしらと探してしまった。いや、でも持ち手が付いていた器はガラスっぽい感じに描かれていたから、そちらがグラスかも知れない。

 「第4章 シュルレアリスムから抽象へー大戦後のヨーロッパとアメリカ」の辺りから、「何か、分からない感じのタイトルが多くなってきたわー」と思っていた。
 特にこの辺りは、名前を知らない作家の作品ばかりだったからかも知れない。
 個人からの寄贈という作品も多くて、寄贈を受け入れて美術館に飾るか否かの基準は何なのかしらと思ったりした。

 「第5章 ポップ・アートと日常のリアリティ」には、全く「日常のリアリティ」を感じないまま通り過ぎた。
 「女たちは美しい」というシリーズの写真があって、街中にいる女性の写真が並べられてあった。うーん、この女性たちって、真正面からカメラを見ている人はいいとして、歩いているところを横から撮られている人とか、写真を撮られることとか発表されることとか、ちゃんと了承しているとは思えないよなぁ、と見ていた。
 1960年代の写真だから、当時は「肖像権」もそれほど厳密には扱われていなかったのだろう。

 「第6章 前衛芸術の様相−1960年代を中心に」も、やっぱりよく分からないよと思いながら通り過ぎ、「第7章 拡張する美術−1970年代から今日まで」では、最新で2016年作品が飾られていた。
 コロナ禍前だわと思う。
 ここで「ハシビロコウ」という作品だけ、写真撮影がOKになっていた。
 最後の最後は映像作品で、何だかよく分からなかったけれど何だか面白かった。

 たまに気にすると「**からの寄贈」という記載があって、本当に個人が寄贈した作品のコレクションなんだわと再確認した。
 なかなか我々には持ちにくい感覚だと思う。
 その感覚が何よりの展示物なのかなと思った。
 前にも書いたけれど、現代に近い時代の作品が多いためか、絵はがき等のグッズになっている作品が多くなく、ちょっと残念だった。

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2022.06.26

「自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」に行く

 2022年6月26日、改装されてリニューアルオープンした国立西洋美術館で2022年6月4日から9月11日まで開催されている「国立西洋美術館リニューアルオープン記念 自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」に行って来た。

 正直なところ、リニューアル前後の違いはよく分からない。
 庭にある彫刻の配置は変わっていて、美術館入り口に向かって右手にいた「考える人」が左手に移動していた、と思う。
 あと、庭にあった門のような彫刻が姿を消していた、ような気がする。
 その他はよく分からなかった。

 美術展は日時指定制で、比較的ゆっくり見ることができた。
 「比較的」と付けたのは、コロナ禍で訪れた美術館(美術展)の中では、人が多いように感じられたからだ。同じ日時指定制であっても、1単位当たりの人数を増やしているのかも知れないと思った。

 展示室に入る前に広めのスペースがあって、そこで、今回の美術展でコラボしているドイツのフォルクヴァング美術館と国立西洋美術館とを紹介する動画が上映されていた。
 このスペースには、順路どおりに美術展を見て行って、1回、途中から戻れるようになっていた。このスペースに隣接してお手洗い等があるからだと思う。

 ここで上映されていた動画は、美術館の紹介というよりは、むしろ、それぞれの美術館の所蔵品の核を集めた個人コレクター「松方幸次郎」と「カール・エルンスト・オストハウス」を紹介する内容だった。
 何故リニューアルオープンに当たって何故フォルクヴァング美術館とのコラボをその企画に選んだか、という問いに対する答えになっていたと思う。
 この動画がなかなか興味深くて、途中から見た後、もう1回最初から全部見てしまった。

 この二人のコレクターは、ともに「人々に提供したい」という、「何となく偉そうだわ」と思ってしまった動機で美術品を集め、美術館の建設を夢見ていたそうだ。
 若干「これだからお金持ちって」という気分にもなりつつ、そういう人がいたからこそ、こういう美術館が今ここにあるというのも事実なんだよなぁと思う。

 事前にサイト等を見たときは、この美術展のメインテーマというか核になる絵は、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒが描いた「夕日の前に立つ女性」なのかなと思っていた。
 実際に見て回ったら、決してこの絵が「押し」という訳ではない感じで、非常にさりげなく展示されており、そこがちょっと意外だった。

 意外といえば、今回の美術展では、展示作品の多くが写真撮影可でそれも驚いた。
 割と、日本の美術館・美術展では珍しいと思う。
 今回の美術展に出展されていた絵の半分(実際の数は分からないけれども)が国立西洋美術館自身の所蔵作品だということも理由の一つなのかしらと思う。

 今回の美術展で思ったのは、「美術展でどの作品をどういう順番でどこに展示するのか」は、その美術展のセンスを端的に示すし、キュレーターさんの腕の見せどころなんだろうなということだった。
 普段、美術展に行ってもそんなことは特に思わないのに、何故か今回はそう思った。
 単純すぎる理由は自分で分かっていて、同じ画家の作品が違うテーマの部屋に飾られていること再々だったからだ。

 この美術展は「1 空を流れる時間」「に <彼方>への旅」「3 光の建築」「4 天と地のあいだ、循環する時間」「の4つのテーマに分けて展示されていた。
 例えば、ルノアールの作品は、「1 空を流れる時間」に「オリーヴの園」と「風景の中の三人」があり、「4 天と地のあいだ、循環する時間」に「木かげ」が飾られている。

 また、ゴッホの作品は2作品とも「4 天と地のあいだ、循環する時間」にあったけれど、隣同士という訳ではなく、このコーナーの最初と最後にあった、というくらいの位置関係だった。
 松方氏が直接モネのアトリエを訪ねて購入したという繋がりがあるからだと思うけれど、この美術展でもモネの作品はかなり多い。そして、やはり「1 空を流れる時間」と「4 天と地のあいだ、循環する時間」に分けられている。

 「1 空を流れる時間」と「4 天と地のあいだ、循環する時間」というのは、かなり似たテーマだと思う。むしろ、同じテーマの言い換えとも言えそうである。
 なのに、別のテーマとして、美術展の最初と最後に配置し、同じ画家の作品を両方に飾る。意図的である。

