2022.03.13

「メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年」に行く

 2022年2月18日、国立新美術館で2022年2月10日から4月3日まで開催されているメトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年に行って来た。
 日時指定制で、ゆっくり見ることができた。

 メトロポリタン美術館のヨーロッパ絵画部門の常設展ギャラリーが改修中で、そのお陰で65点中46点が初来日という絵画展が実現したそうだ。ラッキーである。
 「西洋絵画の500年」ということで、I. 信仰とルネサンス、II. 絶対主義と啓蒙主義の時代、III. 革命と人々のための芸術、と時代を追って見られるように構成されている。

 最初の「信仰とルネサンス」では、宗教画でありつつ遠近法などを取り入れて現実に即した絵、が中心である。題材をキリスト教に求める一方で、登場する人物がその時代の人々の洋服を着ていたり、背景がその時代の景色だったりする。
 二次元のぺたっとした模様のような絵ではなくて、奥にいる人は小さく奥にあるものは小さく描かれて、絵に奥行きがある。

 そういった解説を読みつつ、「何だかやたらとくっきりした絵たちだな」と思いながら見ていた。
 特に人物を中心にクローズアップしている絵では、やたらとその人物(特に中心人物)がくっきりはっきり、ぼやけたところなど全くないような感じで描かれていて、いっそ浮き出てくるくらいの印象がある。
 明るいといえば明るい画面ではあるけれど、逆に、テーマが宗教であることも手伝って、気持ち悪いくらいに思ってしまった。
 この時代の絵を私が見慣れていない、ということもあると思う。

 ほぼ唯一「確実に聞いたことがあるよ!」と思ったのは、エル・グレコである。
 私の持っている偏ったイメージどおり、やけに暗い、暗い中に光が射して強調されている箇所が激しく強調されている絵である。
 出品された「羊飼いの礼拝」という絵では、説明書きによると、真ん中にいる嬰児のイエス・キリストが白い光を発しているくらいだ。もっとも、私にはこの「光を発している」というのはよく分からなかった。画面中央が明るいのは分かるけれど、そこが光源であると解釈する理由は何なのだろう。

 次の「絶対主義と啓蒙主義の時代」に、私のお目当てのフェルメールがいる。
 絵画が権力によって保護され利用される時代から、市民が台頭して、宗教画からもう少し軽みがある、裕福な商人が家に飾れるような絵に中心が移って行く辺り、という理解でいいのかなと思う。
 この辺りの時代も、私が名前を知っていたのは、フェルメールとレンブラントの二人だけだ。

 そのフェルメールは「信仰の寓意」が初来日している。
 メトロポリタン美術館にある4つのフェルメール作品のうち、出展されているのは、この1点のみだ。
 意外と大きいな、というのが最初の印象である。
 フェルメールの絵は縦横50cmに収まるくらいというイメージがあって、この絵は縦が1mを超えている。かなり大きいという印象だ。

 フェルメールの寓意画は相当珍しいそうで、説明板にもその点が強調されて書かれていた。
 「家の中の隠れ教会」という解釈は、「寓意」にあふれつつ、左手前に布がかけられ、白と黒の市松模様の床、フェルメールブルーの衣装などなど、パーツとしては他のフェルメール作品にも登場するものたちが含まれていることから出てきたのかなと思う。
 「寓意」を生み出しているモノたちについ気をとられ、実は絵全体の印象は散漫である。「窓辺で手紙を読む女」で印象に残った質感の描き分けなど全く記憶にない。

 ただ、こちらの「メトロポリタン美術館展」は、会場も広く、「目玉」と言われるような絵がたくさん出展されていることもあり、そしてこの「信仰の寓意」という絵がフェルメールらしさが少ない絵であるということも手伝い、じっくりゆっくり見られたのが嬉しい。
 そして、このフェルメールの絵から、次の「革命と人々のための芸術」に入り、印象派の絵画にたどり着くまでの長さ(その間に展示されている絵の多さ)に、フェルメールと印象派との間の長い時間を初めて認識したような気がする。
 200年は長い。

 その「革命と人々のための芸術」の舞台は19世紀である。
 やはり19世紀末の印象派の絵がいい。いいと言うか、知っているから嬉しい。単純である。
 しかし、ルノアール、ドガ、ゴッホ、モネ、マネ、セザンヌと言われたら、それは心躍るというものである。

 ゴッホの「花咲く果樹園」という絵は、何というか私の持つゴッホのイメージからはちょっと外れている。
 アルルの絵でありつつ、明るさはあまりない。「花咲く」と銘打っている割に、果樹の足下にある草原に咲く花は慎ましく、緑に隠れるようである。果樹の背景にある曇り空からわずかに青空が覗いている。そういう絵だ。
 何というか、逆に、珍しく穏やかな心持ちで描かれた絵なのかもしれない。

 モネ晩年の「睡蓮」はすでに20世紀に入っている。
 晩年のモネは目が見えなくなっていたそうで、その見えなくなっている目に映った睡蓮は、暗く、何だか模様のようである。睡蓮の絵で飾られ囲まれた部屋を作りたかったそうで、いや、この暗い睡蓮に囲まれるのはいやだよ、どうしてもやるなら窓も大きくとって窓の外は明るい景色にしてください、と思った。

 贅沢な空間で贅沢な絵たちを見た。

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2022.02.20

「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」に行く

 2022年2月18日、東京都美術館で2022年2月10日から4月3日まで開催されているドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展に行って来た。
 日時指定制で、予約枠に余裕がある場合は当日券での入場も可能である。
 始まったばかりということもあり、当日券ですぐ入ることができた。

 私の、そして恐らくは多くの人の目当ては、修復後初めて国外に出たというフェルメールの「窓辺で手紙を読む女」だと思う。
 背後の壁が塗りつぶされたのはフェルメールの死後のことであったという調査結果が発表され、その調査に基づいて、元々描かれていたキューピッドの画中画が蘇った、という劇的な絵である。
 これは見たい。

 そして、「窓辺で手紙を読む女」が所蔵されているドレスデン国立古典絵画館から、17世紀オランダ絵画のコレクションがやってきている。
 なかなか豪華版の絵画展である。

 とはいうものの、私が名前を知っていた画家は「フェルメール」と「レンブラント」の二人だけである。
 しかも、この二人の作品はそれぞれ1点ずつしか出展されていない。
 そして、レンブラントが描いた肖像画「若きサスキアの肖像」に描かれた女性は、正直なところ、そんなに魅力的には見えなかった。将来の妻を描いた割に正直な筆致である。

 「レンブラントとオランダの肖像画」「レイデンの画家-ザクセン選帝侯たちが愛した作品」「オランダの静物画-コレクターが愛したアイテム」「オランダの風景画」「聖書の登場人物と市井の人々」と巡り、大雑把に言って「お城ではなく、広かったり邸宅だったりするのかも知れないけれど、割と普通の人のおうちに飾られた絵たちだったんじゃないかな」という印象があった。
 ものすごく大きな絵はなくて、サイズ感が割と揃っている。