 その「意図」を私は察することができない。でも、何らかの意図があったのだろうなぁと思うことはできる。どうしてなんだろうと思うこともできる。
 その意図を考えることは残念ながらできないけれども、これはなかなか興味深い美術展の印象だし楽しみ方なんじゃないかと思う。
そう思えただけでも良かった。

 また、今回の美術展では部屋によって壁の色が違っていた。
 紺だったり、黄色だったり、白だったりした。茶色というのもあったような気がしつつ、私の記憶は定かではない。
 どの絵をどの色の壁に飾るのか、壁の色をどう変えるのか。それもやっぱりセンスだし主張だよなぁと思う。

 出展された絵画ももちろん楽しめたと思うけれど、印象としては「美術展」についてつい考えてしまうような美術展だった。
 「刈られている麦が人のように思える」とゴッホが書き残してるということもあって、「刈り入れ」というその絵が印象に残っている。でも、逆に、そう聞いてしまうと、例えば家に飾って毎日見るのは辛いなぁと思う。
 家に飾るならクレーの「月の出」というタイトルの絵(版画だったかも知れない)が欲しいなぁと思った。

 ところで、美術展の入り口辺りに大抵は置いてある展示作品リストを、今回、いただきそびれてしまった。
 どこに置いてあったのだろう? 素通りしてしまった音声ガイドの受付辺りにあったのだろうか。
 どこかにないかなぁと思いつつ歩いていてするっと出てしまい、スタッフの方に「展示作品のリストをいただけませんか?」と聞いたところ、「チケットをお持ちですか?」と尋ねられ、インフォメーションでチケットを提示していただくことができた。
 チケットを持っていなければ展示リストはもらえないということを、今回初めて知った。
 そういえば、これまでも、美術展の受付を入った後(大抵は、美術展の入口でコンセプトを説明している説明板の辺り)に置いてあったような気がする。
 次回から、気をつけようと思う。

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2022.03.13

「メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年」に行く

 2022年2月18日、国立新美術館で2022年2月10日から4月3日まで開催されているメトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年に行って来た。
 日時指定制で、ゆっくり見ることができた。

 メトロポリタン美術館のヨーロッパ絵画部門の常設展ギャラリーが改修中で、そのお陰で65点中46点が初来日という絵画展が実現したそうだ。ラッキーである。
 「西洋絵画の500年」ということで、I. 信仰とルネサンス、II. 絶対主義と啓蒙主義の時代、III. 革命と人々のための芸術、と時代を追って見られるように構成されている。

 最初の「信仰とルネサンス」では、宗教画でありつつ遠近法などを取り入れて現実に即した絵、が中心である。題材をキリスト教に求める一方で、登場する人物がその時代の人々の洋服を着ていたり、背景がその時代の景色だったりする。
 二次元のぺたっとした模様のような絵ではなくて、奥にいる人は小さく奥にあるものは小さく描かれて、絵に奥行きがある。

 そういった解説を読みつつ、「何だかやたらとくっきりした絵たちだな」と思いながら見ていた。
 特に人物を中心にクローズアップしている絵では、やたらとその人物(特に中心人物)がくっきりはっきり、ぼやけたところなど全くないような感じで描かれていて、いっそ浮き出てくるくらいの印象がある。
 明るいといえば明るい画面ではあるけれど、逆に、テーマが宗教であることも手伝って、気持ち悪いくらいに思ってしまった。
 この時代の絵を私が見慣れていない、ということもあると思う。

 ほぼ唯一「確実に聞いたことがあるよ!」と思ったのは、エル・グレコである。
 私の持っている偏ったイメージどおり、やけに暗い、暗い中に光が射して強調されている箇所が激しく強調されている絵である。
 出品された「羊飼いの礼拝」という絵では、説明書きによると、真ん中にいる嬰児のイエス・キリストが白い光を発しているくらいだ。もっとも、私にはこの「光を発している」というのはよく分からなかった。画面中央が明るいのは分かるけれど、そこが光源であると解釈する理由は何なのだろう。

 次の「絶対主義と啓蒙主義の時代」に、私のお目当てのフェルメールがいる。
 絵画が権力によって保護され利用される時代から、市民が台頭して、宗教画からもう少し軽みがある、裕福な商人が家に飾れるような絵に中心が移って行く辺り、という理解でいいのかなと思う。
 この辺りの時代も、私が名前を知っていたのは、フェルメールとレンブラントの二人だけだ。

 そのフェルメールは「信仰の寓意」が初来日している。
 メトロポリタン美術館にある4つのフェルメール作品のうち、出展されているのは、この1点のみだ。
 意外と大きいな、というのが最初の印象である。
 フェルメールの絵は縦横50cmに収まるくらいというイメージがあって、この絵は縦が1mを超えている。かなり大きいという印象だ。

 フェルメールの寓意画は相当珍しいそうで、説明板にもその点が強調されて書かれていた。
 「家の中の隠れ教会」という解釈は、「寓意」にあふれつつ、左手前に布がかけられ、白と黒の市松模様の床、フェルメールブルーの衣装などなど、パーツとしては他のフェルメール作品にも登場するものたちが含まれていることから出てきたのかなと思う。
 「寓意」を生み出しているモノたちについ気をとられ、実は絵全体の印象は散漫である。「窓辺で手紙を読む女」で印象に残った質感の描き分けなど全く記憶にない。

 ただ、こちらの「メトロポリタン美術館展」は、会場も広く、「目玉」と言われるような絵がたくさん出展されていることもあり、そしてこの「信仰の寓意」という絵がフェルメールらしさが少ない絵であるということも手伝い、じっくりゆっくり見られたのが嬉しい。
 そして、このフェルメールの絵から、次の「革命と人々のための芸術」に入り、印象派の絵画にたどり着くまでの長さ(その間に展示されている絵の多さ)に、フェルメールと印象派との間の長い時間を初めて認識したような気がする。
 200年は長い。

 その「革命と人々のための芸術」の舞台は19世紀である。
 やはり19世紀末の印象派の絵がいい。いいと言うか、知っているから嬉しい。単純である。
 しかし、ルノアール、ドガ、ゴッホ、モネ、マネ、セザンヌと言われたら、それは心躍るというものである。