 我が家には無理にしても、そこそこお金持ちのおうちに飾ることができる大きさの絵たちなのではなかろうか。美術館の広い壁に飾られていたからこちらの感覚が狂っている可能性もありつつ、印象としてはそういうふうに思った。
 そして、「ザクセン選帝侯たちが愛した作品」とその他のコーナーにある絵画に、それほど大きな印象の差がない。貴族とそれこそ「市井の人々」との間に大きな差はなくなってきた、ということなのかしらと思ったりした。

 また、フェルメールが選んだ題材や構図は、フェルメールだけのものではなかったんだわ、ということを改めて思った。
 スポットライトを浴びたような人物が一人、ちょっと東洋風というかエキゾチックな雰囲気のファブリックのある室内、レース編みをする女、といった雰囲気は当時のオランダ絵画には珍しいものではなかった、のかも知れないし、そもそもフェルメールが自分の周りにある(そして誰の周りにもある)ものを題材として選んでいたということかも知れない。

 「窓辺で手紙を読む女」は、まず調査や修復の様子を説明し、写真や動画でも見せる。
 その上で、修復された「窓辺で手紙を読む女」が登場である。
 若干、「なぜこの位置?」という場所に飾られている。向かって左側のとっつきのような場所に修復前の「窓辺で手紙を読む女」の複製画が飾られており、むしろ、本物がこっちにあった方がいいのでは? いや、修復前後の絵を少し離してでも並べて見せてくれた方が嬉しかったかも、と勝手なことを考えたりした。

 それにしても修復技術というのはすごいし、調査技術の進歩というのもすごい。
 この絵にキューピッドの画中画が描かれていることは1979年にはすでにX線調査で判明していたということだけれども、修復を進める中で修復師が溶媒への反応が違うことに気づき、サンプル調査で画中画の上に塗られた絵の具がいつ頃塗られたかということが分かるようになったのは最近ということなんだろう。
 修復師の気づきがなければ、「フェルメールが塗りつぶした」というそれまでの定説が覆ることはなかったと考えると、やっぱりすごい。

 修復された「窓辺で手紙を読む女」は、女の背後にキューピッドの絵が登場する。
 その分、絵に奥行きが生まれているように感じられる。
 キューピッドの絵が1/3くらい手前にあるカーテンに隠されることで、それまでよりもカーテンの存在感が増し(修復で明るくなったことも理由かも知れない)部屋の奥行きをより感じるようになったと思う。

 また、手前にあるテーブルクロス(というには、随分と厚手でもこもこの布地である)の、そのもこもこ感がよりパワーアップしているように思えた。
 本当にでこぼこしているように描かれていて、思わず触りたくなる。
 逆に、右手前のカーテンはやけに突っ張っているように感じられる。結構、張りのある生地が使われているカーテンで、このシワというか寄せ方をキープできそうな質感の布地である。

 不思議だったのは、修復後の「窓辺で手紙を読む女」が、修復前よりもサイズが小さくなっていることだ。
 理由はよく分からないし、特に説明もなかったと思う。
 修復前の絵は、左側にある窓の手前の木枠が見えていたし、右手前にあるカーテンの輪っかを通している棒が画面を横切っていた。
 複製画もそうなっていたし、複製版画(ドレスデン国立古典絵画館の所蔵作品を紹介するために制作された版画)でもそうなっていたから、修復前は、修復後の絵よりも左側と上側がもう少し広かった筈だ。(下は、カーテンのフリンジがぎりぎり下限にあるので変わっていないと思う。右側はよく分からないけれど、絵全体に占めるカーテンの幅からして変わっていない感じがする。)
 そこが、どうにも気持ち悪い。
 誰か、教えてほしい。

 そんなことを考えていたせいか、ど真ん中で手紙を読んでいる女をあんまり見ていなかったことに気がついた。
 女の顔よりも、窓ガラスに映った女の顔の方が気になる。
 キューピッドの絵が復活したことで、女を見るよりも絵全体を見るように視線が誘導されるようになったのかも知れない。

 キューピッドの画中画が復活し、そのキューピッドが仮面を踏みつけていることから、「誠実な愛の勝利」というメッセージが示され、女が読んでいる手紙はラブレターであるという解釈が俄然力を持ち始めるそうだ。
 絵画にメッセージを込め、メッセージが込められた絵画を飾り、そのメッセージを社交の端緒とするという、教養溢れることが当時のオランダでは行われていたらしい。

 私は、ゆっくり眺めて「美人だわ」とか「このキューピッドは可愛くないし、羽もよく見えないわ」とか、勝手なことを言ったり思ったりするので十分、と思ったりした。
 キューピッドの絵の下で手紙を読む女に出会えてよかったし、修復という仕事の一端を見られて興味深かった。。

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2021.12.26

「ザ・フィンランドデザイン展」に行く

 2021年12月24日、Bunkamura ザ・ミュージアムで2021年12月7日から2022年1月30日まで開催されているザ・フィンランドデザイン展に行って来た。
 土日祝日は時間指定の予約制を採用しているが、平日はそういった制限はない。金曜日の午後3時頃という時刻だったせいか、場内はゆったりしていて、マイペースでゆっくり見ることができた。

 フィンランドの50人前後のアーティストの作品が、1890年台のアアルトに始まって年代順に展示されている、いってみればシンプルな美術展である。
 その「デザイン」の範囲は幅広く、ガラス製品、陶磁器、家具、ファブリック、テーブルクロス、ドレス、ラグ、おもちゃまである。

 「イッタラ」「アラビア」「マリメッコ」とメーカー名は知っていても、それぞれで活躍してきたデザイナーの名前は全然知らないし、その存在を考えたこともなかったよ、と思いながら見る。
 デザイナーの一人一人(全員ではなかったかもしれない)の顔写真がその作品の近くに飾られ、デザイナー本人についての説明が作品の説明よりも長いくらいに丁寧に書かれている。面白い。

 スタッキングがしやすいように収納しやすいように考えられたガラスの食器や陶磁器の食器が並んでいる。
 ガラス製品では、大量生産のときにできやすい気泡が目立たないようにという点が工夫されているそうだ。その工夫がそのままデザインに直結している。
 また、結核患者が呼吸をしやすいように背もたれの角度を調節した木製の椅子があったりする。

 機能性を追求しつつ、あるいは、機能性を追求したからこそ、そのデザインは「洗練されている」という印象を強烈に残す。
 だからこそ、日常生活ではあまり聞くことのない、工業製品のデザイナーの名前がここまでしっかり残り、確認できるようになっているのかなと思う。

 一方で、花瓶などのガラス製品や「布」は、実用性や機能性よりも「自然を写す」ことの意識が強い作品が展示されていたように思う。
 北極圏にも入るフィンランドでは、夏はとことん日光を楽しみ野外を楽しむ。トーベ・ヤンソンが夏の休暇を過ごしているときに、家族(弟だったかも)が撮ったという写真は、開放感に溢れている。
 冬をテーマにした写真は、雪の結晶をアップで撮っていたりして、むしろ、内へ内へと入っていく感じがある。

 割とそういう「日常的に使うもの」である展示が多い中、ビーズで作られたシギのオブジェが面白かった。
 ビーズと陶器に文字盤が描かれた時計を組み合わせて、田んぼに立っていそうな鳥のオブジェが作られている。
 一般家庭には置けなさそうな大きさの置物で、これはある程度以上の広さがあるところに置いてこそ映えるんだろうなぁと思う。冬は家に押し込められてしまう北欧のおうちは、もしかしてこのオブジェを普通に置ける大きさのお宅が多いのだろうか。

 ムーミンの絵があったのも楽しかった。
 病院の壁に飾られた絵で、ムーミンと仲間たちが楽しげに階段を上がっているような絵だ。この絵を病院の階段の壁に置き、子供たちが絵を見ながら楽しく階段を上がって診察室に辿り着く、というものだという。
 どこまでも実用的な発想だ。
 同時に、何しろムーミンである。心楽しくなる工夫でもある。

 ところで、自分でも意外だったのは、ミュージアムショップで物欲がほぼ生じないことだった。
 食器や布製品など品数は少ないながら揃っていたのに、「これは欲しい!」というものが見つからなかった。
 フィンランド展だし、ミュージアムショップで爆買いしたくなったらどうしようと少しばかり心配していたところ、全く無用の心配に終わった。

 がつがつ見るのではなく、雰囲気や、フィンランドデザインに囲まれるという気分を味わう美術展だったと思う。
 ゆったり味わった。

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2021.11.16

「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」行く

 2021年11月16日、東京都美術館で2021年9月18日から12月22日まで開催されているゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセントに行って来た。
 日時指定の予約制で、当日予約枠も設けているものの「行ったときに空いている直近の枠」を案内されるようで、当日予約の場合は時刻を選べないようだし、売り切れになることもあるようだ。
 実際、私が行ったとき、午後0時30分くらいに到着した時に「15時30分の枠をご案内しています」と張り紙があり、午後2時30分過ぎに出たときには「本日の当日予約は全て終了」というような張り紙が出ていたと思う。

 「ヘレーネって誰?」と思っていたら、フルネームでヘレーネ・クレラー・ミュラー女史は、実業家である夫アントンの支えで(要するにお金で)近代絵画の収集を行い、広く公開しようと美術館を開設した女性だという。
 彼女の個人コレクションを収めたクレラー・ミュラー美術館は、オランダにある。
 オランダのかなり田舎にあるらしい。いつかぜひ行ってみたいと思う。

 ヘレーネ女史は、まだ評価されていなかった頃からゴッホの絵を収集し、「集めようと思って集めた」収集家としては世界最大だそうである。
 集めようと思って集めた訳ではない収集家は、恐らくゴッホの甥のティオとその妻子で、ティオが相続した絵画はそのままオランダのゴッホ美術館に永久貸与されている。
 そのゴッホ美術館からも「特別出品」という感じで4点の油彩画が来日している。
 何にせよ、贅沢な空間であり、コレクションであったことは間違いない。

 美術展の最初は、ヘレーネ女史と、彼女の絵画収集・鑑賞の師であるところおH.P .ブレマーウジの肖像画で始まる。
 もちろん、ゴッホの筆ではない。
 しかし、ゴッホ「後」の肖像画だと思うと随分と画面が暗いような気がする。その頃もやはり「重厚な」肖像画が好まれていたということだろうか。
 そして、ゴッホの作品から1点だけ「療養院の庭の小道」という絵がトップに置かれている。
 なぜこの絵をここに持ってきたんだろう? と思わせる配置である。

 続く部屋には、「ゴッホ」外の画家たちの絵が展示されている。
 ヘレーネ女史の鑑賞眼と選択眼を示すべく、ミレーからルノワール、スーラ、ブラック、モンドリアンと19世紀後半から20世紀初頭にかけての彼女のお眼鏡に叶った絵たちである。
 財力があるってすごいと思うべきか、定評のない絵もあり画家もいただろうに、師の指導と己の好みで絵を買いまくって、そのコレクションが後世から垂涎の的となるってすごいことだよと思う。

 そして、ゴッホの絵がシンプルに描かれた年代順に展示されて行く。
 このシンプルさは非常に好ましい。1880年代前半は主に素描である。「画家たるもの素描ができてなんぼだ」とゴッホは考えていたらしい。
 「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」のように描きこまれた絵もあれば、「コーヒーを飲む老人」など「油彩画と同じようなニュアンスが黒一色で出されている絵もあり、その黒もさまざまな画材を組み合わせたり、茶やグレーで彩色が施されていたり、「黒と光」を描くべく工夫を重ねていたことが分かる。

 しかしそこはゴッホで、光よりも「黒」の印象が強いし勝っているように思う。
 私は「籠に腰掛けて嘆く女」が好きだった。かなり暗い主題の絵だし、画面も相当に暗いけれど、何だか心惹かれる絵だ。そして、顔は全く見えていないので全く私の思い込みに過ぎないけれど、この女性はきっと美形に違いないと思う。
 この素描の部屋がやけに引力が強くて、うっかり、じっくりと見てしまい、ゴッホ展のために持っていたエネルギーの3分の2くらいを持って行かれたような気がした。

 オランダ時代に描いた油彩画は、恐らくは当時の流行りというか定番に則っていて、肖像画を始めとして暗い画面の絵が多い。
 それでも「ゴッホらしい」のか? よくわからない。
 それにしても「テーブルに着く女」という絵などとにかく画面全体がほぼ真っ黒かつ真っ暗で、ほのかな明かりに浮かび上がるようにして、女性がテーブルの前に置かれた椅子に腰掛けている様子が何とか分かる、という感じの絵である。極端すぎる。
 ゴッホが「光」を描くときは、それは、暗闇に呑み込まれそうな光だったのかなぁと思う。

 パリに出た後の絵は、一転して画面が明るくなる。
 ただこの明るさもかなり「白っぽい」明るさで、単純な私が思い描くゴッホの絵の感じとは異なっている。
 明るいというよりも白っぽい。何となくぼんやりとした薄明かりの中、ものの境界がはっきりしない感じの明るさの絵たちだ。
 普通に花瓶に生けた花の絵があるのが不思議だ。そういえば、「ひまわり」はなかったけれど、そもそもヘレーネ女史が「ひまわり」を購入しなかったのか、来日しなかっただけなのか、どちらだろう。

 この次のお部屋ではゴッホ美術館から来た作品4点をまとめると同時に、オランダ時代からアルル時代までを一足飛びに一気に見せる。

 そして、改めてアルル時代の絵が並ぶ。
 「レモンの籠と瓶」という絵では、籠の編み目とレモンの両方に赤で輪郭線が惹かれていて、少し前にポーラ美術館で見た風景画を思い出した。すでにタイトルも忘れているその絵では、木々が赤いラインで描かれていたと思う。
 ミレーの絵を写した、でもゴッホにしか描けないだろう「種まく人」のカラフルバージョンというか、パステルカラーバージョンの絵もあって、最初の頃に展示されていたミレーの絵の暗さとの差を思ってくらくらする。

 でも、私が「ゴッホの絵」とイメージする絵は、おおむね、サン=レミ時代にあったらしい。
 この展覧会の白眉ともいえる「夜のプロヴァンスの田舎道」にすっくと立つ糸杉の木の迫力ももちろんだけれども、「サン=レミの療養院の庭」の暴力的なくらいの緑がひどく印象的だった。
 ゴッホといえば青と黄色というイメージが強かったけれど、そういえば青と黄色を混ぜれば緑だし、と訳の分からないことを思ったくらいだ。