 ゴッホの「花咲く果樹園」という絵は、何というか私の持つゴッホのイメージからはちょっと外れている。
 アルルの絵でありつつ、明るさはあまりない。「花咲く」と銘打っている割に、果樹の足下にある草原に咲く花は慎ましく、緑に隠れるようである。果樹の背景にある曇り空からわずかに青空が覗いている。そういう絵だ。
 何というか、逆に、珍しく穏やかな心持ちで描かれた絵なのかもしれない。

 モネ晩年の「睡蓮」はすでに20世紀に入っている。
 晩年のモネは目が見えなくなっていたそうで、その見えなくなっている目に映った睡蓮は、暗く、何だか模様のようである。睡蓮の絵で飾られ囲まれた部屋を作りたかったそうで、いや、この暗い睡蓮に囲まれるのはいやだよ、どうしてもやるなら窓も大きくとって窓の外は明るい景色にしてください、と思った。

 贅沢な空間で贅沢な絵たちを見た。

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2022.02.20

「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」に行く

 2022年2月18日、東京都美術館で2022年2月10日から4月3日まで開催されているドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展に行って来た。
 日時指定制で、予約枠に余裕がある場合は当日券での入場も可能である。
 始まったばかりということもあり、当日券ですぐ入ることができた。

 私の、そして恐らくは多くの人の目当ては、修復後初めて国外に出たというフェルメールの「窓辺で手紙を読む女」だと思う。
 背後の壁が塗りつぶされたのはフェルメールの死後のことであったという調査結果が発表され、その調査に基づいて、元々描かれていたキューピッドの画中画が蘇った、という劇的な絵である。
 これは見たい。

 そして、「窓辺で手紙を読む女」が所蔵されているドレスデン国立古典絵画館から、17世紀オランダ絵画のコレクションがやってきている。
 なかなか豪華版の絵画展である。

 とはいうものの、私が名前を知っていた画家は「フェルメール」と「レンブラント」の二人だけである。
 しかも、この二人の作品はそれぞれ1点ずつしか出展されていない。
 そして、レンブラントが描いた肖像画「若きサスキアの肖像」に描かれた女性は、正直なところ、そんなに魅力的には見えなかった。将来の妻を描いた割に正直な筆致である。

 「レンブラントとオランダの肖像画」「レイデンの画家-ザクセン選帝侯たちが愛した作品」「オランダの静物画-コレクターが愛したアイテム」「オランダの風景画」「聖書の登場人物と市井の人々」と巡り、大雑把に言って「お城ではなく、広かったり邸宅だったりするのかも知れないけれど、割と普通の人のおうちに飾られた絵たちだったんじゃないかな」という印象があった。
 ものすごく大きな絵はなくて、サイズ感が割と揃っている。

 我が家には無理にしても、そこそこお金持ちのおうちに飾ることができる大きさの絵たちなのではなかろうか。美術館の広い壁に飾られていたからこちらの感覚が狂っている可能性もありつつ、印象としてはそういうふうに思った。
 そして、「ザクセン選帝侯たちが愛した作品」とその他のコーナーにある絵画に、それほど大きな印象の差がない。貴族とそれこそ「市井の人々」との間に大きな差はなくなってきた、ということなのかしらと思ったりした。

 また、フェルメールが選んだ題材や構図は、フェルメールだけのものではなかったんだわ、ということを改めて思った。
 スポットライトを浴びたような人物が一人、ちょっと東洋風というかエキゾチックな雰囲気のファブリックのある室内、レース編みをする女、といった雰囲気は当時のオランダ絵画には珍しいものではなかった、のかも知れないし、そもそもフェルメールが自分の周りにある(そして誰の周りにもある)ものを題材として選んでいたということかも知れない。

 「窓辺で手紙を読む女」は、まず調査や修復の様子を説明し、写真や動画でも見せる。
 その上で、修復された「窓辺で手紙を読む女」が登場である。
 若干、「なぜこの位置?」という場所に飾られている。向かって左側のとっつきのような場所に修復前の「窓辺で手紙を読む女」の複製画が飾られており、むしろ、本物がこっちにあった方がいいのでは? いや、修復前後の絵を少し離してでも並べて見せてくれた方が嬉しかったかも、と勝手なことを考えたりした。

 それにしても修復技術というのはすごいし、調査技術の進歩というのもすごい。
 この絵にキューピッドの画中画が描かれていることは1979年にはすでにX線調査で判明していたということだけれども、修復を進める中で修復師が溶媒への反応が違うことに気づき、サンプル調査で画中画の上に塗られた絵の具がいつ頃塗られたかということが分かるようになったのは最近ということなんだろう。
 修復師の気づきがなければ、「フェルメールが塗りつぶした」というそれまでの定説が覆ることはなかったと考えると、やっぱりすごい。

 修復された「窓辺で手紙を読む女」は、女の背後にキューピッドの絵が登場する。
 その分、絵に奥行きが生まれているように感じられる。
 キューピッドの絵が1/3くらい手前にあるカーテンに隠されることで、それまでよりもカーテンの存在感が増し(修復で明るくなったことも理由かも知れない)部屋の奥行きをより感じるようになったと思う。

 また、手前にあるテーブルクロス(というには、随分と厚手でもこもこの布地である)の、そのもこもこ感がよりパワーアップしているように思えた。
 本当にでこぼこしているように描かれていて、思わず触りたくなる。
 逆に、右手前のカーテンはやけに突っ張っているように感じられる。結構、張りのある生地が使われているカーテンで、このシワというか寄せ方をキープできそうな質感の布地である。

 不思議だったのは、修復後の「窓辺で手紙を読む女」が、修復前よりもサイズが小さくなっていることだ。
 理由はよく分からないし、特に説明もなかったと思う。
 修復前の絵は、左側にある窓の手前の木枠が見えていたし、右手前にあるカーテンの輪っかを通している棒が画面を横切っていた。
 複製画もそうなっていたし、複製版画(ドレスデン国立古典絵画館の所蔵作品を紹介するために制作された版画)でもそうなっていたから、修復前は、修復後の絵よりも左側と上側がもう少し広かった筈だ。(下は、カーテンのフリンジがぎりぎり下限にあるので変わっていないと思う。右側はよく分からないけれど、絵全体に占めるカーテンの幅からして変わっていない感じがする。)
 そこが、どうにも気持ち悪い。
 誰か、教えてほしい。