 以上、幕である。

 ミュージアムショップがものすごく充実していて、どれもこれも欲しくなって困った。
 いや、ここは使うものだけを買おうよと己に言い聞かせ、それでも5000円以上使ってしまった。
 ゴッホ恐るべし、である。

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2021.10.30

「ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス」に行く

 2021年10月30日、Bunkamura ザ・ミュージアムで2021年9月18日から11月23日まで開催されているポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランスに行って来た。
 土日祝日のみ時間指定の予約制を採用しており、昨日サイトを見たときにはほとんど空いていたのに、今日のお昼前に見たらお昼前後を除いて全て予約不能となっていて驚いた。お天気もいいし、美術展に行こうか、という気分になった人が多かったのかなぁと思う。
 それでも結構な混雑具合で、これが時間指定でなかったらもっと混雑していたのだなぁと思う。

 全5章で構成されていて、比較的コンパクトな美術展だと思う。
 そこに、私でも半分くらいは名前を知っている28人の画家の作品を揃えている。
 全ての絵画に解説が付けられている美術展は珍しいのではないだろうか。今回、音声ガイドは借りなかったけれど、それでもいいかなという充実ぶりだった。

 また、「当時のパリ」をテーマにしたコラムのパネルがあったり、絵が描かれた当時に(恐らく)パリで使われていたお化粧道具等のガラス製品も併せて展示されていたことも「ちょっと違う」ポイントだったと思う。
 小さめの作品がガラスケースに入っていて、上から覗き込む感じになっていたので目立たなかったものの、ガレやラリックの作品もあって、決して「刺身のツマ」ではなかったと思う。

 美術展のスタートはモネの睡蓮で、やはりクロード・モネは「印象派」の中心なんだなと思う。
 クロード・モネという画家を親しく感じられるのは、原田マハの「ジヴェルニーの昼食」という短編集のおかげだ。この短編集にはマティスやピカソも登場し、ちょうどこの美術展の登場人物たちと重なる。興味深い。

 この美術展の解説では、割と「明るい」という説明が多かったと思う。
 多かったけれど、「これが明るいか?」と首を傾げてしまうことも多かった。そういえば、印象派以降の絵画が展示されているからそう感じるのであって、例えばレンブラントの絵がこの美術展の中に含まれていたら、それは異様に暗く見えたに違いない。
 それにしても、あまりにも「明るい」と言われたので、紛れもなく明るい絵に目が行った。
 例えば、モネならば、「睡蓮」よりも「散歩」の方が断然明るい。

 モネの「散歩」が(私にとって)好印象なのは、スコンという感じの抜け感があったからだと思う。
 地平線が遠くにある感じというか、遠くまで見通せる感じというか、そういう広がりがある。さらに色彩が明るければ、それは解放感あふれるという印象になるに決まっている。
 モネは、「サン=ラザール駅の線路」や「花咲く堤、アルジャントゥイユ」といった絵に機関車や工場地帯を絵に描き込んでいて、「散歩」にはそういう煙を黙々と吐き出す感じとは正反対のうららかさがあったことも「好きだわ」と思った理由だと思う。

 モネの絵があったお部屋には、もう一角「ルノワール・コーナー」とでも言いたくなる感じでルノワールの絵も同じくらいの点数が展示されていた。「レースの帽子の少女」の絵など、柔らかで可愛らしくてこの絵を嫌う人とか絶対にいないよ、というくらいの作品だと思う。
 でも、ここで私がもう1枚気になったのは「エヌリー街道の眺め」というピサロの風景画だった。
 この絵でも、エヌリー街道だと思われる道が絵の真ん中上方に描かれていて、その道が木々の間を遠くまで続いて行く感じがやっぱり「抜けてる」感じがして、ちょっと息を吐けるように思えた。

 その後、ポスト印象派として、セザンヌ、ゴーガン(ゴーギャンと書いてもらった方がイメージしやすい。もしかして別人、ということはないと思う。)、ゴッホらの絵が続く。
 ゴッホの「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」は「おぉ!久々に明るい絵になったよ」というくらい明るい絵で、こちらも手前に大きく川面が描かれ、橋の向こうに青く低い空がずっと続いている、抜け感のある景色が絵があkれている。
 近寄りすぎると「ちょっと浮いてない?」と思うくらいの赤い色で描かれた木や橋の上の人物の服などが、少し離れてみるとアクセントとして効いてくる。不思議な感じだった。

 「抜け感」とか言っていると風景画にしか目が行かなそうだけれども、ピカソの「花売り」の絵は、絵に地平線(水平線か?)が引かれているためか、使われている色が原色多めのためか、子供が描きそうな太陽が光っている(しかし、その光は青の線で描かれている)からか、平面っぽいというか書き割りのような背景にも関わらず、「ふーっ」というよりも「ほーっ」という感じの息が出た。

 ところで誰の絵を見ているときに思ったのか忘れてしまったけれど、画家ごとにまとめられている絵が、なぜかその画家が描いた順ではない順番に並んでいて、時々混乱した。
 章構成が時代順になっているので、個々の画家の絵を並べるときも描いた順になっている方が有難い。この美術展は1枚1枚の絵に解説がついていて、そこでは時代背景や画家の変化も記載されているので、余計に時系列になっているといいなと思ったりした。

 印象派が生まれたパリは、「芸術の都」となり、若い画家たちが集まってきて「パリ派」的なものを構成したという。
 とはいっても、統一的な主張とか特徴とかがあるわけではなく、むしろ逆に、この当時のパリに惹きつけられてそれぞれ独自の進化を遂げた画家たち、という位置付けなのかも知れない。
 ここに、ユトリロ、モディリアニ、マリー・ローランサン、シャガールと並んで来て、統一感的なものは思い浮かばない。やはり「同じ時期にパリにいた」という点をめちゃめちゃクローズアップしているのだと思う。
 なにしろ、この美術展のテーマは「女性像」と「フランス各地への旅」と、そして「パリ」である。

 そのパリを描いた絵では、デュフィのそのものずばり「パリ」と題された、パリのランドマークを縦長の画面に4枚描き屏風のように仕立てた絵が面白かった。
 エッフェル塔と、凱旋門と、(多分)オペラ座と、(多分)ノートルダム寺院だけ分かって、あとの場所が分からなかったのがちょっと悔しい。コンコルド広場のオベリスクが描かれていなくて、1937年頃にはあまり注目されていなかったのか、デュフィという画家からあまり好かれていなかったのか、ちょっと残念だった。

 最初に「雰囲気が似てるかも」と思ったシャガールの「オペラ座の人々」の方が、不気味さがあって、その「自分の頭を投げている芸人」が描かれちゃうような不気味さ故か、ぼんやりと霞の中に続く感じで、これまで感じたのとは別の抜け感があって面白かった。
 何というか、地面や空が続いて行くというよりは、霧の中を通って全く違う世界とか夢の中とかに繋がっている感じがあると思う。

 友人と会ったり旅行に行ったり美術展に来たりといったことがなかなかできない時期が2年近く続いていて、それが意外とストレスになっているのか、一度「抜け感」という言葉を思い浮かべてしまったら、ついついその視点からばかり見てしまった。
 そういう風に見るのもありなんじゃないかと思っている。
 でも、この美術展に出品されていた中で1枚購入するなら、ちょっと画面が暗いと思いつつも、ルノワールのアネモネの絵かなぁと思っている。とてもとても買えないけれども、妄想するくらいいいよね、と思う。

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2021.07.04

「イサム・ノグチ 発見の道」へ行く

 2021年7月3日、東京都美術館で2021年4月24日から8月29日まで開催されているイサム・ノグチ 発見の道に行って来た。
 空きがあれば当日でも入れるが、事前予約が推奨されている。私は当日、30分前くらいにネットで予約してから向かった。どちらかというと、向かいながら予約した、というのが近い。

 どんな芸術も「分からない」ながら、彫刻ってホントに分からないと思い、珍しくイヤホンガイドを借りた。
 イヤホンガイドは2種類用意されていて、「何が違うんですか?」と聞いてみたら、片方は解説、片方は解説なしでBGMとして聴くように音楽が入っているらしい。
 もちろん、解説の方を借りる。

 展示は3フロアに別れていて、そのうちの「第1章 彫刻の宇宙」と「第2章 かろみの世界」では写真撮影がOKだった。ちょっと嬉しい。
 そして「第3章 石の庭」で構成されている。
 順路はなく、好きなように見て行けばよい。彫刻は壁際に並べられているのではなく、「点在している」という感じだ。なかなか好ましい。

20210703_161154-2 入ってすぐは、とにかく「あかり」が圧巻である。
 いや、「圧巻」という言葉からイメージされる重厚さというか重さはない。
 むしろ、素材は紙だし、明かりが灯ったり消えたりして、いずれも柔らかな変化だし、下に敷かれた白い小石(白砂というには粒が大きいと思う)があって、ちょっとお祭りっぽい感じも、和室っぽい感じも、バルーンフェスティバルっぽい感じもある。

 入口から見ると、その手前に「黒い太陽」が置かれていて、色といい素材といい、対照的だ。
 いきなり、びっくりだ。
 広い空間に主に金属で作られた彫刻が点在しているのもいい。

20210703_162248-220210703_161703-2 私が主にそういう作品に惹かれたからか、音声ガイドが多く取り上げていたからか、曲線で柔らかな印象が強い。
 そして、タイトルが面白い。
 「不思議な鳥」とか「ヴォイド」とか、名付けられている。

 イサム・ノグチ氏のインタビュー映像が流されていた。
 晩年の録画だったようで、失礼ながら「こういうお爺さんだったのか!」と思った。
 そして、流ちょうに日本語でインタビューに応えていて、この作品タイトルたちも日本語で付けられたのかしら、それとも英語でつけて和訳されたのかしらと思う。
 何というか、タイトルと一体として作品、という感じがする。

 一方、展示としては、作品のすぐ近くには名前や製作年等の情報は表示されていない。
 作品に近い壁に、フォルム付きで作品名や製作年や素材などの情報が表示されている。
 こういう展示方法は初めてだ。
 名前と一体だけれど、まずはそういう先入観なしで見て貰いたいということかも知れない。

20210703_162417-2 結構好きな感じだったのがこちらのティーカップだ。
 ティーカップも作っていたんだ! と思う。
 もっとも、会場では、私は「片口」だと思って見ていた。口ではなく持ち手だったらしい。
 そういう「誤解」もありだよねーと勝手に思う。
 割と音声ガイドが「イサム・ノグチと日本との関わり」とか「アイデンティティ」等に焦点を当てていたので、それで発想が日本的な方に引っ張られたのかも知れない。

20210703_163434-220210703_163545-2

 第2章の「かろみの世界」で真っ先に目に入るのは、この赤い遊具である。
 ここだけ、色がある。(実際は違うけれども、そういう感じがする。)
 遊具らしい。
 今の公園に置けるかどうかは微妙かも知れないけれど、遊具である。
 何だかもう、そう聞いてしまうと、よじ登ってみたくて仕方がなかった。よじ登るのは無理にしても、ちょっと触ってみたい。
 つるつるして冷たい感じなのか、触ってみればざらっとして体温くらいなのか、気になる。鋼鉄製らしいから冷たいような気がする。

20210703_164516-2 作品群の中で唯一実際に触れることができたのは、このソファとオットマンだ。
 座ることができる。
 だから誰かは必ず座っていて、人がいなくなるのを大分待って写真を撮った。我ながら執念深い。
 もちろん、実際に座ってもみた。
 座面が低くて、リラックスするためのソファという感じがする。許されるものなら寝転がってみたかった。

 しかしこのフロアのメインは、「溶融亜鉛メッキ鋼板」を素材として作られた彫刻の数々である。
 そして「雨の山」とか「マグリットの石」とか「原子の積み藁」とか「座禅」とか、哲学っぽい作品名が付けられている。
 表面に浮かぶ模様は偶然に生まれるものらしい。
 そして、ちょっと折り紙っぽい感じがする。
 抽象的な作品名の作品が多い中「リス」の彫刻がなかなか可愛かった。このソファから見えるところに置かれていて、作品としてなかなかの特等席にいたのも良かった。

 第3章の「石の庭」は撮影禁止である。理由はよく分からない。
 タイトルのとおり、石を素材として作られた作品が置かれている。
 割ったまま、石として在ったときのままっぽい、ざらざらデコボコしたところと、パッと割って磨き上げた真っ平らな面とが組み合わされている作品が多かった、と思う。

 この石の庭の作品だけでなく、イサム・ノグチの作品って、本当に触って見たいという欲求を生むよなぁと思う。
 触ったらもちろんいけない訳だけれど、触って見たい。触りたい。手触りを確認したい。
 無題の作品が多かったのは、アトリエに残された発表していない作品だったからかなぁと思う。
 会場では、香川県のイサム・ノグチ庭園美術館を紹介する映像が流されていて、益々行ってみたくなった。

20210703_172322-2 閉館時間ぎりぎりまでいたので、ミュージアムショップに行く直前のところで、誰もいない「第1章」のお部屋を見ることができた。
 静かだけど温かい感じがする。
 こういうところを独り占めするって贅沢だろうなぁと思う。今、中に入りたい。

 ミュージアムショップでは、イサム・ノグチがデザインしたというコーヒーテーブルや、明かりの数々が販売されていた。
 かなり欲しくなったけれど、どちらも置く場所がない。
 コーヒーテーブルは受注生産だそうだ。
 私の一生の野望の一つに「イサム・ノグチのコーヒーテーブルと明かりが似合う部屋で暮らす」が加わった。

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2021.03.04

「佐藤可士和展」に行く

 2021年3月4日、国立新美術館で2021年2月3日から5月10日まで開催されている佐藤可士和展に行って来た。

 展示物自体が大きいこともあってかなりゆとりを持った展示がされており、かつ時間指定のチケットが販売されているため、かなりゆっくりのんびり見ることができた。
 動画撮影はNGだけれど、写真はほぼすべての展示室で撮ることができた。