 そんなことを考えていたせいか、ど真ん中で手紙を読んでいる女をあんまり見ていなかったことに気がついた。
 女の顔よりも、窓ガラスに映った女の顔の方が気になる。
 キューピッドの絵が復活したことで、女を見るよりも絵全体を見るように視線が誘導されるようになったのかも知れない。

 キューピッドの画中画が復活し、そのキューピッドが仮面を踏みつけていることから、「誠実な愛の勝利」というメッセージが示され、女が読んでいる手紙はラブレターであるという解釈が俄然力を持ち始めるそうだ。
 絵画にメッセージを込め、メッセージが込められた絵画を飾り、そのメッセージを社交の端緒とするという、教養溢れることが当時のオランダでは行われていたらしい。

 私は、ゆっくり眺めて「美人だわ」とか「このキューピッドは可愛くないし、羽もよく見えないわ」とか、勝手なことを言ったり思ったりするので十分、と思ったりした。
 キューピッドの絵の下で手紙を読む女に出会えてよかったし、修復という仕事の一端を見られて興味深かった。。

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2021.12.26

「ザ・フィンランドデザイン展」に行く

 2021年12月24日、Bunkamura ザ・ミュージアムで2021年12月7日から2022年1月30日まで開催されているザ・フィンランドデザイン展に行って来た。
 土日祝日は時間指定の予約制を採用しているが、平日はそういった制限はない。金曜日の午後3時頃という時刻だったせいか、場内はゆったりしていて、マイペースでゆっくり見ることができた。

 フィンランドの50人前後のアーティストの作品が、1890年台のアアルトに始まって年代順に展示されている、いってみればシンプルな美術展である。
 その「デザイン」の範囲は幅広く、ガラス製品、陶磁器、家具、ファブリック、テーブルクロス、ドレス、ラグ、おもちゃまである。

 「イッタラ」「アラビア」「マリメッコ」とメーカー名は知っていても、それぞれで活躍してきたデザイナーの名前は全然知らないし、その存在を考えたこともなかったよ、と思いながら見る。
 デザイナーの一人一人(全員ではなかったかもしれない)の顔写真がその作品の近くに飾られ、デザイナー本人についての説明が作品の説明よりも長いくらいに丁寧に書かれている。面白い。

 スタッキングがしやすいように収納しやすいように考えられたガラスの食器や陶磁器の食器が並んでいる。
 ガラス製品では、大量生産のときにできやすい気泡が目立たないようにという点が工夫されているそうだ。その工夫がそのままデザインに直結している。
 また、結核患者が呼吸をしやすいように背もたれの角度を調節した木製の椅子があったりする。

 機能性を追求しつつ、あるいは、機能性を追求したからこそ、そのデザインは「洗練されている」という印象を強烈に残す。
 だからこそ、日常生活ではあまり聞くことのない、工業製品のデザイナーの名前がここまでしっかり残り、確認できるようになっているのかなと思う。

 一方で、花瓶などのガラス製品や「布」は、実用性や機能性よりも「自然を写す」ことの意識が強い作品が展示されていたように思う。
 北極圏にも入るフィンランドでは、夏はとことん日光を楽しみ野外を楽しむ。トーベ・ヤンソンが夏の休暇を過ごしているときに、家族(弟だったかも)が撮ったという写真は、開放感に溢れている。
 冬をテーマにした写真は、雪の結晶をアップで撮っていたりして、むしろ、内へ内へと入っていく感じがある。

 割とそういう「日常的に使うもの」である展示が多い中、ビーズで作られたシギのオブジェが面白かった。
 ビーズと陶器に文字盤が描かれた時計を組み合わせて、田んぼに立っていそうな鳥のオブジェが作られている。
 一般家庭には置けなさそうな大きさの置物で、これはある程度以上の広さがあるところに置いてこそ映えるんだろうなぁと思う。冬は家に押し込められてしまう北欧のおうちは、もしかしてこのオブジェを普通に置ける大きさのお宅が多いのだろうか。

 ムーミンの絵があったのも楽しかった。
 病院の壁に飾られた絵で、ムーミンと仲間たちが楽しげに階段を上がっているような絵だ。この絵を病院の階段の壁に置き、子供たちが絵を見ながら楽しく階段を上がって診察室に辿り着く、というものだという。
 どこまでも実用的な発想だ。
 同時に、何しろムーミンである。心楽しくなる工夫でもある。

 ところで、自分でも意外だったのは、ミュージアムショップで物欲がほぼ生じないことだった。
 食器や布製品など品数は少ないながら揃っていたのに、「これは欲しい!」というものが見つからなかった。
 フィンランド展だし、ミュージアムショップで爆買いしたくなったらどうしようと少しばかり心配していたところ、全く無用の心配に終わった。

 がつがつ見るのではなく、雰囲気や、フィンランドデザインに囲まれるという気分を味わう美術展だったと思う。
 ゆったり味わった。

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2021.11.16

「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」行く

 2021年11月16日、東京都美術館で2021年9月18日から12月22日まで開催されているゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセントに行って来た。
 日時指定の予約制で、当日予約枠も設けているものの「行ったときに空いている直近の枠」を案内されるようで、当日予約の場合は時刻を選べないようだし、売り切れになることもあるようだ。
 実際、私が行ったとき、午後0時30分くらいに到着した時に「15時30分の枠をご案内しています」と張り紙があり、午後2時30分過ぎに出たときには「本日の当日予約は全て終了」というような張り紙が出ていたと思う。

 「ヘレーネって誰?」と思っていたら、フルネームでヘレーネ・クレラー・ミュラー女史は、実業家である夫アントンの支えで(要するにお金で)近代絵画の収集を行い、広く公開しようと美術館を開設した女性だという。
 彼女の個人コレクションを収めたクレラー・ミュラー美術館は、オランダにある。
 オランダのかなり田舎にあるらしい。いつかぜひ行ってみたいと思う。