 また、音声ガイドが変わっていた。
 QRコードが用意され、そこで読み込むと各自のスマホ等で音声ガイドを聞くことができる仕組みが用意されていた。こういう形の音声ガイドは、少なくとも私は初めてだ。
 イヤホンを持っている人はそれを使っていたし、「人との空間を保って聞いてください」という案内があり、人同士の距離を保つための工夫という面もあるのかなと思った。

 音声ガイドの半分くらいは佐藤可士和氏本人が語っていて、存命の人の美術展等にあまり行ったことがないからかも知れないけれど、これも初めての体験だった。
 贅沢だし、興味深い。

202103043 佐藤可士和といえばロゴである、というイメージが強い。
 美術展では「ブランディング」という言葉がよく使われていて、ロゴデザインに限らず企業イメージ全体をプロデュースする、というような意味で使われていたように思う。
 そもそも、国立新美術館のロゴ(恐らく、その他の様々なことを含めて)からして、佐藤可士和氏の作品である。

 展示の最初は、「6 ICONS」で、寡聞にして私は知らなかったのだけれど、佐藤可士和氏の原点というべき作品であるらしい。
 6つのアイコンは、全て「自分」を表現しているらしい、と受け取ったけれど正しかったろうか。
 大学の頃だったか卒業したての頃だったか、Macを使っていたそうで、当時のMacは起動しているときに読み込んだ機能拡張等のアイコンを画面下に並べて行っていて、これがコマーシャルだと理解した、という風にご本人がイヤホンガイドで語っていた、と思う。

 私は全く「創造」的なことには使っていないけれど、でも一応のMac userとして、発想の最初がMacだったというのが何だか嬉しい気がした。
 そうそう、あのアイコンたちって可愛かったよね、いつから並ばなくなっちゃったのかしら、と思ったりもした。

 展示も、LOFTもクリスマスカラーのショッピングバッグから、SMAPのCD販売戦略(でいいのか?)から、本の装丁から、TUTAYAのロゴから、ユニクロのニューヨーク&ロンドン(だったか?)進出から、今治タオルの起死回生策から、ふじようちえんの改築から、とにかく様々な「ブランディング」の成果が並んでいる。
 CDジャケットや麒麟麦酒の缶が並んでいたり、くら寿司の店内の様子がどんと大きく写真パネルで示されたり、つかだの鶏の絵の看板(多分、実物)が立て掛けられていたり、セブンイレブンのプライベートブランド商品のパッケージが壁一面に貼ってあったり、見ている側の人の動きと今検索されている言葉を融合させたインスタレーションがあったり、とにかく幅広い。

202103046_20210306111401202103042

 そういった「いつも目にする」物を見ているためなのか、写真パネルが多かったからなのか、本人が語るイヤホンガイドを聞いているからなのか、美術展を見ているとき、「何だかテレビを見ているみたいだな」と感じた。
 自分の目で今見ているし、そこにあることも分かっているのだけれど、こちらに能動的に見る余地が少ないからなのか、テレビを見ているように次々に差し出されるものを見せられている、という印象になったのかも知れない。
 よく分からない。

 でも、今思い返しても、やっぱりテレビを見ているようだったな、と思う。

 LINES/FLOWというお部屋が一番「美術展」ぽかったように思う。
 直線というのは自然界には存在していない、だからこそ直線に美を感じる、というコンセプトだったと思う。
 確かに人の手が加わっていない真っ直ぐなものってないかも、と思う。そんなことは考えたこともなかった。

 ここで、赤と青と銀色の3色を使うことに何かの意味があるんだろうなと思う。
 そういえば、佐藤可士和氏の作品にはこの3色を使っているものが多いように思う。
 そもそも、会場となっている国立新美術館のロゴだって赤である。楽天もユニクロも赤と白というイメージだ。

 ユニクロの場合は、世界に進出するに当たって「日本発」を強調したいというオーナーの意思があったという説明があったから、国旗のカラーリングということもあったのかなぁとは思う。
 赤と白という組み合わせは「日本ぽい」んだろうか。そしてそれは、日本人にとってというだけでなく、外国から見てもそういうイメージなんだろうか。

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 FLOWの方は、重力と動力だけで画材というか染料というかをキャンバスに落とすというか散らすというか、そうして「触れることなく」描いた作品である。
 こちらには直線はない。
 そして、白地に青で描かれている。
 この「青」は、ジャパンブルーを狙った藍ではなく、有田焼の釉薬の青の色をそのまま写し取ったのかしらと思う。

 自然界の造形を人工物に写し取る・移し替えるというと、ガウディの建築が思い浮かぶ。デザインと「重力」という言葉が繋がるところも何となくガウディっぽい。
 遠いところにありそうな感じを匂わせつつ、ふとしたところで繋がっている(ように感じられる)ところが楽しい。

 音声ガイドを丁寧に聞いたこともあって、1時間半近くの時間を過ごした。
 ゆっくり鑑賞できて良かった。

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2020.09.22

「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」に行く

 2020年9月16日、東京都美術館で2020年7月23日から今日(9月22日)まで開催されているThe UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクションに行って来た。

 元々の開催機関が9月13日までだったところを10日間延長し、かつ、20分刻みの日時指定チケットが採用されていた。
 9月初旬にチケットを購入したときには、各日各回30〜40枚くらいのチケットがまだ残っていたところ、実際に行ってみるとチケット完売の張り紙が出ていた。
 いいタイミングでチケットを購入したのかも知れないと思う。

 太田記念美術館、日本浮世絵博物館、平木浮世絵財団の浮世絵コレクションが集められた展覧会は初めてだそうだ。このうち、私が行ったことがあるのは太田記念美術館だけだ。
 8月25日を境に、前期と後期で展示作品を総入れ替えしたそうで、前期も行きたかったと思うけれど後の祭りである。
 出品総数約450点ということだから、半分を見られたとして225点、これはかなりの出展数だ。私は美術展に行くと1時間くらいで見終わることが多いけれど、今回は気がついたら1時間半経っていた。

 200点以上を1枚1枚見ることなんて想像できない。
 「菱川師宣」「鈴木春信」「喜多川歌麿」「東洲斎写楽」「葛飾北斎」「渓斎英泉」「歌川広重」といった、私でも名前を知っている浮世絵師達の絵を中心に、他はちらりと見るくらいで回ったのに、1時間半である。

 日時指定チケットではあるものの、「だから空いている」ということもなかった。
 最前列で絵を見ようとすると、辛抱強く列になって見て行くほかない、というくらいの入場者数だ。
 これだと、イヤホンガイドがある絵の前では渋滞が起きるし、近づいたり離れたり角度を変えたりして見ることが難しいので、どうしても最前列で近づいて見たいという絵の他は、一重から二重の人垣の後ろから絵を見ていた。

 もうとにかく色々な絵がありすぎて、見て歩きながら「ところで浮世絵って何だっけ?」と思っていた。
 実のところ、今でもよく分からない。本展のホームページを見ると「浮世絵は、江戸時代の庶民たちに愛好された、日本を代表する芸術の一ジャンルです。」と書いてあるのみで、それで、「どういう絵が浮世絵なの?」という疑問への答えはない。
 それくらい、色々なタイプの絵があったということである。