 ヘレーネ女史は、まだ評価されていなかった頃からゴッホの絵を収集し、「集めようと思って集めた」収集家としては世界最大だそうである。
 集めようと思って集めた訳ではない収集家は、恐らくゴッホの甥のティオとその妻子で、ティオが相続した絵画はそのままオランダのゴッホ美術館に永久貸与されている。
 そのゴッホ美術館からも「特別出品」という感じで4点の油彩画が来日している。
 何にせよ、贅沢な空間であり、コレクションであったことは間違いない。

 美術展の最初は、ヘレーネ女史と、彼女の絵画収集・鑑賞の師であるところおH.P .ブレマーウジの肖像画で始まる。
 もちろん、ゴッホの筆ではない。
 しかし、ゴッホ「後」の肖像画だと思うと随分と画面が暗いような気がする。その頃もやはり「重厚な」肖像画が好まれていたということだろうか。
 そして、ゴッホの作品から1点だけ「療養院の庭の小道」という絵がトップに置かれている。
 なぜこの絵をここに持ってきたんだろう? と思わせる配置である。

 続く部屋には、「ゴッホ」外の画家たちの絵が展示されている。
 ヘレーネ女史の鑑賞眼と選択眼を示すべく、ミレーからルノワール、スーラ、ブラック、モンドリアンと19世紀後半から20世紀初頭にかけての彼女のお眼鏡に叶った絵たちである。
 財力があるってすごいと思うべきか、定評のない絵もあり画家もいただろうに、師の指導と己の好みで絵を買いまくって、そのコレクションが後世から垂涎の的となるってすごいことだよと思う。

 そして、ゴッホの絵がシンプルに描かれた年代順に展示されて行く。
 このシンプルさは非常に好ましい。1880年代前半は主に素描である。「画家たるもの素描ができてなんぼだ」とゴッホは考えていたらしい。
 「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」のように描きこまれた絵もあれば、「コーヒーを飲む老人」など「油彩画と同じようなニュアンスが黒一色で出されている絵もあり、その黒もさまざまな画材を組み合わせたり、茶やグレーで彩色が施されていたり、「黒と光」を描くべく工夫を重ねていたことが分かる。

 しかしそこはゴッホで、光よりも「黒」の印象が強いし勝っているように思う。
 私は「籠に腰掛けて嘆く女」が好きだった。かなり暗い主題の絵だし、画面も相当に暗いけれど、何だか心惹かれる絵だ。そして、顔は全く見えていないので全く私の思い込みに過ぎないけれど、この女性はきっと美形に違いないと思う。
 この素描の部屋がやけに引力が強くて、うっかり、じっくりと見てしまい、ゴッホ展のために持っていたエネルギーの3分の2くらいを持って行かれたような気がした。

 オランダ時代に描いた油彩画は、恐らくは当時の流行りというか定番に則っていて、肖像画を始めとして暗い画面の絵が多い。
 それでも「ゴッホらしい」のか? よくわからない。
 それにしても「テーブルに着く女」という絵などとにかく画面全体がほぼ真っ黒かつ真っ暗で、ほのかな明かりに浮かび上がるようにして、女性がテーブルの前に置かれた椅子に腰掛けている様子が何とか分かる、という感じの絵である。極端すぎる。
 ゴッホが「光」を描くときは、それは、暗闇に呑み込まれそうな光だったのかなぁと思う。

 パリに出た後の絵は、一転して画面が明るくなる。
 ただこの明るさもかなり「白っぽい」明るさで、単純な私が思い描くゴッホの絵の感じとは異なっている。
 明るいというよりも白っぽい。何となくぼんやりとした薄明かりの中、ものの境界がはっきりしない感じの明るさの絵たちだ。
 普通に花瓶に生けた花の絵があるのが不思議だ。そういえば、「ひまわり」はなかったけれど、そもそもヘレーネ女史が「ひまわり」を購入しなかったのか、来日しなかっただけなのか、どちらだろう。

 この次のお部屋ではゴッホ美術館から来た作品4点をまとめると同時に、オランダ時代からアルル時代までを一足飛びに一気に見せる。

 そして、改めてアルル時代の絵が並ぶ。
 「レモンの籠と瓶」という絵では、籠の編み目とレモンの両方に赤で輪郭線が惹かれていて、少し前にポーラ美術館で見た風景画を思い出した。すでにタイトルも忘れているその絵では、木々が赤いラインで描かれていたと思う。
 ミレーの絵を写した、でもゴッホにしか描けないだろう「種まく人」のカラフルバージョンというか、パステルカラーバージョンの絵もあって、最初の頃に展示されていたミレーの絵の暗さとの差を思ってくらくらする。

 でも、私が「ゴッホの絵」とイメージする絵は、おおむね、サン=レミ時代にあったらしい。
 この展覧会の白眉ともいえる「夜のプロヴァンスの田舎道」にすっくと立つ糸杉の木の迫力ももちろんだけれども、「サン=レミの療養院の庭」の暴力的なくらいの緑がひどく印象的だった。
 ゴッホといえば青と黄色というイメージが強かったけれど、そういえば青と黄色を混ぜれば緑だし、と訳の分からないことを思ったくらいだ。

 以上、幕である。

 ミュージアムショップがものすごく充実していて、どれもこれも欲しくなって困った。
 いや、ここは使うものだけを買おうよと己に言い聞かせ、それでも5000円以上使ってしまった。
 ゴッホ恐るべし、である。

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2021.10.30

「ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス」に行く

 2021年10月30日、Bunkamura ザ・ミュージアムで2021年9月18日から11月23日まで開催されているポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランスに行って来た。
 土日祝日のみ時間指定の予約制を採用しており、昨日サイトを見たときにはほとんど空いていたのに、今日のお昼前に見たらお昼前後を除いて全て予約不能となっていて驚いた。お天気もいいし、美術展に行こうか、という気分になった人が多かったのかなぁと思う。
 それでも結構な混雑具合で、これが時間指定でなかったらもっと混雑していたのだなぁと思う。

 全5章で構成されていて、比較的コンパクトな美術展だと思う。
 そこに、私でも半分くらいは名前を知っている28人の画家の作品を揃えている。
 全ての絵画に解説が付けられている美術展は珍しいのではないだろうか。今回、音声ガイドは借りなかったけれど、それでもいいかなという充実ぶりだった。

 また、「当時のパリ」をテーマにしたコラムのパネルがあったり、絵が描かれた当時に(恐らく)パリで使われていたお化粧道具等のガラス製品も併せて展示されていたことも「ちょっと違う」ポイントだったと思う。
 小さめの作品がガラスケースに入っていて、上から覗き込む感じになっていたので目立たなかったものの、ガレやラリックの作品もあって、決して「刺身のツマ」ではなかったと思う。

 美術展のスタートはモネの睡蓮で、やはりクロード・モネは「印象派」の中心なんだなと思う。
 クロード・モネという画家を親しく感じられるのは、原田マハの「ジヴェルニーの昼食」という短編集のおかげだ。この短編集にはマティスやピカソも登場し、ちょうどこの美術展の登場人物たちと重なる。興味深い。

 この美術展の解説では、割と「明るい」という説明が多かったと思う。
 多かったけれど、「これが明るいか?」と首を傾げてしまうことも多かった。そういえば、印象派以降の絵画が展示されているからそう感じるのであって、例えばレンブラントの絵がこの美術展の中に含まれていたら、それは異様に暗く見えたに違いない。
 それにしても、あまりにも「明るい」と言われたので、紛れもなく明るい絵に目が行った。
 例えば、モネならば、「睡蓮」よりも「散歩」の方が断然明るい。

 モネの「散歩」が(私にとって)好印象なのは、スコンという感じの抜け感があったからだと思う。
 地平線が遠くにある感じというか、遠くまで見通せる感じというか、そういう広がりがある。さらに色彩が明るければ、それは解放感あふれるという印象になるに決まっている。
 モネは、「サン=ラザール駅の線路」や「花咲く堤、アルジャントゥイユ」といった絵に機関車や工場地帯を絵に描き込んでいて、「散歩」にはそういう煙を黙々と吐き出す感じとは正反対のうららかさがあったことも「好きだわ」と思った理由だと思う。

 モネの絵があったお部屋には、もう一角「ルノワール・コーナー」とでも言いたくなる感じでルノワールの絵も同じくらいの点数が展示されていた。「レースの帽子の少女」の絵など、柔らかで可愛らしくてこの絵を嫌う人とか絶対にいないよ、というくらいの作品だと思う。
 でも、ここで私がもう1枚気になったのは「エヌリー街道の眺め」というピサロの風景画だった。
 この絵でも、エヌリー街道だと思われる道が絵の真ん中上方に描かれていて、その道が木々の間を遠くまで続いて行く感じがやっぱり「抜けてる」感じがして、ちょっと息を吐けるように思えた。

 その後、ポスト印象派として、セザンヌ、ゴーガン(ゴーギャンと書いてもらった方がイメージしやすい。もしかして別人、ということはないと思う。)、ゴッホらの絵が続く。
 ゴッホの「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」は「おぉ!久々に明るい絵になったよ」というくらい明るい絵で、こちらも手前に大きく川面が描かれ、橋の向こうに青く低い空がずっと続いている、抜け感のある景色が絵があkれている。
 近寄りすぎると「ちょっと浮いてない?」と思うくらいの赤い色で描かれた木や橋の上の人物の服などが、少し離れてみるとアクセントとして効いてくる。不思議な感じだった。

 「抜け感」とか言っていると風景画にしか目が行かなそうだけれども、ピカソの「花売り」の絵は、絵に地平線(水平線か?)が引かれているためか、使われている色が原色多めのためか、子供が描きそうな太陽が光っている(しかし、その光は青の線で描かれている)からか、平面っぽいというか書き割りのような背景にも関わらず、「ふーっ」というよりも「ほーっ」という感じの息が出た。

 ところで誰の絵を見ているときに思ったのか忘れてしまったけれど、画家ごとにまとめられている絵が、なぜかその画家が描いた順ではない順番に並んでいて、時々混乱した。
 章構成が時代順になっているので、個々の画家の絵を並べるときも描いた順になっている方が有難い。この美術展は1枚1枚の絵に解説がついていて、そこでは時代背景や画家の変化も記載されているので、余計に時系列になっているといいなと思ったりした。

 印象派が生まれたパリは、「芸術の都」となり、若い画家たちが集まってきて「パリ派」的なものを構成したという。
 とはいっても、統一的な主張とか特徴とかがあるわけではなく、むしろ逆に、この当時のパリに惹きつけられてそれぞれ独自の進化を遂げた画家たち、という位置付けなのかも知れない。
 ここに、ユトリロ、モディリアニ、マリー・ローランサン、シャガールと並んで来て、統一感的なものは思い浮かばない。やはり「同じ時期にパリにいた」という点をめちゃめちゃクローズアップしているのだと思う。
 なにしろ、この美術展のテーマは「女性像」と「フランス各地への旅」と、そして「パリ」である。

 そのパリを描いた絵では、デュフィのそのものずばり「パリ」と題された、パリのランドマークを縦長の画面に4枚描き屏風のように仕立てた絵が面白かった。
 エッフェル塔と、凱旋門と、(多分)オペラ座と、(多分)ノートルダム寺院だけ分かって、あとの場所が分からなかったのがちょっと悔しい。コンコルド広場のオベリスクが描かれていなくて、1937年頃にはあまり注目されていなかったのか、デュフィという画家からあまり好かれていなかったのか、ちょっと残念だった。

 最初に「雰囲気が似てるかも」と思ったシャガールの「オペラ座の人々」の方が、不気味さがあって、その「自分の頭を投げている芸人」が描かれちゃうような不気味さ故か、ぼんやりと霞の中に続く感じで、これまで感じたのとは別の抜け感があって面白かった。
 何というか、地面や空が続いて行くというよりは、霧の中を通って全く違う世界とか夢の中とかに繋がっている感じがあると思う。