 この展覧会は5部構成になっていて、3フロアで展開されていた。
 「第1章 初期浮世絵」では、役者絵もあったし、吉原を描いた絵もあったし、美人絵もあった。最初の最初は墨一色で描いていたようで、そのうち赤が乗り始める。
 江戸庶民の「自分では体験できない憧れ」を絵にして飾れるようにしたことが始まり、ということだろうか。
 ここで菱川師宣と出会える。
 色々な絵がありすぎて、最初の方に見た絵などは地味すぎて、「それで、結局のところ浮世絵って何?」という疑問が浮かんだ。

 第2章 錦絵の誕生では、私のイメージしている「浮世絵」に近づいて、何だかほっとした。
 個人的に贅を尽くしたものを求める人が増えたということで、多色刷りが始まり、画面が華やかになっていったようだ。
 風景を描いた絵の中に遠近法を極端に用いたものがあって(ここだったと思う。作者も絵のタイトルも覚えていない)、こういう西洋画の手法を取り入れたのは葛飾北斎が最初だと思っていたよ、と驚いた。モノを知らないと、あちこちに驚きの種が溢れている。
また、ここに来て背景が描いてあったり塗ってあったりするのを見て、草創期の浮世絵の素っ気なさは背景がなかったり一部だけだったりしたせいか! と思った。

 鈴木春信も描いていた瀬川菊之丞という役者の絵がこの後も結構展示してあって、相当の人気役者だったのね、ここで描かれている瀬川菊之丞は一人じゃなくて「*代目」という感じで複数いるんだろうなぁ、そういえばJINにも同名の歌舞伎役者さんが描かれていたな等々と思う。
 北斎の師匠であった勝川春章もこの時代の人だ。
 写楽の役者絵は、徹頭徹尾異端で写楽だけのものかと思っていたら、全身ではなく役者の顔をどアップで捉えた絵も描いていて、こちらもちょっと驚いた。
 やはり積み重ねというものはあるんだよなと思う。

 第3章 美人画・役者絵の展開では、画面がより一層華やかになる。敢えて言い換えると、派手好みだ。
 ここはもう喜多川歌麿の美人画と、東洲斎写楽の役者絵である。
 美人画は、江戸時代の美人はこういう女性たちだったのね、という感じだ。というか、目鼻立ち以上に、お着物だったり髪だったり仕草や表情だったりの雰囲気美人がもてはやされていたのでは? という印象だ。あと、表情もポイントだったような気がする。

 写楽の役者絵は、背景を黒く塗り、かつその背景がきらきらと光っているところで勝負あったという感じだ。
 これが刷り立てで、もっと黒くてもっとキラキラが目立っていたら、さぞや派手、さぞや非日常だったんだろうなぁと思う。「欠点も特徴として大胆に描いた」的な説明が多い写楽の役者絵だけれど、別に欠点を赤裸々にしているようには見えない。当時の一般的な美男美女では亡いかも知れないし、多くの絵が盛っている中では目立ったのかも知れないけれど、役者じゃん、芸を際立たせようとする絵じゃん、と思う。

 第4章 多様化する表現は、私の中では地味目のコーナーだった。
 最初に北斎の絵が3枚あって、その後が続かなかったので「物足りない!」と心の中で叫んでしまったくらいだ。
 団扇用の絵が面白くて、この絵は実際に使ったのかしら、実際につかうのだとすると版画という手法は同じ絵をたくさん作るのに向いているよな、道具にまで浮世絵が広がってきたということは、誰にでも手に取れるものになったということかしら、と思ったりした。

 第5章 自然描写と物語の世界で、葛飾北斎の富嶽三十六景と歌川広重の東海道五十三次が出てくると、とりあえず満足だよ、という気分になる。
 気のせいか、北斎の絵の青や赤がくすんでいるように見えて、そこだけちょっと残念だった。五十三次の絵の方が保存状態が良い感じに見えた。
 藍一色で描いた絵もあって、墨一色で始まった浮世絵が、散々豪華絢爛を極めた後で藍一色に戻るって何だか気が利いている感じだわと思う。もっとも、「藍一色」の方は、敢えて表現として選んでいるのだから、一緒にしてはいけないのかも知れない。

 とにかく盛りだくさんすぎて、「色々なものを見た!」という印象が強すぎて、もやもやしている感想を書くのが難しい。
 そういう「浮世絵展」だった。
 浮世絵って何? の答えは、「浮世絵って何でもありなのね!」でいいような気がした。

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2020.06.24

「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」に行く

 2020年6月24日、国立西洋美術館で2020年6月18日から10月18日まで開催されているロンドン・ナショナル・ギャラリー展に行って来た。

 元々は2020年3月3日から6月14日まで国立西洋美術館で開催される予定で、新型コロナウイルス感染症対策のため、会期が延長になっていた。このまま国立西洋美術館では開催されなくなってしまうのではないかと心配していたので、開催されて嬉しい。

 6月18日からの会期では、事前に日時指定のチケットを購入する必要がある。
 当日券の販売はない。
 この先どうなるか分からないのだから、行けるときに行っておいた方が良い。
 週末のチケットは売り切れ必至だろうと、平日のチケットを購入した。実際に行ってみると「本日のチケットは完売」の掲示がされていた。

 日時指定ではあっても完全入れ替え制ではない。
 それでも、普段の週末に行くのとは雲泥の差で、じっくりゆっくり見ることができた。
 入口でのアルコール消毒を促され、マスクは必携(だと思う)、館内のベンチは一人置きに座るよう表示され(二人掛けのベンチは一人用になる)、ミュージアムショップは入口で入店者数を調整していた。

 ロンドン・ナショナル・ギャラリーがまとまった数の絵画を貸し出すことは今回が初めてだそうだ。
 今回来日した61点は全て「日本初公開」である。

 全体は、以下の構成になっている。

Ⅰ イタリア・ルネサンス絵画の収集
 この部屋の印象は「マグダラのマリアが目立っている」に尽きた。
 絵としては、「聖絵ミディ薄を伴う受胎告知」がくっきり鮮やかだし、大きいし、細かく描きこまれていて、目立つ。マリアにだけ届いている光が、ほとんど「円盤から発射されたビーム」に見えるところも面白かった。

Ⅱ オランダ絵画の黄金時代
 私が「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」に行きたいと思ったのは、フェルメールの「ヴァージナルノ前に座る若い女性」が初来日するからだ。
 その絵が、ここにある。
 何だか色々と描き込まれたごちゃっとした絵だな、という印象だ。その中で、若い女が来ている白い服の袖だけがやけに目立っている。
 フェルメールが一人の人間のつま先から(ドレスで見えない)頭まで描くのは珍しいのではなかろうか。

 もう一点の見どころが、レンブラントの自画像だと思う。
 何というか、初めて見る筈なのに「見慣れた自画像だ」という印象になるのが可笑しい。多分、レンブラントが何点も自画像を描いていて、かつ、どの絵も描かれた本人の年齢が違っていたとしても、「俺はひとかどの人物なんだ」というコンセプトが同じだからだと思う。
 今回来日しているのは「34歳の自画像」である。