 友人と会ったり旅行に行ったり美術展に来たりといったことがなかなかできない時期が2年近く続いていて、それが意外とストレスになっているのか、一度「抜け感」という言葉を思い浮かべてしまったら、ついついその視点からばかり見てしまった。
 そういう風に見るのもありなんじゃないかと思っている。
 でも、この美術展に出品されていた中で1枚購入するなら、ちょっと画面が暗いと思いつつも、ルノワールのアネモネの絵かなぁと思っている。とてもとても買えないけれども、妄想するくらいいいよね、と思う。

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2021.07.04

「イサム・ノグチ 発見の道」へ行く

 2021年7月3日、東京都美術館で2021年4月24日から8月29日まで開催されているイサム・ノグチ 発見の道に行って来た。
 空きがあれば当日でも入れるが、事前予約が推奨されている。私は当日、30分前くらいにネットで予約してから向かった。どちらかというと、向かいながら予約した、というのが近い。

 どんな芸術も「分からない」ながら、彫刻ってホントに分からないと思い、珍しくイヤホンガイドを借りた。
 イヤホンガイドは2種類用意されていて、「何が違うんですか?」と聞いてみたら、片方は解説、片方は解説なしでBGMとして聴くように音楽が入っているらしい。
 もちろん、解説の方を借りる。

 展示は3フロアに別れていて、そのうちの「第1章 彫刻の宇宙」と「第2章 かろみの世界」では写真撮影がOKだった。ちょっと嬉しい。
 そして「第3章 石の庭」で構成されている。
 順路はなく、好きなように見て行けばよい。彫刻は壁際に並べられているのではなく、「点在している」という感じだ。なかなか好ましい。

20210703_161154-2 入ってすぐは、とにかく「あかり」が圧巻である。
 いや、「圧巻」という言葉からイメージされる重厚さというか重さはない。
 むしろ、素材は紙だし、明かりが灯ったり消えたりして、いずれも柔らかな変化だし、下に敷かれた白い小石(白砂というには粒が大きいと思う)があって、ちょっとお祭りっぽい感じも、和室っぽい感じも、バルーンフェスティバルっぽい感じもある。

 入口から見ると、その手前に「黒い太陽」が置かれていて、色といい素材といい、対照的だ。
 いきなり、びっくりだ。
 広い空間に主に金属で作られた彫刻が点在しているのもいい。

20210703_162248-220210703_161703-2 私が主にそういう作品に惹かれたからか、音声ガイドが多く取り上げていたからか、曲線で柔らかな印象が強い。
 そして、タイトルが面白い。
 「不思議な鳥」とか「ヴォイド」とか、名付けられている。

 イサム・ノグチ氏のインタビュー映像が流されていた。
 晩年の録画だったようで、失礼ながら「こういうお爺さんだったのか!」と思った。
 そして、流ちょうに日本語でインタビューに応えていて、この作品タイトルたちも日本語で付けられたのかしら、それとも英語でつけて和訳されたのかしらと思う。
 何というか、タイトルと一体として作品、という感じがする。

 一方、展示としては、作品のすぐ近くには名前や製作年等の情報は表示されていない。
 作品に近い壁に、フォルム付きで作品名や製作年や素材などの情報が表示されている。
 こういう展示方法は初めてだ。
 名前と一体だけれど、まずはそういう先入観なしで見て貰いたいということかも知れない。

20210703_162417-2 結構好きな感じだったのがこちらのティーカップだ。
 ティーカップも作っていたんだ! と思う。
 もっとも、会場では、私は「片口」だと思って見ていた。口ではなく持ち手だったらしい。
 そういう「誤解」もありだよねーと勝手に思う。
 割と音声ガイドが「イサム・ノグチと日本との関わり」とか「アイデンティティ」等に焦点を当てていたので、それで発想が日本的な方に引っ張られたのかも知れない。

20210703_163434-220210703_163545-2

 第2章の「かろみの世界」で真っ先に目に入るのは、この赤い遊具である。
 ここだけ、色がある。(実際は違うけれども、そういう感じがする。)
 遊具らしい。
 今の公園に置けるかどうかは微妙かも知れないけれど、遊具である。
 何だかもう、そう聞いてしまうと、よじ登ってみたくて仕方がなかった。よじ登るのは無理にしても、ちょっと触ってみたい。
 つるつるして冷たい感じなのか、触ってみればざらっとして体温くらいなのか、気になる。鋼鉄製らしいから冷たいような気がする。

20210703_164516-2 作品群の中で唯一実際に触れることができたのは、このソファとオットマンだ。
 座ることができる。
 だから誰かは必ず座っていて、人がいなくなるのを大分待って写真を撮った。我ながら執念深い。
 もちろん、実際に座ってもみた。
 座面が低くて、リラックスするためのソファという感じがする。許されるものなら寝転がってみたかった。

 しかしこのフロアのメインは、「溶融亜鉛メッキ鋼板」を素材として作られた彫刻の数々である。
 そして「雨の山」とか「マグリットの石」とか「原子の積み藁」とか「座禅」とか、哲学っぽい作品名が付けられている。
 表面に浮かぶ模様は偶然に生まれるものらしい。
 そして、ちょっと折り紙っぽい感じがする。
 抽象的な作品名の作品が多い中「リス」の彫刻がなかなか可愛かった。このソファから見えるところに置かれていて、作品としてなかなかの特等席にいたのも良かった。

 第3章の「石の庭」は撮影禁止である。理由はよく分からない。
 タイトルのとおり、石を素材として作られた作品が置かれている。
 割ったまま、石として在ったときのままっぽい、ざらざらデコボコしたところと、パッと割って磨き上げた真っ平らな面とが組み合わされている作品が多かった、と思う。

 この石の庭の作品だけでなく、イサム・ノグチの作品って、本当に触って見たいという欲求を生むよなぁと思う。
 触ったらもちろんいけない訳だけれど、触って見たい。触りたい。手触りを確認したい。
 無題の作品が多かったのは、アトリエに残された発表していない作品だったからかなぁと思う。
 会場では、香川県のイサム・ノグチ庭園美術館を紹介する映像が流されていて、益々行ってみたくなった。

20210703_172322-2 閉館時間ぎりぎりまでいたので、ミュージアムショップに行く直前のところで、誰もいない「第1章」のお部屋を見ることができた。
 静かだけど温かい感じがする。
 こういうところを独り占めするって贅沢だろうなぁと思う。今、中に入りたい。

 ミュージアムショップでは、イサム・ノグチがデザインしたというコーヒーテーブルや、明かりの数々が販売されていた。
 かなり欲しくなったけれど、どちらも置く場所がない。
 コーヒーテーブルは受注生産だそうだ。
 私の一生の野望の一つに「イサム・ノグチのコーヒーテーブルと明かりが似合う部屋で暮らす」が加わった。

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2021.03.04

「佐藤可士和展」に行く

 2021年3月4日、国立新美術館で2021年2月3日から5月10日まで開催されている佐藤可士和展に行って来た。

 展示物自体が大きいこともあってかなりゆとりを持った展示がされており、かつ時間指定のチケットが販売されているため、かなりゆっくりのんびり見ることができた。
 動画撮影はNGだけれど、写真はほぼすべての展示室で撮ることができた。

 また、音声ガイドが変わっていた。
 QRコードが用意され、そこで読み込むと各自のスマホ等で音声ガイドを聞くことができる仕組みが用意されていた。こういう形の音声ガイドは、少なくとも私は初めてだ。
 イヤホンを持っている人はそれを使っていたし、「人との空間を保って聞いてください」という案内があり、人同士の距離を保つための工夫という面もあるのかなと思った。

 音声ガイドの半分くらいは佐藤可士和氏本人が語っていて、存命の人の美術展等にあまり行ったことがないからかも知れないけれど、これも初めての体験だった。
 贅沢だし、興味深い。

202103043 佐藤可士和といえばロゴである、というイメージが強い。
 美術展では「ブランディング」という言葉がよく使われていて、ロゴデザインに限らず企業イメージ全体をプロデュースする、というような意味で使われていたように思う。
 そもそも、国立新美術館のロゴ(恐らく、その他の様々なことを含めて)からして、佐藤可士和氏の作品である。

 展示の最初は、「6 ICONS」で、寡聞にして私は知らなかったのだけれど、佐藤可士和氏の原点というべき作品であるらしい。
 6つのアイコンは、全て「自分」を表現しているらしい、と受け取ったけれど正しかったろうか。
 大学の頃だったか卒業したての頃だったか、Macを使っていたそうで、当時のMacは起動しているときに読み込んだ機能拡張等のアイコンを画面下に並べて行っていて、これがコマーシャルだと理解した、という風にご本人がイヤホンガイドで語っていた、と思う。

 私は全く「創造」的なことには使っていないけれど、でも一応のMac userとして、発想の最初がMacだったというのが何だか嬉しい気がした。
 そうそう、あのアイコンたちって可愛かったよね、いつから並ばなくなっちゃったのかしら、と思ったりもした。

 展示も、LOFTもクリスマスカラーのショッピングバッグから、SMAPのCD販売戦略(でいいのか?)から、本の装丁から、TUTAYAのロゴから、ユニクロのニューヨーク&ロンドン(だったか?)進出から、今治タオルの起死回生策から、ふじようちえんの改築から、とにかく様々な「ブランディング」の成果が並んでいる。
 CDジャケットや麒麟麦酒の缶が並んでいたり、くら寿司の店内の様子がどんと大きく写真パネルで示されたり、つかだの鶏の絵の看板(多分、実物)が立て掛けられていたり、セブンイレブンのプライベートブランド商品のパッケージが壁一面に貼ってあったり、見ている側の人の動きと今検索されている言葉を融合させたインスタレーションがあったり、とにかく幅広い。

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 そういった「いつも目にする」物を見ているためなのか、写真パネルが多かったからなのか、本人が語るイヤホンガイドを聞いているからなのか、美術展を見ているとき、「何だかテレビを見ているみたいだな」と感じた。
 自分の目で今見ているし、そこにあることも分かっているのだけれど、こちらに能動的に見る余地が少ないからなのか、テレビを見ているように次々に差し出されるものを見せられている、という印象になったのかも知れない。
 よく分からない。

 でも、今思い返しても、やっぱりテレビを見ているようだったな、と思う。

 LINES/FLOWというお部屋が一番「美術展」ぽかったように思う。
 直線というのは自然界には存在していない、だからこそ直線に美を感じる、というコンセプトだったと思う。
 確かに人の手が加わっていない真っ直ぐなものってないかも、と思う。そんなことは考えたこともなかった。

 ここで、赤と青と銀色の3色を使うことに何かの意味があるんだろうなと思う。
 そういえば、佐藤可士和氏の作品にはこの3色を使っているものが多いように思う。
 そもそも、会場となっている国立新美術館のロゴだって赤である。楽天もユニクロも赤と白というイメージだ。

 ユニクロの場合は、世界に進出するに当たって「日本発」を強調したいというオーナーの意思があったという説明があったから、国旗のカラーリングということもあったのかなぁとは思う。
 赤と白という組み合わせは「日本ぽい」んだろうか。そしてそれは、日本人にとってというだけでなく、外国から見てもそういうイメージなんだろうか。

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 FLOWの方は、重力と動力だけで画材というか染料というかをキャンバスに落とすというか散らすというか、そうして「触れることなく」描いた作品である。
 こちらには直線はない。
 そして、白地に青で描かれている。
 この「青」は、ジャパンブルーを狙った藍ではなく、有田焼の釉薬の青の色をそのまま写し取ったのかしらと思う。

 自然界の造形を人工物に写し取る・移し替えるというと、ガウディの建築が思い浮かぶ。デザインと「重力」という言葉が繋がるところも何となくガウディっぽい。
 遠いところにありそうな感じを匂わせつつ、ふとしたところで繋がっている(ように感じられる)ところが楽しい。

 音声ガイドを丁寧に聞いたこともあって、1時間半近くの時間を過ごした。
 ゆっくり鑑賞できて良かった。

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