Ⅲ ヴァン・ダイクとイギリス肖像画
 ヴァン・ダイクという画家は確かオランダ人だったと思うけれど、イギリスに長く滞在して肖像画家として活躍したそうだ。
 彼が「イギリス肖像画界」に与えた影響はかなり大きい、らしい。
 この人が描いた「レディ・エリザベス・シンベビーと アンドーヴァー子爵夫人ドロシー」は「妹が先に嫁に行くことになった姉妹」の絵で、そう説明されると何だか色々と想像できそうでありつつ、描かれた二人の女性は別にどろどろしたものを感じさせない風で良かったと思う。

Ⅳ グランド・ツアー
 18世紀のイギリスのお金持ちかつ身分が高い人々の間では、イタリアなどに若者を武者修行(というよりは、もうちょっとお金持ちな「可愛い子には旅をさせろ」的な雰囲気)に出すことが流行っていたそうだ。
 そうして外国に出た余裕のある若者たちは、お土産として現地の絵を購入したり、現地の文物と自分の絵を描かせたりして、イギリスに持ち帰ったらしい。
 ヨーロッパ大陸から離れたイギリスだから、外国への憧れ的なものも強かったのかしらと思う。
 多分、「吾こそは」という気概はその何倍も強かったに違いない。

Ⅴ スペイン絵画の発見
 遠い割に「お互い、海運と海軍で世界征服を目指している」ところで共感と敵愾心を持った国同士、という位置づけらしい。
 スペイン独立戦争にイギリスが参戦したことを契機に絵画面の交流も始まり、将であったウエリントン将軍をゴヤが描いた「ウエリントン公爵」という絵が小さくて地味な割に大きく扱われている。
 「裸のマハ」「着衣のマハ」を想像しているとうっちゃられる感じだ。
 ベラスケスにせよ、エル・グレコにせよ、私が持っているイメージよりずっと地味目の絵が来日していた。

Ⅵ 風景画とピクチャレスク
 一番よく分からなかった部屋である。
 理想的な風景って何なんだ、と思う。

Ⅶ イギリスにおけるフランス近代美術受容
 要するに(もの凄く乱暴に書くと)印象派である。イギリスで印象派の絵の収集が始まったのは20世紀に入ってからだそうで、人気がなかったんだなぁと思う。かつ、後発でこれだけの絵を集めたということは、20世紀初頭のイギリスは本当にお金持ちだったんだなとも思う。

 モネの「睡蓮の池」の絵が、「こんなに明るい睡蓮の絵は初めてかも」というくらい明るい印象で好ましい。
 ゴッホの「ひまわり」は、アルルでゴッホが描いた7枚のひまわりのうちサインを入れた2枚のうちの1枚だそうだ。ゴーギャンの寝室に飾られたというし、「会心の一枚」ということだと思う。モネの「睡蓮」とは別の明るさがある。ただ、こちらは、暗さを内包した明るさ、という感じがした。

 という感じで、1時間弱、堪能した。
 見られないかもと思っていた絵画展をじっくりゆっくり見ることができて嬉しかった。

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2020.01.05

「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」に行く

 2020年1月、江戸東京博物館で2019年11月19日から2020年1月19日までまで開催されている大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演に行って来た。

 1月4日の午前10時半過ぎに到着したところ「混雑しています」の看板が出ており、チケット売り場も20人弱くらいの行列になっていた。
 あと2週間弱だし、駆け込みで年末年始のお休みに来た人が多かったのだと思う。浮世絵って何だかお正月っぽい感じもある。

 タイトルのとおり、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳の5人の浮世絵が展示されていた。
 3人で1時間後に出口で待ち合わせしましょうと確認して見始める。

 しかし、結構な行列で常に二重三重の列が絵の前を進んでいる感じである。
 これは最初から見ていたら見終わらないだろうと思い、また入口付近は大抵混雑しているので歌麿を飛ばし、写楽のコーナーから見始めた。

 写楽が最初に出した28枚の役者絵からの浮世絵が中心だった、と思う。
 役者の特徴を強調しすぎるくらい強調し、顔は大きく手は小さく、背景は黒雲母刷という派手なシリーズである。
 その筈だけれど、こちらが見慣れてしまったのか「ぎょっ」とするような感じは受けなかった。
 むしろ、「こんなに小さかったっけ?」「意外と地味?」という印象である。

 やはり悪役を描いた絵が楽しい。
 何というか「写楽らしい」感じがする。

 同じ浮世絵で別の美術館に所蔵されているものが2枚並べて展示されているものもある。
 刷りの違いなのか、保存の違いなのか、色の残り方や背景の割れ方が全く違う。赤味の残り方で役者の顔の印象も全く違っていて驚く。
 中でも、4 代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛は、2点で着物の色が違っていて、こういうのもあったんだと驚いた。片方は赤い着物、もう片方は青い着物だから、本当に違う。
 私はどちらかというと青い着物の方が他の赤味(目元)が目立って格好いいんじゃないかと思った。

 続いて葛飾北斎のコーナーである。
 富嶽三十六景、諸国瀧廻り、諸国名橋奇覧、千絵の海から出展されていて、テーマは「水」のようだ。
 こうしてみると、富嶽三十六景って水とともに富士山の絵を描いていることが多いのだなぁと思う。
 以前に波の様子を高速カメラで撮ったところ、波しぶきの先端が北斎の描く波とほぼ同じ形をしていた、というテレビ番組を見たことを思い出した。
 葛飾北斎の真骨頂は、その観察力にあるのかも知れない。
 きっと、凄く目のいい人だったんだろうなぁと思ったりする。

 そういえば、今、パスポートを作るとスタンプを押すページに富嶽三十六景が描かれているのではなかったろうか。
 サイトを見ると、「神奈川沖浪裏」の説明として「世界で最も有名な絵」と書いてあり、だからこそのパスポートへの採用なんだろうなと思ったりした。

 景色の浮世絵が多い中、数枚、植物を描いた絵も展示されていて、その中の芥子の花の絵には、この神奈川沖浪裏との構図の類似が指摘されていた。要するに、北斎はこういう構図が単に好きだったんじゃないかしらとも思う。
 北斎の浮世絵は西洋画に大きな影響を与えたと言われ、一方で遠近法は恐らく北斎が西洋画から学んだもので、交流って大事、と思う。
 前にドラマで北斎がラピスラズリを絵の具に使うというようなシーンがあったけど、版画にも使っていたのかしらなどとも思った。

 もうこの二者を見ただけで30分以上が過ぎていたので、歌川広重の浮世絵は「葛飾北斎と同じ場所を描いた」という絵を中心に見た。
 気のせいか、広重の浮世絵の方が色がくっきりと残っているものが多いように感じた。
 元々、くっきりはっきりした絵を描く人なのかも知れない。

 ついでに言うと、構図の選び方としては北斎よりもむしろ広重の方が好きかも、と思った。
 極端な遠近の使い方というか、もの凄く近くにあるものとかなり遠くにあるものとを組み合わせている絵が結構ある。その極端さはかなり好みだ。
 深川万年橋の亀をどアップで描き欄干の間から隅田川を望む絵なんて本当に好みである。

 1時間では全然時間が足りなくて、結局、歌麿と国芳はほとんど見られず仕舞いだった、勿体ない。
 もっとゆっくり見に行けたら良かったなぁと思っている。
 しかし、お正月に浮世絵を見るというのもなかなかいい感じの新年の始まりだったわと思っている。

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